第6話「剣と魔法と家族喧嘩」
リーネがミナリオ家に来てから、季節がひとつ変わろうとしていた。
朝になれば、青い髪の少女が窓を開ける音で目を覚ます。
ひんやりした空気が部屋に流れ込み、ルーディアスは布団の中で一度だけ丸くなってから、むくりと起き上がるのが最近の習慣だ。
「ルー、起きてる?」
「うん……起きてる……多分」
「多分、ってなに」
くすっと笑う声が、朝の光より先に胸の中へ差し込んでくる。
少し前まで、目を覚ますたびに孤独と後悔しかなかった。
今は違う。視線を向ければ、同じ部屋に眠そうな顔をしたリーネがいて、向こうの部屋にはミナリスとガラムがいる。
それだけのことが、信じられないほど心を温かくしてくれた。
だが、家の中の空気が変わったのも、ちょうどその頃だった。
◇
朝の魔力循環。午前の座学。昼食を挟んでからの実践訓練。
リーネが家庭教師として正式に受け入れられてから、ルーディアスの一日はきっちりとしたリズムを持つようになった。
「じゃあ今日は、感知の訓練からだね」
裏庭で、リーネが両手を背中で組みながら歩き回る。
ルーディアスは目を閉じて立ち、魔力の糸を空気に溶かし込んでいく。
「周りの魔力の流れを感じて。わたしが動くたびに、空気の渦が変わるはず」
「うん……」
胸の奥の魔力を細く伸ばす。
風が空を、土が地面を、水が空気の隙間を流れている。
その中で、一歩ごとに違う渦を作る存在がひとつ。
「右の方、三歩」
「正解」
リーネが笑って、くるりと方向を変える。
その曲がるときの微妙な揺れまで、魔力を通じて伝わってくる。
「ルー、だいぶ感覚が良くなってきたね」
「リーネのおかげだよ」
「ふふ、それはそうかも」
冗談めかして胸を張る彼女の横で、ルーディアスは心の中で頷いた。
魔術式の構造、詠唱の理屈、属性の相性。
ひとつひとつは難しい言葉なのに、リーネが説明すると不思議なくらいすっと頭に入ってくる。
ミナリスは相変わらず生活魔法の達人で、洗濯や掃除、料理に応用される魔術を楽しげに教えてくれる。
ガラムは畑仕事の合間に剣の構えを見てくれたり、木剣の握り方が弱いときは容赦なく指摘してきた。
家の中だけ見れば、ここはとても幸せな場所だった。
けれど、その幸せの裏側で、少しずつ別の問題が膨らんでいることを、ルーディアスも薄々感じていた。
◇
夜。
風呂上がりの身体がまだ温かいまま、布団に潜り込む。
隣ではリーネが背中を向けて丸くなり、静かな寝息を立て始める。
明かりが落ちれば、本来なら静かなはずのミナリオ家。
しかし最近は、夜が深まるにつれて別の音が大きくなっていく。
「外の学院に行けば、この子はもっと学べるわ!」
ミナリスの声だ。
壁一枚隔てた向こうから、押し殺したような、けれど熱のこもった声が聞こえてくる。
「まだ幼えんだぞ! 外なんて魔物と盗賊の巣だ! あんな華奢な体でどうする!」
ガラムの低い声が応じる。
いつもの豪快な調子とは違う。怒鳴り声の奥に、はっきりとした焦りと恐怖が混ざっていた。
「守ればいいのよ、親でしょ!」
「守るために村にいさせるんだ!」
言葉が壁にぶつかり、耳に突き刺さる。
枕を抱きしめながら、ルーディアスは天井を見つめた。
前の世界で、こんな夜があった。
自分の進路のことで、両親が言い争っていた夜。
学校に行かなくなった自分をどうするかで、声を荒らげていた夜。
結局、自分は何も言えなかった。
ただ布団の中で耳を塞ぎ、聞こえないふりをして、時間が過ぎるのを待っていた。
あのときの息苦しさが、今、胸の奥で再現される。
「……ごめんなさい」
隣の布団が、小さく揺れた。
リーネがうつむいたまま、震える声を漏らす。
「わたしのせいで、家の人たちが……」
彼女もまた、自分の存在が争いの種になっていると感じているのだろう。
