第148話 欲張らない練習
(明日、私が欲張らなければいい)
昨日の私は、そう思って寝た。
そして朝、起きた瞬間に思った。
……欲張らないって、どうやるの。
医務室の扉の前で、私は一度だけ深呼吸した。
(今日は平常運転。言葉に期待しない。目も見ない。心臓も落ち着け)
完璧な計画。……扉を開けるまでは。
扉を開けた瞬間、フィンが飛び出してきた。
「先生! 今日、欲張らない日?」
「言うな!」
「言っちゃった」
「言うなって!」
ローガンが咳払いで笑いを隠す。
「先生、欲張らないって宣言した時点で負けだぞ」
「宣言してません!」
マルタが腕を組んで淡々と言った。
「先生、顔がもう欲張り」
「違います!」
そして静かな足音。
カイゼルが入ってくる。腕章『先生係』はいつも通り。
……でも今日、札がない。紙もない。
珍しい。平和。最高。
「おはよう」
「おはようございます」
私は警戒しつつ言った。
「今日は、静かに」
「分かった」
即答。素直。怖い。
診察開始。
「ここ。吐こう。長く」
騎士が息を吐く。肩が落ちる。
窓の近くの影が、目で一回だけ「はい」。
私は止めない。よし。
今日は、いける。欲張らない。
……いけると思ったのは、午前の終わりまでだった。
机の上に置いた薬草の袋が、少しだけ口を開けていた。
私が閉めようとすると、隣から手が伸び――かけて、止まる。
カイゼルが拳を握って我慢している。
“頼んだときだけ”を守っている。
その我慢が、妙に胸に刺さった。
刺さって、私はつい言ってしまう。
「……陛下、いいです。やってください」
「頼みか」
「頼みです」
「分かった」
カイゼルが袋を閉め、机の端を整え、窓を少しだけ開ける。
ほどほど。控えめ。完璧。
完璧すぎて――私は、口を滑らせた。
「……よく」
自分で言った。
やばい。
フィンが「うわ」と顔で言い、ローガンの咳払いが爆発しかけ、マルタが天井を見た。
カイゼルの目が、ぴたりと私に刺さる。
「今、言ったな」
「言ってません」
「言った」
「言ってない!」
「……嬉しい」
「嬉しいって言わないでください!」
「嬉しい」
私は顔が熱くなって、白いリボンを握りしめた。
欲張らない練習、どこ行った。
昼休み。
私は机に突っ伏した。
「……私、だめ」
マルタが淡々と答える。
「だめではない。学習中」
「学習って何……」
フィンが小声で言う。
「先生、欲張らないって、欲張りを減らすんじゃなくて、欲張りを自覚することからだよ」
「それっぽいこと言わないで!」
ローガンが咳払いで締める。
「先生、結局、陛下に言わせる前に自分で言ったな」
「言ってません!」
「言った」
「言ったかも……」
夕方。
診察が終わって、私は外套を羽織ろうとして、紐が絡まった。
ほどけない。焦る。
隣の気配が動きかけて、止まる。
また我慢している。
私は息を吐いて言った。
「……陛下、手伝ってください」
「頼みか」
「頼みです」
「分かった」
カイゼルが紐をほどき、結び直す。指先が器用すぎる。
そして結び目を指で押さえたまま、低く言った。
「よく、頼んだ」
……ずるい。
欲張らない練習は失敗した。
でも、頼むのが下手な私には、その一言が妙に効いた。
私は長く息を吐いて、小さく返した。
「……ありがとうございます」
欲張らないは無理でも、戻るのは続けられる。
たぶん、それでいい。




