第163話 「いいです」が増えると危ない
「隣にいていいか」
「……いいです」
昨日の返事は、確かに“確認”だった。
命令でもお願いでもない。
だから安全――のはずなのに、朝から胸の奥がそわそわする。
“いいです”は便利だ。
便利すぎて、増えると危ない。
医務室の前で、フィンがすぐに寄ってきた。
「先生、昨日“いいです”言ったよね」
「言ってません!」
「言ったって皆が」
「皆って誰!」
ローガンが咳払いで笑う。
「先生、砦は耳がいい」
「良くなくていい!」
マルタが腕を組んで淡々と言った。
「先生、“いいです”は増える」
「増やしません!」
扉を開けると、カイゼルがいる。腕章『先生係』。ぴしっ。
今日は紙も札もない。偉い。
でも目が言っている。
(今日は、確認する)
「おはよう」
「おはようございます」
私は先に言った。
「今日は、“いいです”を乱用しません」
「乱用?」
「はい。すぐ許可しない」
「……分かった」
即答。素直。怖い。
診察開始。
「ここ。吐こう。長く」
息が戻る。肩が落ちる。
今日は落ち着いてる。
よし、私も落ち着く。……落ち着け。
午前の終わり。
騎士が診察を終えて立ち上がり、少し迷ってから言った。
「先生、今……話していいですか」
確認。上手い。
「いいよ」
私は頷いた。
……しまった。早い。
でも患者の顔が少しほどけた。ならいい。
騎士が小さく笑って言う。
「俺、隣にいてほしい人に、言ってみます」
「うん。言ってみて」
これも“いいです”。
増えてる。危ない。
窓の近くでカイゼルが目で一回だけ「はい」。
その“はい”が、また許可みたいに見えてしまう。
私は慌てて息を吐いた。長く。戻る。
昼休み。
私は水を飲みに廊下へ出た。
当然みたいに隣に並ぶ影。歩幅が合う。
その瞬間、カイゼルが低い声で言った。
「確認していいか」
「……何を」
「今、隣にいていいか」
また。
また確認。
昨日“いいです”と言ったから、今日も来た。
私は心の中で叫んだ。
(乱用しないって言ったのに!)
私は一度だけ息を吐いてから、言い換えた。
「……今は、水を飲むだけです」
「だから」
「だから、静かに」
「……分かった」
断ったわけじゃない。
許したわけでもない。
“条件付き”。
私、偉い。たぶん。
午後。
薬草棚の前で私は小瓶を並べていた。
指が滑って、瓶が落ちそうになる。
隣の手が伸び――受け止める。反射。
カイゼルが小さく言った。
「すまない」
「謝らなくていいです。助かりました」
……助かりましたも、ほぼ“いいです”だ。
私は頭を抱えたくなった。
増える。許可が増える。返事が増える。
そして増えた分だけ、隣が当たり前になる。
夕方。
診察が終わって、医務室の扉を閉めた。
廊下にカイゼルがいる。待つ顔。待つ姿勢。
そして、低い声。
「確認していいか」
「……またですか」
「まただ」
「何を確認するんですか」
「今日」
カイゼルが少しだけ声を落とす。
「隣にいてくれて、いいか」
……ずるい。
昼の“静かに”を、ちゃんと守った顔をしてる。
謝らずに、命令せずに、確認してくる。
断れるはずなのに、断りにくい。
私は長く息を吐いて、白いリボンを握りしめた。
そして、小さく言う。
「……いいです」
言ってしまった。
“いいです”が、また増えた。
危ない。
でも、カイゼルが静かに息を吐いて戻るのを見ると――
その危なさも、悪いだけじゃない気がしてしまう。




