第13話 甘い匂いの来訪者
「リュシア様……お優しいのですね」
扉の外から届いた声は、鈴みたいに澄んでいた。けれど、その甘さがいちばん怖い。鼻の奥にまとわりつく花の匂いが、頭をふわりと軽くする。
私は息を吸って、ゆっくり吐いた。
怖いときほど、呼吸を整える。自分が揺れたら、相手の思うつぼだ。
「どなたですか」
私は扉越しに、声の高さを変えないように言った。
「通りすがりの者です。眠れない方を、助けに来ただけ」
「“眠れない方”って、誰のこと?」
「……皆さまです。騎士も、陛下も。あなたも」
背中がひやりとした。
相手は、私がここにいることも、皇帝の部屋の位置も知っている。
皇帝カイゼルが、私の背後で低く言った。
「開けるな」
「はい」
私は扉の取っ手から手を離し、逆に一歩だけ前に出る。扉を背にするように立てば、皇帝は守れる。
「助けたいなら、まず匂いを消してください。今の匂い、眠りの邪魔です」
扉の向こうで、小さく笑う気配。
「匂いは祈りです。怖い夢を見ないように――」
「違う。これは頭を起こす匂い。眠れなくなる匂いです」
沈黙。図星だ。
次に聞こえたのは、ちりん、と鈴の音。近い。廊下のすぐ向こうに立っている。
「リュシア様。あなたは優しすぎる」
「優しいんじゃない。守ってるだけ」
「守るために、眠りを捨てるのですか?」
「捨てないよ。眠りは捨てたらダメ。……あなたも、眠れてない顔」
その言葉に、扉の向こうの呼吸がほんの少し乱れた。
私は続ける。
「ここは騎士団です。勝手に入らないで。困ってるなら、堂々と言いに来て。逃げるやり方は、誰も助けない」
ちりん。
鈴がもう一度鳴って、今度は遠ざかった。
同時に、廊下の奥でローガンの声が響く。
「誰だ! 止まれ!」
足音が走り、布が翻る音がした。けれど、次の瞬間には風だけが残る。
扉の前に、小さな包みが落ちていた。白い布に包まれた、乾いた花びら。触れるだけで甘い匂いが強くなる。
私は布をつまみ、窓を開け放った。冷たい夜気が流れ込み、甘さを押し流す。
「陛下。今夜はこれ以上、息を吸い込まないで。ここから先は私が片付けます」
「……お前が、危ない」
「大丈夫。私、こういう“嫌がらせ”には慣れてます」
皇帝が眉をひそめる。
「慣れるな」
低い声が、怒りというより心配に聞こえた。
私は少しだけ笑ってしまう。
「じゃあ、陛下は慣れないで。ちゃんと寝てください」
皇帝はしばらく私を見て、それから短く頷いた。
「……分かった。お前の言う通りにする」
私は扉をそっと閉め、外の気配が落ち着いたのを確かめる。
床に落ちていた花びらの包みは、冷たい水で洗い流す。匂いは弱まった。
――なのに。
片付け終えて振り向いたとき、私の足元にもう一枚、黒い札が落ちていることに気づいた。
『眠りを守るなら、夢の中から奪う』
私は札を握りしめ、もう一度、息を吸った。
次は、夜そのものが敵になる。




