第100話 迎えの誓い
砦の廊下を歩くあいだ、私はずっと首もとの印を指で確かめていた。
怖さが残っているのに、足が勝手に速くならないのは――隣に、返事があるから。
「先生、戻ったな」
ローガンがぶっきらぼうに言い、フィンが嬉しそうに息を吐く。
マルタは私の顔を覗き込み、椀を押しつけた。
「飲む。寝る。以上」
「はい……」
医務室の奥に入ると、カイゼルが窓を少し開けた。風が通る。灯りがやさしく揺れる。
私は椀を両手で包み、息を吐いた。
「……今夜も?」
私が小さく聞くと、カイゼルは迷わず頷いた。
「眠るまで、離さない」
「当然みたいに言わないでください」
「当然だ」
ずるい。私は頬が熱くなるのを誤魔化すように、湯を飲んだ。
甘さが喉に落ちて、声が少し戻る。
カイゼルは私の首もとに視線を落とし、次に私の目を見た。逃げない目。
「“裏切り者”の名札は、私が折る」
「折るって……」
「燃やすだけでは足りない。お前の名を、ここで守る」
彼は掲示板の前へ歩き、炭を取った。
そして大きく、短く書く。
『リュシアは、ここで戻す人だ』
それだけ。飾りも、言い訳もない。
でも胸が、じんと熱くなった。誰かに貼られた言葉じゃない。ここで生きる私の言葉だ。
「……陛下、みんな見る」
「見せてやれ」
低い声が甘い。
「お前がここにいると、私が望んでいると」
私は喉に手を当て、息を吐いた。
「望んでる、って……言い方」
「変える気はない」
カイゼルは外套の内側から、あの黒い布の結び目を取り出した。
それを私の掌にそっと乗せて、指を絡める。返事。ここだ。
「迎えに行ける合図を、お前だけに持たせるのは嫌だ」
「……じゃあ」
「私にも、帰り道をくれ」
胸の奥が、静かに跳ねた。
私は首もとの印に触れ、息を吐く。怖さじゃない。嬉しさで。
「私の帰り道は、私が選びます」
「うん」
「だから……陛下の帰り道も、陛下が選んでいい」
私は指をほどかずに続ける。
「でも、迷ったら呼んでください。名前が出なくてもいい。息だけでいい」
カイゼルの腕が、そっと私を包んだ。息ができる抱き方。逃げ道を残しながら、離さない。
耳元で、掠れた声が落ちる。
「結婚してくれ」
世界が一瞬、静かになった。
私は驚いて、でも不思議と怖くなかった。返事が先に来る夜を知っているから。
「……皇后とか、難しいです」
「難しいことは私が折る」
あまりに真顔で言うから、笑ってしまいそうになって、私は息を吐いた。
「じゃあ、約束してください」
「何を」
「私が揺れたら、返事をください。先に」
「約束する」
「私も。陛下が揺れたら、先に吐きます。戻ってって」
カイゼルの腕が、ほんの少しだけ強くなる。
それは鎖じゃない。誓いの形だ。
「リュシア」
「はい」
「ここにいてほしい」
「……はい。ここにいます」
窓から風が通り、掲示板の紙がふわりと揺れた。
名札の呪いより、ずっと強い言葉が残る。
――迎えに行く。迎えに来る。
その返事の中で、私は眠りへ戻っていった。
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