第113話 明日の分を貯めないで
翌朝、医務室の前に張られていたはずの白いリボンが――ない。
私は立ち止まり、首もとの印に触れて息を吐いた。
「……線、どこ」
呟いた瞬間、背後でローガンが盛大に咳払いをした。
「先生、今日は張ってねぇぞ」
「なんで!」
「マルタが言ってた。毎日張ると、先生が慣れて線の意味が薄くなるって」
「理屈っぽい……」
フィンが手を挙げる。
「代わりに、先生が“今日は張る”って言った日だけ張る方式!」
「選べる方式……」
私は息を吐いて頷いた。
「それがいい」
そこへ、当たり前みたいにカイゼルが現れる。
外套は手に持っているのに、まだ私にかけない。
昨日の“明日の分は明日”を守る顔。
「おはよう」
「おはようございます」
「線は?」
「今日は無しです」
「分かった」
即答。素直。
素直すぎて、逆に怖い。
診察が始まる。
私はいつも通り、白いリボンを揺らし、窓を少し開ける。
「ここ。吐こう。長く」
患者が息を吐き、肩が落ちる。
窓の近くでカイゼルが目で頷く。頷きすぎない。偉い。
……でも、今日の私は余計に心臓が忙しい。線がないから。
昼休み、私は廊下でカイゼルを捕まえた。
「陛下」
「ここだ」
返事が速い。近い。
「お願いがあります」
「言え」
「“明日の分は明日”って言いましたよね」
「言った」
「……貯めないでください」
言ってから、自分で何を言ってるのか分からなくなって、顔が熱くなる。
カイゼルが一拍置いて、真面目に聞き返す。
「貯めるとは」
「えっと……」
私は喉に手を当てて息を吐いた。
「朝のうちに“足りる分”とか、やめてください」
カイゼルが少し考える顔をして――困ったみたいに眉を寄せた。
その顔が、珍しくて、ずるい。
「……お前が線を張らないからだ」
「私のせいですか!」
「そうだ」
「言い切った!」
ローガンが廊下の向こうで笑いをこらえている。
マルタが腕を組み、冷たく言う。
「先生、自分で張れ。医療」
「医療って何!」
私は息を吐いて、カイゼルを見上げた。
「じゃあ、約束を増やしましょう」
「何を」
「診察中は控える。終わったら、私が“今日の分”を言う」
「うん」
「それ以外は……」
言葉に詰まる。言えない。恥ずかしい。
カイゼルが待つ。
急かさない。
ずるい“待つ”。
「……それ以外は、勝手に増やさない」
やっと言えた。
カイゼルが頷く。
「分かった」
即答。
でも声を落として付け足す。
「ただし」
私は身構える。
「お前が揺れたら、増える」
「それは反則!」
「反則ではない。迎えだ」
真顔。
私はもう、負けて息を吐いた。
「……明日の分は、明日」
私が言うと、カイゼルが低く返す。
「明日の分は、明日」
そして、指を絡めた。ほどけない返事。
線がなくても、約束がある。
約束があるから、選べる。
選べるから――心臓が忙しくても、ちゃんと戻れる。




