第12話 眠りを守る作戦
『――眠らせるな』
黒い札の文字が、目に焼きついたまま消えない。
私は無意識に息を吸って、ゆっくり吐いた。怖いときほど、呼吸を整える。自分が落ち着けば、周りも落ち着く。
「陛下。今夜は、眠りを守りましょう」
私が言うと、皇帝カイゼルは短く頷いた。
「守る。お前も、騎士たちも」
その夜、皇帝の居室の前室に、温かい飲み物と毛布を用意した。甘い蜂蜜湯、薬草の香り。刺激のあるものは置かない。
ローガンとマルタも顔を出す。
「先生、廊下の見回りは俺がやる。怪しい音がしたらすぐ呼ぶ」
「うん。でも、無理はしないで。怖い時ほど、強がりは危ない」
「……分かってる」
マルタが小声で言った。
「セイルはもう寝た。泣いてたけど、先生が“怒らない”って言ったらやっと落ち着いた」
「よかった。あの子も、眠りを奪われた側だもの」
皇帝は椅子に座ったまま、私の手元を見ている。
「……お前は、なぜそんなに眠りにこだわる」
「眠れるとね、明日を怖がらなくて済むから」
私は笑ってみせる。
「陛下も、今夜は怖がっていいです。代わりに、寝ましょう」
皇帝は少しだけ眉を動かした。照れたのか、困ったのか分からない顔。
「……分かった」
私は寝る前の呼吸を促す。鼻で吸って、口で吐く。
皇帝の肩が少しずつ下がり、目のきつさがほどけていく。
――そのとき。
ちりん。
礼拝堂の方角から、鈴の音がした。
皇帝の目が鋭くなる。ローガンの足音が遠くで止まったのが分かる。
「陛下、行かないで」
私が言うと、皇帝は一度だけ目を閉じた。
「……お前の言う通りにする。走らない。怒鳴らない」
次の瞬間、廊下の先で、何かが床に落ちる音。ころん、と軽い。
ローガンが拾い上げたらしく、声が飛ぶ。
「先生! これ……香りがする。甘い花みたいな匂いだ」
私は胸が冷たくなった。セイルの言った匂い。
そして、もう一度――ちりん。
音が、近い。
私は皇帝の前に立ち、静かに言った。
「陛下。ここから先は私が確認します。あなたは今夜、眠るのが仕事です」
「……仕事、か」
皇帝は苦い顔をして、それでも頷いた。
「なら、お前が戻るまで私は起きている」
「それはダメです」
「……では、半分だけ起きている」
「半分もダメ。寝てください」
言い合いになりかけた、その瞬間。前室の窓が、ふっと曇った。
ガラスの向こうに、白い布の影が揺れる。人影――小柄で、鈴の音を連れている。
私が息を吸った瞬間、扉の外から誰かの声がした。
「リュシア様……お優しいのですね」
甘い花の匂いが、すぐ近くまで来ていた。




