第126話 「はい」の暴走
「どうぞ」を封印してから、私の手元には小さな札が増えた。
白い紙に、たった一言。
『はい』
軽い。便利。照れない。――はずだった。
朝、医務室の扉を開けた瞬間、フィンが待ち構えていた。
「先生、今日も“はい”持ってる?」
「持ってるけど、嬉しそうに確認しないで」
「だって新兵たちが“先生の札、見たい”って」
「見世物じゃない!」
ローガンが咳払いで笑いを隠す。
「先生、札ってことは掲示できるな」
「掲示しません!」
マルタが腕を組んで淡々と頷いた。
「掲示したら、全員が“はい”で動く」
「動かないでください!」
そのとき扉が静かに開き、カイゼルが入ってきた。
いつも通りの顔。いつも通りの足音。
なのに視線だけが、私の手元を正確に捕まえる。
「それか」
「物みたいに言わないでください」
「“はい”だろ」
「当てないでください!」
カイゼルは外套の内側の結び目に指先を当て、低く言った。
「今日は、言わなくていい」
「それが目的です」
「良い」
「良いって言わないでください!」
診察が始まる。
私はいつもの声を出す。
「ここ。吐こう。長く」
騎士が息を吐いて、肩が落ちる。いい流れ。
……その直後だった。
扉の外、窓の近くの“見えにくい位置”から、低い声が落ちた。
「はい」
患者が固まった。
「え?」
私も固まった。
「え?」
今の、私じゃない。
しかも、私の札の言葉。
私はそっと扉を開けて、廊下へ顔を出した。
「陛下」
「ここだ」
「今、“はい”って言いましたよね」
「言った」
「言わないでください!」
「言うと、お前が言わなくて済む」
「それは助かりますけど……患者さんが混乱します!」
ローガンが遠くで咳払いをした。
「先生、陛下、札を気に入ったんだろ」
「気に入ってません!」
カイゼルが即答する。
「気に入った」
「認めないで!」
マルタが冷たく言い切る。
「先生、札にしたのが敗因」
「敗因って言わないで!」
午後、混乱は広がった。
食堂でパン籠が回る。私が札を出そうとする前に、カイゼルが真顔で言う。
「はい」
場が一瞬止まり、次の瞬間、あちこちで咳払いが連鎖した。
フィンは口を押さえて肩を震わせ、ローガンは咳払いを笑いに変え、マルタは天井を見上げている。
「陛下、先に言わないでください!」
「先に言うと、お前の顔が赤くならない」
「なってます!」
「……まだ足りない」
「何が足りないんですか!」
カイゼルが私の手元の札を見て、声を落とす。
「お前が出す“はい”は、私だけの返事だと思っていた」
「思わないでください!」
「思う」
「やめて!」
私が息を吐いて札を伏せると、カイゼルは外套の内側の結び目に指先を当てた。
そして、困ったみたいに眉を寄せる。珍しい顔。
「……では、どうする」
真面目に聞くのがずるい。
私は喉に手を当てて息を吐き、医師らしく決めた。
「“はい”は、声にしない。札も見せない」
「では、返事は」
「目で」
「目で……“はい”?」
「そうです。目で“はい”って言ってください」
カイゼルが一拍置いて頷いた。
「分かった」
素直。怖いくらい素直。
その夜、医務室で片付けをしていると、背後に気配が落ちた。
振り向かなくても分かる。返事が近い。
カイゼルが私の手元の札に視線を落とし、低く言う。
「明日も持て」
「持ちません」
「持つ」
「持たない!」
「……持つ」
「なんで強制なんですか!」
カイゼルの口元が、また少しだけ緩んだ。
“心の中の返事”が、顔に漏れている。
「……先生」
フィンが遠くから小声で言う。
「陛下、もう札じゃなくて先生が好きなんだと思う」
「言わないで!」
私は長く息を吐いて、札を握りしめた。
封印したはずの言葉が、別の形で増えていく。
……そしてなぜか、戻る合図まで一緒に増えてしまうのだった。




