第142話 「いい日」量産事件
昨夜の私は、確かに言った。
「……今日、いい日です」
言った瞬間、胸の奥がほどけた。
そして気づかなかった。
その言葉が、砦の“合図”になってしまったことに。
翌朝。
医務室の扉を開けた瞬間、私は見てしまった。
廊下の壁に、紙が貼ってある。
しかも、私の紙じゃない。
達筆。嫌な予感の達筆。
『本日の目標:いい日を作る』
「……陛下」
振り向かなくても分かる。
背後で、ローガンの咳払いが笑いに変わりかけた。
「先生、見たか」
「見ました」
「犯人、分かるか」
「分かります!」
フィンが駆け寄ってきて、目を輝かせた。
「先生! 今日、いい日作る日なんだって!」
「そんな日じゃありません!」
マルタが腕を組んで淡々と言った。
「先生、紙が増えるのは危険」
「危険って言わないで!」
そして静かな足音。
カイゼルが現れた。
腕章『先生係』はもちろん。
昨日より機嫌が良いのが分かるのが、腹立つ。
「おはよう」
「おはようございます……陛下、あの紙」
「ああ」
カイゼルが平然と頷く。
「皆が戻れるように」
「戻れるのはいいことですけど、言葉を量産しないでください!」
フィンが小声で言う。
「先生、陛下、量産って言葉覚えちゃった」
「覚えなくていい!」
診察開始。
私は白いリボンを揺らして言う。
「ここ。吐こう。長く」
騎士が息を吐く。肩が落ちる。
……帰り際に、騎士が紙を見て、真面目に言った。
「先生、今日……いい日ですか」
やめて。
その質問の出所が見える。
私の背中に視線が刺さる。皇帝の視線。
「……それは、終わってから」
私は必死に笑わず言った。
「今は診察」
騎士が頷いて出ていく。
よし、止めた。と思ったのに。
次の騎士が入る。
「先生、いい日作りたいです」
「作らなくていい!」
「でも目標って」
「目標にしないで!」
ローガンが廊下で咳払いしながら言う。
「先生、もう砦が“いい日”で動いてるぞ」
「動かないでください!」
昼休み。
私は紙の前で腕を組んでいた。
そこへカイゼルが当然みたいに隣に立つ。
「撤去するか」
「してください」
「撤去したら、皆が落ち込む」
「落ち込みません!」
「落ち込む」
「なんで決めるんですか!」
「見た」
「見ないでください!」
私は息を吐いて、妥協案を出した。
「……じゃあ紙は残していいです。条件があります」
「言え」
「“いい日”を作るのは、言葉じゃなくて行動です」
「行動」
「はい。ちゃんと寝る。ちゃんと食べる。ちゃんと吐く」
「吐く?」
「息です!」
「……ふむ」
カイゼルが少し考えてから、達筆な文字で横に追記した。
『本日の目標:いい日を作る(行動で)』
「追記しないでください!」
「分かりやすい」
「分かりやすくしないで!」
フィンが背後で拍手しそうになってマルタに止められた。
ローガンの咳払いがもう咳じゃない。
私は頭を抱えた。
量産事件。犯人は皇帝。共犯は砦。
その日の夕方。
診察が終わって医務室の扉を閉めたとき、廊下にカイゼルがいた。
待つ顔。待つ姿勢。待つ呼吸。
「……陛下」
「ここだ」
「今日は……」
言いかけて、私は紙を思い出した。
“本日の目標”。
周りの期待。
勝手に増えた重み。
私は長く息を吐いて、言葉を変えた。
「……今日は、よく頑張りました」
カイゼルが一拍置いて目を細める。
また反則の顔。
「お前も」
低い声。
それだけで、胸の奥がほどける。
……結局。
言葉は量産したくないのに。
返事は、増えていく。




