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第110話 皇帝、手加減を知らない

 「おかえり」

 「ただいま」


 昨日の廊下の会話が、朝になっても頭から離れなかった。

 医務室の机に向かっていても、椀を持っていても、白いリボンを整えていても、心臓だけが落ち着かない。


 ……だめだ。

 私は息を吐いた。長く。戻る。仕事。


 扉が開いて、フィンが顔を出す。

「先生、今日の最初、あの人」

「あの人って誰」

「陛下」

「言い方」

「だって先生、顔がもう……」


 そこへ本人が入ってきた。

 カイゼルはいつも通りの顔で、いつも通りの足音で――でも私を見る目だけは、朝から手加減がない。


「おはよう」

「おはようございます」


 私は先手を打つ。

「今日は忙しいので、控えめにしてください」

 カイゼルは一拍置いて言った。

「分かった」

 ……素直!と思った次の瞬間。


「だから、朝のうちに足りる分をする」

「え」

 意味が分かった瞬間、私は椀を落としそうになった。


 カイゼルは何食わぬ顔で、私の肩に外套をかける――ではなく、外套の結び目を私の指にそっと触れさせた。

 そして、私の額に軽く口づける。短い。逃げ道を残している。なのに反則。


「……おかえり」

 耳元で低い声。

 私は固まって、やっと息を吐いた。


「ただいま」

 カイゼルが返す。

 返事が返事として戻る。……戻るけど、顔が熱い。


 背後で、ローガンが盛大に咳払いをした。

 マルタが腕を組んで、冷たく言う。

「医務室でやるな」

 フィンは耳まで真っ赤で、壁を見ている。


「……控えめって言いました」

 私が抗議すると、カイゼルは真面目に首を傾げた。

「控えめだ」

「どこが!」

「長くはしていない」

「そこじゃない!」


 私は息を吐いて、白いリボンを握り直した。

 だめだ、朝からこうだと一日もたない。


 診察が始まる。

 最初の騎士が入ってきて、私の顔を見て一瞬止まる。

「……先生、顔」

「大丈夫。ここ。吐こう。長く」

 私は必死に仕事の声を出した。


 騎士が息を吐き、肩が落ちる。

 そのとき、窓の近くの“見えにくい位置”に戻ったカイゼルが、目で一度だけ頷いた。

 ……頷きが優しい。さっきの反則が嘘みたいに。


 昼休み、マルタが私に椀を押しつけながら言う。

「先生、いい? 陛下は手加減を覚えない」

「分かってます……」

「覚えないから、先生が線を引く」

「線、引けますかね」

「引け。医療」


 私は息を吐いた。

 線を引く。選べる。戻れる。

 それが私の得意なはずなのに――相手が皇帝だと、急に難しくなる。


 その夜、廊下でカイゼルが私を見つけた。

 見つけ方が、今日も速い。


「疲れたか」

「少し」

「なら」

 カイゼルが当然みたいに言う。

「眠るまで、離さない」


「またそれ!」

「嫌か」

 目が真剣。嫌なら止める目。


 私は息を吐いて、正直に言った。

「……嫌じゃないです」

「なら、手加減しない」

「そこ、手加減してください!」

「……考える」

 考える、って言いながら、もう腕が囲っている。


 私はもう負けて、外套の布に額を寄せた。

 皇帝は手加減を知らない。

 でも、その手加減のなさが、私をひとりにしないのも事実だった。

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