第16話 甘い花は、宮廷に咲く
礼拝堂から戻っても、鼻の奥に甘い匂いが残っていた。
私は回収した小袋を、布で何重にも包み直す。これ以上、誰の眠りも邪魔させない。
「先生、それ……燃やすか?」
ローガンが低い声で言う。
「ううん。燃やすと匂いが広がる。水で弱らせてから、外で流す」
「先生って、そういうとこ手堅いよな……」
その晩、私は皇帝の部屋の前室で、小さな布袋をいくつか作った。甘い花じゃない。すっとする薬草の匂い。息を整える合図になるくらい、弱めに。
「それは何だ」
カイゼルがじっと見てくる。
「“戻ってくる匂い”です。嫌な夢を見ても、現実のほうに戻れるように」
「……お前は、夢まで守る気か」
「守るっていうより、手を引いて戻すだけ」
皇帝は少し黙ってから、珍しく小さな声で言った。
「……助かる」
そのとき廊下の向こうで、ばたばたと足音がした。フィンが息を切らして飛び込んでくる。
「先生! 鈴の音、聞こえた!」
「どっち?」
「温室の方だ! ……誰か、走ってった!」
温室。皇帝の目が、すっと冷えた。
「案内しろ」
「陛下、走らない!」
「……分かった」
私たちは息を乱さない速さで温室へ向かった。ガラスの向こうに、薄い月明かり。扉は閉まっているのに、甘い匂いだけが風に乗っている。
「ここ、開けた人がいる」
マルタが地面を指さす。土の上に小さな足跡。――子どものじゃない。細くて軽い、でも迷いがない。
温室の隅、花の鉢の影に、もう一つの小袋が落ちていた。
私は布でつまみ、匂いを吸い込まないように息を止める。
「同じ匂い……でも、さっきより濃い」
皇帝が低く言った。
「その花は“月蜜花”だ。ここでしか育てていない」
胸がひやりとした。つまり――この場所に入れる人がいる。しかも、わざわざ“ここ”の匂いを使った。
フィンが悔しそうに拳を握る。
「俺、追いかけたのに……逃げられた」
「追いかけて転んでたら、今ごろ私が治療してる。止まれてえらい」
「……え、褒められてる?」
私は頷いてから、皇帝を見る。
「陛下。相手は“私たちを眠らせない”んじゃない。眠れないようにして、判断を鈍らせたい」
「だから、お前を狙う」
「うん。でも、もう一人で抱えません。フィンも、ローガンも、マルタもいる」
皇帝はしばらく私を見て、それから短く言った。
「……明日、温室の出入りを調べる」
私はすぐ返す。
「調べる前に、今夜は寝ましょう」
「……今夜は寝る」
言い切ったあと、皇帝は少しだけ悔しそうに付け足した。
「お前もだ」
私は小袋を布に包み直し、息を整えた。
甘い花は、宮廷に咲いている。敵は、思ったより近い。
(でも――近いなら、見つけられる)
そう思って、私はゆっくりと息を吐いた。




