第102話 皇帝の「待つ」は、ずるい
朝の医務室は、昨日よりさらににやにやしていた。
原因は分かっている。分かっているけど、認めたくない。
机の上には薬草。窓は少し開いている。白いリボンも準備した。
仕事、仕事、仕事――と心の中で唱えているのに。
「先生、今日も外套、かけられる?」
フィンが悪い顔で聞いてくる。
「かけられません!」
「じゃあ陛下が“寒い”って言う」
「言わせない!」
ローガンが腕を組んで、ぼそっと言う。
「無理だろ。あの人、もう癖だ」
その“癖”が、ちょうど扉から入ってきた。
カイゼルはいつもと同じ顔で、いつもと同じ足音で――でも目だけは、私にだけ甘い。
「おはよう」
「おはようございます」
私は先手を打つ。
「今日は寒くありません」
カイゼルが一拍置いて言う。
「分かった」
――よし!と思った次の瞬間。
彼は外套をかけなかった。代わりに、私の手を取って指を絡めた。
返事。ここだ。
「……陛下?」
「寒くなくても、離さない」
淡々とした声で、とんでもないことを言う。
マルタが額に手を当てた。
「病人より先に先生が倒れるぞ」
「倒れない!」
「倒れる」
ローガンが即答する。
「恋で」
私は椀を持ち上げて隠れたくなった。
「恋って言うな!」
診察の騎士が入ってきた瞬間、全員が一斉に真面目な顔を作る。
私も深呼吸して、白いリボンを揺らした。
「ここ。吐こう。長く」
騎士が息を吐き、肩が落ちる。
よし、仕事はできる。できるのに――手が絡まっている。
「先生、手……」
騎士が気まずそうに視線を泳がせた。
私は顔が熱くなるのを感じながら、言い訳を探す。
カイゼルが先に言った。
「固定だ」
「え?」
「手が冷えると、声が出にくい」
真顔で言い切る。
マルタが小声で呟く。
「……言い訳まで甘い」
私は必死に真面目な顔を保った。
「はい、固定です。……では続き」
騎士は納得したような、してないような顔で、でも息を吐いた。
診察は問題なく進む。問題があるのは私の心臓だ。
昼休み。
私は廊下でカイゼルを捕まえた。捕まえる、って言い方ももうだめだ。
「陛下、お願いがあります」
「言え」
「手をつなぐのは、診察室の外だけにしてください」
真面目に言ったつもりだったのに、声が少し上ずった。
カイゼルは考えるふりをして、すぐ頷いた。
「分かった」
――よし!と思ったら、続けて。
「代わりに、診察室の中では私が後ろに立つ」
「それ、患者さんが緊張します!」
「緊張させない位置に立つ」
「皇帝が存在するだけで緊張します!」
「では、壁になる」
「壁!?」
背後でローガンが笑いをこらえて咳払いをした。
フィンは肩を震わせ、マルタは呆れながらも口元が緩んでいる。
私は息を吐いて、両手を上げた。
「もういいです……陛下の勝ちです」
「勝ちではない」
カイゼルが私の指を絡め直し、声を落とす。
「私は待つ。お前が“いい”と言うまで」
ずるい。
追い詰めるんじゃなく、待つ。
逃げ道を残したまま、逃がさない。
私は喉に手を当て、息を吐いた。
「……待つのが上手すぎます」
「お前が教えた」
その返事が、甘くて、まっすぐで、反則だった。




