第119話 「一回だけ」の抜け道
午後の診察が終わったころ、医務室の空気はいい感じに落ち着いていた。
患者が息を吐けた瞬間に、窓の外の影が一回だけ頷く。
完璧。静か。平和。
……と思っていた私が甘かった。
最後の騎士が帰ったあと、フィンが小走りで寄ってきて、声をひそめた。
「先生、聞いた?」
「何を」
「陛下が“頷き一回”の抜け道、見つけた」
嫌な予感しかしない。
私は首もとの印に触れ、息を吐いてから聞き返した。
「……抜け道?」
「一回だけって言われたから」
フィンが真顔で言う。
「“頷き”じゃなくて、“首の角度”を変えてる」
「それ頷きじゃん!」
ローガンが廊下の奥で即ツッコミを入れた。
マルタが腕を組んで頷く。
「頷きだな」
「頷きです!」
私は窓際へ向かった。
そこにいるカイゼルは、いつもの位置。見えにくい位置。
そして、いつもの顔――真面目。
「陛下」
「ここだ」
返事は即答。頷きはしない。
しないけど、首が微妙に傾いている。
……確かに“角度”。
「今、首、傾けましたよね」
「傾けた」
「それ、頷きです」
「頷いていない」
「頷いてます!」
「違う」
「どこが!」
「上下ではない。左右だ」
私は目を閉じて息を吐いた。
……理屈が皇帝。
「つまり、横なら無限にいけると?」
「無限ではない」
「じゃあ何」
「お前が嫌なら止める」
真顔で言うのが、ずるい。
反論が止まる。心臓が忙しくなる。
廊下の向こうでローガンが盛大に咳払いした。
「先生、負けるな」
「負けてません!」
マルタが冷たく言う。
「もう負けてる」
「負けてません!」
私は額を押さえて、条件を詰めることにした。
「分かりました。では新ルール」
「聞く」
「診察中は、首の角度も禁止です」
「禁止という言い方はやめろ」
「じゃあ、控えめにしてください」
「控える」
「具体的に」
「……動かない」
「それは石像です!」
「石像ではない」
またそれ。
私は笑いそうになって、息を吐いた。
「じゃあ、こうします」
私は白いリボンを一本取り出した。
「陛下にだけ見えるところに、私のリボンを結びます」
「どこに」
「陛下の外套の内側の結び目の近く」
「……ふむ」
私は外套の内側に、ほんの小さな白いリボンを結んだ。
外からは見えない。
でも触れれば分かる。合図。
「これに触れたら、返事は“心の中”で」
「心の中」
「はい。声も首も動かさない」
「……難しい」
「難しいことは私が折るって言ったの、誰ですか」
「私だ」
「じゃあできます」
「……やる」
やる、って言い切るのが怖い。
そして案の定、怖いことが起きた。
その夜。
医務室の奥で私は帳簿を片付けていた。
ふと見ると、カイゼルが外套の内側の白いリボンに指先を当てている。
声は出さない。首も動かさない。偉い。
なのに、口元だけが――ほんの少しだけ緩んでいる。
……心の中の返事が、顔に出てる。
「陛下、今、笑いましたね」
「笑っていない」
「笑ってます」
「……心の中だ」
「心の中が漏れてます!」
私はもう、負けて笑った。
“一回だけ”の抜け道は封じたはずなのに、別の抜け道が生まれている。
皇帝は手加減を知らない。
でもその手加減のなさが、今日も医務室を明るくしていた。




