第149話 「頼んだ」記念日が増える
「よく、頼んだ」
昨日の一言が、夜の間ずっと残っていた。
残っているのに、重くない。
むしろ、胸の奥が少し軽い。……悔しい。
朝、医務室へ向かう廊下で、フィンが小走りで追いついてきた。
「先生! 昨日、陛下に“頼んだ”よね!」
「声を大きくしないで!」
「記念日だ!」
「記念日にしないで!」
ローガンが咳払いで笑いを隠す。
「先生、砦は記念日好きだぞ」
「好きじゃないです!」
マルタが腕を組んで淡々と頷いた。
「好き。理由があると動ける」
「動かなくていい!」
扉を開けると、もういる。
カイゼル。腕章『先生係』。今日もぴしっ。
そして――机の上に、小さな紙。
『本日の報告:先生は頼めた』
「……陛下」
「ここだ」
「それ、やめてください」
「事実だ」
「事実でも書かないでください!」
「書く」
「書くな!」
フィンが肩を震わせる。
「先生、報告書になってる」
「報告書にしないで!」
診察が始まる。
「ここ。吐こう。長く」
騎士が息を吐き、肩が落ちる。
帰り際、騎士が紙をちらっと見て、真面目に言った。
「先生、俺も……頼んでいいですか」
「何を!」
「陛下に、先生係を頼むやつ」
「頼むやつって何!」
ローガンが咳払いで笑いを噛み殺す。
「先生、砦、真似するぞ」
「真似しないで!」
私は白いリボンを揺らして、線を引いた。
「頼むのは、必要なときだけ。医務室の中では、呼吸が優先」
騎士が頷く。素直。
……素直すぎて怖い。みんな真面目に運用する。
昼休み。
私は机の紙をひっくり返して裏返した。
書いてある文字が消えるわけじゃないけど、見えないだけでも救い。
「陛下、記念日にしないでください」
「記念日ではない」
「なら何ですか」
「確認だ」
「確認って何ですか」
「お前が頼めると、戻りやすい」
「戻りやすいのはいいですけど……」
カイゼルが少しだけ声を落とす。
「お前が一人で抱えるのは、嫌だ」
真面目な声。
真面目だから、逃げられない。
私は息を吐いて、うつむいた。
「……分かりました。でも、紙はやめて」
「分かった」
即答。素直。怖い。
そして、紙を畳んで外套の内側にしまった。見せない、という意味で。
午後。
診察の合間、私は薬草の箱を運ぼうとして持ち上げ――重い。
持ち上げた瞬間、隣の気配が動きかけて、止まる。
また我慢してる。真面目すぎる。
……私は、昨日より少しだけ上手になっていた。
「陛下」
「ここだ」
「……持ってください」
言えた。
声が震えたけど、言えた。
カイゼルの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「分かった」
そして、箱を軽々持ち上げる。
フィンが遠くで小さくガッツポーズしている。やめて。
ローガンの咳払いがなぜか祝砲みたい。
マルタが淡々と頷いた。
「先生、進歩」
私は顔が熱くなって、でも逃げずに息を吐いた。
長く。戻る。
カイゼルが、箱を運びながら低く言う。
「……よく、頼んだ」
「また言う」
「言う」
「毎日にしないでください」
「毎日ではない」
「じゃあ何ですか」
「頼んだ日だ」
「増えるじゃないですか!」
「増やせ」
私は思わず笑ってしまった。
頼んだ記念日が増える。
それは、きっと悪いことじゃない。
……少なくとも、私の心臓が忙しくなるくらいには。




