第155話 「お願い」の練習台は私じゃない
医務室の前に、また黒板が立っていた。
消したはずなのに、朝になると復活している。呪いだ。
フィンが両手を上げて叫ぶ。
「先生! 今日も“お願い”の練習しよ!」
「しない!」
「昨日、皆ちょっと上手くなったじゃん!」
「上手くなる方向が違うの!」
ローガンが咳払いで笑いを隠す。
「先生、もう砦の朝礼だな」
「朝礼にしないでください!」
マルタが腕を組んで淡々と言った。
「先生、逃げ場なし」
「逃げ場あります!」
その“逃げ場”を塞ぐみたいに、静かな足音が来た。
カイゼル。腕章『先生係』。今日もぴしっ。
黒板を見て、短く言う。
「続けるのか」
「続けません!」
「続ける」
「勝手に決めないでください!」
私は深呼吸して、医師の声を出した。
「いいですか。“お願い”は便利な言葉です。でも、相手と場面を選びます」
騎士たちが真面目に頷く。真面目すぎる。
「まず、息」
私は白いリボンを揺らす。
「ここ。吐こう。長く」
廊下が一斉に息を吐いた。やめて、反射が完璧すぎる。
「次に、短く言う。『お願い』」
フィンが元気よく復唱する。
「お願い!」
「声が大きい!」
「気合い!」
「最後に、具体的に言う。何をしてほしいか」
ローガンが咳払いでぼそっと言う。
「先生、具体例が必要だな」
「いりません!」
「いる」
マルタが即答した。こわい。
仕方なく、私は“安全な練習台”を用意した。
机。
ただの机。
私以外の、誰も赤くならない相手。
「今日は机に向かって練習します」
フィンが拍手しそうになってマルタに止められる。
「天才!」
「天才じゃない!」
騎士たちが机に向かって真顔で言い始めた。
「机……お願い……」
「机……持って……」
だめだ、真面目すぎて逆に面白い。
ローガンが咳払いで突っ込む。
「先生、机が困ってる」
「机は困りません!」
そのとき、カイゼルが机の前に立った。
姿勢ぴしっ。
声も低くて静か。
そして――やけに真剣。
「……机。お願い」
周りが息を止めた。私も止めた。なんで。
「……隣にいろ」
「机に隣はありません!」
私が叫ぶと、フィンが肩を震わせ、ローガンの咳払いが完全に笑いになり、マルタが天井を見た。
「先生、机が犠牲」
私は額を押さえた。
「陛下! お願いの相手、間違ってます!」
「間違っていない」
「机です!」
「机は練習台だろ」
「そうですけど、そこに“隣”を乗せないでください!」
カイゼルは真顔のまま言う。
「私は練習している」
「どこを!」
「言い方を」
「言い方以前の問題です!」
私はもう一度、線を引いた。
「お願いは、相手に負担をかけないための言葉です。相手が困る言い方はだめ」
騎士たちがまた真面目に頷く。
カイゼルも頷く。真面目に。そこだけ真面目に。
「……なら」
カイゼルが私を見る。逃げない目。
「困らない相手に言う」
「机に言いましたよね!」
「机は返事をしない」
「返事を求めないでください!」
「求める」
「やめて!」
フィンが小声で言った。
「先生、陛下、返事も欲しいんだって」
「実況しないで!」
私は観念して、最終的な結論を貼り出した。
黒板に大きく書く。短く。
『お願いは、仕事のときだけ』
「短いな」
ローガンが咳払いで言う。
「短くしました!」
マルタが頷く。
「良い」
ところが、カイゼルは一拍置いて、淡々と言った。
「仕事だ」
「何がですか」
「先生係の仕事」
「またそれ!」
「……お願い」
低い声。近い距離。
「やめてください!」
「……持ってくれ」
「何を」
「お前の手」
廊下の空気が、ぴたりと止まった。
フィンが声にならない声を出し、ローガンが咳払いで爆発しそうになり、マルタが静かに言った。
「先生、普通、崩壊」
「仕事じゃない!」
私は真っ赤になって、白いリボンを握りしめた。
「練習台は机です! 私は違います!」
カイゼルが、少しだけ目を細める。
「……なら」
「なら?」
「机の前で言う」
「そういう問題じゃありません!」
もうだめだ。
“お願い”の練習は大事。
でも一番の問題は――皇帝のお願いが、どこまでも真面目で、どこまでもずるいことだった。
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