第125話 「どうぞ」を封印したい
朝の医務室。
私は机に向かう前から、喉が落ち着かなかった。
原因はひとつ。――「どうぞ」。
たった二文字。
なのに、口に出した瞬間、みんなが笑う。
隣の皇帝が勝った顔をする。
そして私の心臓が忙しくなる。
「先生、おはよ」
フィンが入ってきて、開口一番に言った。
「今日も“どうぞ”ある?」
「ありません!」
「宣言した!」
「宣言してません!」
ローガンが咳払いしながら言う。
「先生、今日は言わない作戦か」
「言いません」
「じゃあ陛下が言わせに来るな」
「来ません!」
「来る」
マルタが即答した。冷たい。
来た。
扉が静かに開いて、カイゼルが入ってくる。
いつも通りの顔。いつも通りの足音。
そして、いつも通り――私の“今日の状態”を一目で見抜く目。
「喉が固い」
「固くないです」
「固い」
「固いのは陛下の言い方です!」
カイゼルは外套の内側の結び目に指を当て、低く言った。
「今日は、何を望む」
昨日と同じ質問。
真面目に聞くのが、いちばんずるい。
「……望むとか、やめてください」
「望むと、戻れる」
「戻れますけど……!」
私は息を吐いて、白いリボンを指先で整えた。
よし。医師らしく“処置”をする。
「陛下、今日の新ルール」
「聞く」
「“どうぞ”は禁止です」
「禁止という言い方はやめろ」
「じゃあ、封印です」
「封印も同じだ」
「じゃあ……言わない」
「言う」
「言わない!」
「言う」
「なんで!」
「お前が言うのが好きだ」
フィンが吹き出し、ローガンが咳払いに失敗して笑い声になった。
マルタが天井を見る。
「先生、終わった」
「終わってません!」
私は真っ赤になって、机を軽く叩いた。
「診察します!」
最初の騎士が入ってくる。
私はすぐ切り替える。
「ここ。吐こう。長く」
騎士が息を吐き、肩が落ちる。
……と同時に、騎士が私の机の端を見て首を傾げた。
そこには、小さな札。
『どうぞ:使用禁止』
誰が置いた。
いや、誰か分かる。
視線を向けると、フィンが口笛を吹いて逸らし、ローガンが咳払いで笑いを隠し、マルタが無言で頷いた。
全員、共犯。
「先生、いい札だろ」
ローガンがぼそっと言う。
「医務室のルールっぽい」
「医務室のルールにしないで!」
カイゼルがその札を見て、淡々と言った。
「禁止なら、私は待つ」
「待たないでください!」
「待つ」
「待つのがずるいって――」
「知っている」
またそれ。
昼休み、私は反撃に出た。
食堂へ行く前に、フィンを捕まえる。
「フィン、今日は“どうぞ”って言わせないで」
「無理」
「無理じゃない!」
「陛下が言わせる」
「協力して!」
フィンは真面目な顔で頷いた。
「分かった。じゃあ先生、代わりの合図作ろう」
「代わり?」
「先生が言わなくていいやつ」
フィンは机の引き出しから、白い小さな札を取り出した。
そこに書いてあるのは、たった一言。
『はい』
「……はい?」
「“どうぞ”の代わり。先生、これ出すだけ」
「それ、許可が軽すぎない?」
「軽い方が照れない」
「なるほど……」
その夜。
食堂でパン籠が回ってきた。
カイゼルの視線が私に刺さる。
“どうぞ”を待っている目。
待つのがうまい目。ずるい目。
私は深く息を吐いて、無言で札を出した。
『はい』
カイゼルが一拍置いて、真顔で言った。
「……“はい”も、良い」
「良いとか言わないでください!」
「良い」
「言わないで!」
「言う」
ローガンが咳払いで笑いを隠し、マルタが淡々と結論を出した。
「先生、逃げ道が新しくなっただけ」
「逃げ道じゃないです!」
「逃げ道だな」
「逃げ道です……」
私はスープを飲んで、熱さで誤魔化した。
“どうぞ”は封印したはずなのに。
代わりの合図まで、皇帝に褒められてしまった。
……これ、封印って難しい。




