第107話 結び目が増える日
外套の内側の小さな結び目は、言葉より目立たないのに、妙に強かった。
見える人には見える。分かる人には分かる。――私には、分かりすぎる。
朝の診察が始まる前、フィンが椅子の背の外套をちらりと見て、にやっとした。
「先生、今日も“安心対策”ある」
「言わない!」
私は白いリボンを揺らして、先に空気を整える。
「ここ。吐こう。長く」
そこへカイゼルが入ってくる。
外套はかけない。代わりに、椅子の背へ静かに掛け直す。
そして、窓の近くの“見えにくい位置”へ行く。作戦通り。偉い。……偉いのに。
最初の患者は、無口な古参の騎士だった。
椅子に座ったまま、しばらく黙っている。
私は焦らない。息を吐く。待つ。
「……先生」
騎士がぽつりと言った。
「外套の結び目、何だ」
うっ。
私は一瞬だけ目を泳がせ、すぐ息を吐いて戻る。
「合図です」
「合図?」
「戻れる合図。……言葉じゃなくて、形の返事」
騎士はしばらく考えてから、意外と真面目に言った。
「俺にも、欲しい」
「え」
「夜、目が覚める。……戻り道が欲しい」
私は胸がじんとした。
「作れます。白いリボンでもいいし、結び目でもいい」
診察のあと、騎士は外へ出る前にローガンへ声をかけた。
「紐、余ってるか」
「……お前までかよ」
ローガンが呆れた声を出しつつ、でも目は優しい。
昼過ぎ、医務室の前に小さな列ができた。
診察じゃない。
みんな手に紐や布を持っている。
「先生、結び目の作り方」
「先生、これで合ってる?」
「先生、ほどけないやつ」
私は目を丸くして、次の瞬間笑ってしまった。
喉に手を当てて、息を吐く。
「……結び目講習会みたい」
マルタが腕を組んで言った。
「いいこと。自分で戻る道を持てる」
フィンが嬉しそうに頷く。
「先生の“ここ”が増えてく」
私は布を手に取り、ゆっくり結び目を作って見せた。
焦らない。力を入れすぎない。ほどけないけど、締めつけない。
「これ」
私は言う。
「結び目を触ったら、長く息を吐く。吐けたら、戻れる」
みんなが真似して結ぶ。
不器用な指が、真剣に動く。
強面の騎士が、子どもみたいに眉を寄せて結び目を作る。
その光景が可笑しくて、あたたかい。
窓の外で、カイゼルが黙って見ていた。
目で返事をしている。頷きすぎないように、我慢している顔。
私がふと視線を向けると、カイゼルは一度だけ小さく頷いた。
それだけで胸が熱くなる。
講習会が終わったころ、ローガンがぼそっと言う。
「先生、砦じゅう結び目だらけになりそうだな」
「いいじゃないですか」
私は笑って言った。
「結び目が増えるほど、ひとりが減る」
その夜。
私は椅子の背の外套の結び目を指でそっと触れ、息を吐いた。
カイゼルが近づいて、耳元で低く言う。
「お前が作った合図が、国を守る」
「大げさです」
「大げさではない。……誇れ」
私は頬が熱くなって、でも逃げずに頷いた。
結び目は増える。
帰り道も増える。
そして、私の心臓の忙しさも、きっと増える。




