第146話 「よく」の続きが欲しくなる
「よく」
たったそれだけ。
なのに、昨日の夕方から胸の奥が変だった。
短いから楽。
短いから重くない。
……なのに、短いせいで気になる。
続きを、勝手に探してしまう。
(よく、何)
(よく、頑張った?)
(よく、戻った?)
(よく……)
朝、医務室に入る前に私は自分の頬を叩いた。
(落ち着け。医師。言葉の続きを想像するな)
扉を開ける。
カイゼルがいる。腕章『先生係』。今日もぴしっ。
そして手元に、例の札。
『よく(予備)』
「……陛下」
「ここだ」
「予備って何ですか」
「足りないときのため」
「足りないって言わないでください!」
「足りない」
「やめて!」
フィンが後ろで肩を震わせる。
「先生、昨日“よく”効いてたもんね」
「効いてません!」
ローガンが咳払いで笑いを隠す。
「効いてた」
マルタが淡々と頷いた。
「効いてた」
私は白いリボンを揺らして話を切った。
「はい、診察します!」
診察は順調だった。
「ここ。吐こう。長く」
息が戻る。肩が落ちる。
戻る合図は目で一回。静か。平和。
……平和のはずだった。
昼前。
薬草棚の上の瓶が、少しだけずれていた。
私は手を伸ばして――指が届かない。背伸び。届かない。
その瞬間、背後の気配が動いた。
先生係が働こうとする気配。
でも昨日のルール――「頼んだときだけ」。
カイゼルは一歩出かけて、止まった。
我慢の塊。
拳がぴくぴくしてる。怖い。
「……陛下」
「頼め」
低い声。即答。
「頼まないでください!」
「頼め」
「命令にしないでください!」
「……頼む」
急に柔らかい。反則。
私は息を吐いて、負けた。
「……取ってください」
「よく」
「今じゃない!」
カイゼルが瓶を取って、そっと私の手元に置く。
その一連が丁寧すぎて、逆に胸が忙しい。
フィンが小声で言った。
「先生、陛下、瓶取っただけで“よく”言った」
「言わないで!」
ローガンが咳払い。
「先生、もう“よく”が挨拶になってきたな」
「挨拶にしないでください!」
午後。
患者が帰ったあと、私は机に座って記録をつけていた。
ペンが止まる。
“よく”の続きが頭に浮かぶ。勝手に。
私はこっそり顔を上げて、窓の近くの影を見る。
カイゼルがこちらを見ていた。
……見られてた。恥ずかしい。
「何だ」
「何でもありません」
「嘘だ」
「嘘じゃありません」
「……続きが欲しいのか」
「欲しくありません!」
即否定したのに、頬が熱い。
ローガンの咳払いが遠くから聞こえた。
「先生、顔が答えてる」
「答えてません!」
カイゼルが一歩近づく。
腕章が見える距離。
外套の内側の結び目に指先が触れている。
「続き」
低い声。
「言う」
「言わないでください!」
「言う」
「……必要な日だけって言いましたよね!」
「今日だ」
「今日ですか!」
「今だ」
「今なんですか!」
私は息を吐いて、逃げ場を探した。
でも逃げ場はない。皇帝の目が逃がさない。
カイゼルが、やけに真面目に言った。
「よく、戻した」
「……」
「よく、守った」
「……」
「よく、笑った」
短い言葉が、三つ。
軽いはずなのに、胸の奥に積み重なる。
私は言葉が出なくて、ただ長く息を吐いた。
「……先生」
フィンが小声で言う。
「続き、もらっちゃったね」
「言わないで!」
私は白いリボンを握りしめた。
“よく”の続きが欲しくなるなんて、私はどうかしてる。
でも、もらってしまった今――もっとどうかしてるのは、胸の奥の静かな嬉しさだった。




