第124話 「どうぞ」の罠
「私の皿に手を伸ばすのは、私が“どうぞ”って言ったときだけ」
昨日、私はそう決めた。
完璧な線引き。医師の勝利。――のはずだった。
朝の食堂。
パン籠を挟んで、カイゼルが私の隣に座る。真顔。いつも通り。
そして、私の皿を見ないようにしている。
……しているけど、見ている。目が真剣すぎる。
「先生、今日は平和?」
フィンが小声で聞く。
「平和です」
「ほんと?」
「ほんとです」
ローガンが咳払いしながらぼそり。
「先生、それ旗立ててるぞ」
「立ててません!」
私はスープを飲み、パンをちぎり、落ち着いて食べる。
カイゼルは自分の皿を食べる。
……えらい。
えらいけど、空気が静かすぎて逆に落ち着かない。
マルタが腕を組んで言った。
「陛下、我慢してる顔」
「してない」
カイゼルが即答する。
目だけが「してる」と言っている。
そして、事件は突然起きた。
私がパンを落としかけたのだ。
ちぎった一欠片が、皿の端からころん、と。
それを、カイゼルの手が反射で掴んだ。
速い。訓練の動き。無駄がない。
私は息を呑んだ。
ルール違反……!
カイゼルも固まった。
掴んだパンの欠片を持ったまま、動かない。
「……陛下」
「……」
カイゼルは真面目な顔で、ゆっくり私を見た。
「どうぞ」
私が言う前に、カイゼルが言った。
「え?」
私が間抜けな声を出すと、カイゼルは淡々と続ける。
「お前が言うはずの言葉を、先に言った」
「それ、ずるいです!」
「ずるくない。事故防止だ」
フィンが口を押さえて肩を震わせる。
ローガンが咳払いに失敗して笑い声になる。
マルタは天井を見る。
「先生、負けた」
「負けてません!」
私は顔が熱くなって、慌ててパンを取り返そうとした。
でも、カイゼルの手がするりと避ける。
避けるのに、奪わない。嫌らしくないのに、悔しい。
「先生の“どうぞ”は、奪わない」
カイゼルが低く言う。
「代わりに、引き出す」
「引き出すって何ですか!」
「お前が言うまで待つ」
「待たないでください!」
「待つ」
「待つのがずるいって、何度も言ってます!」
「知っている」
私は喉に手を当てて息を吐いた。
落ち着け。医師。線を引いたのは私。
なら、私が主導権を取り返す。
「……陛下」
「ここだ」
返事が速い。
速いのに、距離が近い。
「そのパン、返してください」
「返す」
即答。
でも返さない。
「返してません」
「条件がある」
「条件?」
「お前が言う」
カイゼルが真面目に言う。
「どうぞ、を」
……罠だ。
私が作ったルールを、私が言わされる罠。
フィンが小声で煽る。
「先生、言っちゃえ」
「煽らない!」
ローガンが咳払いで追い打ちする。
「先生、言えば終わるぞ」
「終わらないから問題なんです!」
私は顔が真っ赤になるのを感じた。
でも、周りの笑いは嫌じゃない。
この騒がしさは、誰も傷つけない。
私は長く息を吐いて、観念して言った。
「……どうぞ」
声が小さすぎて、自分でも聞こえないくらい。
カイゼルの口元が、また反則みたいに緩む。
そして、掴んでいたパンの欠片を、私の皿にそっと戻した。
「どうぞ、は受け取った」
「受け取らないでください!」
「受け取る」
マルタが淡々と結論を出す。
「先生の負け」
「負けじゃない!」
「負け」
「負け……」
ローガンが咳払いで締めた。
「次のルール、楽しみにしてるぞ」
「楽しみにしないで!」
私はスープを飲み、熱さで誤魔化した。
“どうぞ”は、ただの許可の言葉のはずなのに。
今日からそれは、妙に恥ずかしい合図になってしまった。