ルーディアスは慌てて首を振った。
「違うよ。リーネのせいじゃない」
「でも、わたしがここに来てから……」
「これは、僕の問題だ」
自分でも驚くほどはっきりとした声が出た。
「もともと、お母さんは僕を外に出したいって思ってた。お父さんは、外が怖いから村にいてほしいって思ってる。それがぶつかってるだけ。リーネは、そのきっかけを少し早めただけだよ」
「……」
「それに、きっかけがなかったら、いつかもっと悪い形で爆発してたかもしれないし」
前世の自分の、あのどうしようもない最期を思い出す。
何も決められず、何も言えず、何もしないまま終わったあの終盤。
今度は、そうしたくなかった。
「だから……ごめんって言うなら、一緒に謝ろう」
「え?」
「僕も、リーネも、きっと迷惑かける。でもその分、ちゃんと何かを返す。そうやってバランスを取っていけばいいんだと思う」
言葉にしてみて、少しだけ自分でもこそばゆくなった。
四歳児が言うことじゃない気がする。
リーネはしばらく黙っていたが、やがて布団の中で小さく笑った。
「ルーって……たまにすごく大人みたいなこと言うよね」
「そ、そう?」
「うん。でも、そういうところ、きらいじゃない」
その言葉に、胸がほんのり温かくなった。
壁の向こうでは、まだ父と母の声が続いている。
だがさっきよりも少しだけ遠く感じられた。
◇
翌日。
ガラムは珍しく、朝から険しい顔をしていた。
「ルー、リーネ。ついてこい」
無言で木剣を二本担ぎ、村の出口へと歩き出す。
いつもの外周見回りの雰囲気とは違う。
ルーディアスとリーネは顔を見合わせながら、その背中を追った。
森の中へ入り、村の視線が届かない少し奥まった場所で、ガラムは足を止める。
周囲は木々に囲まれ、倒れた丸太がいくつか転がっていた。
臨時の訓練場として、彼が密かに整えていた場所だ。
「ここなら、少々騒いでも村には聞こえねえ」
ガラムは振り返り、木剣を一本、ルーディアスへ放った。
「ルー。いずれお前は外に出るって、母さんは言ってる」
木剣を胸で受け止めながら、ルーディアスは固唾をのむ。
「俺は正直、行かせたくねえ。外がどんな場所か、身をもって知ってるからな」
ガラムの目が一瞬だけ遠くを見た。
血と煙の匂い。悲鳴と怒号。
そんなものを思い出しているのだろう。
「だが、母さんの言うことも分かる。お前は村だけに収まる器じゃねえ。リーネも、そうだ」
リーネがびくりと肩を震わせた。
それでも逃げ出したりはしない。
その姿に、ガラムはほんの少しだけ口角を上げる。
「だから決めた。外に出るって話を否定しない代わりに――」
ガラムは自分の木剣を構えた。
「剣も、覚えろ。魔法だけじゃ生き残れねえ」
「……うん」
ルーディアスは木剣を握り直し、父の前に立つ。
「リーネ、お前はそこで見てろ。ルーがどれだけ無茶させられてるか、ちゃんと目に焼き付けろ」
「わ、分かりました」
リーネは少し離れた倒木に腰を下ろし、膝の上で両手を組む。
ガラムは深く息を吸い、構えを取るルーディアスをじっと見つめた。
「構えは悪くねえ。だが、甘えがある」
「甘え……?」
「ここは森だ。足を取られたら転ぶ。転んだら、そこで終わりだ」
言うなり、ガラムの木剣が地を裂いた。
風を切る音に続いて、刃先がルーディアスの足元へ迫る。
「っ!」
咄嗟に飛び退く。
だが、足が根に引っかかり、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
「ルー!」
リーネの叫びが聞こえる。
地面に手をついた衝撃で、掌がじんと痛んだ。
「立て」
ガラムの低い声が降ってくる。
「外の世界じゃ、一度倒れたら死ぬんだ」
ルーディアスは歯を食いしばり、すぐに立ち上がろうとする。
けれど、身体はまだ小さく、うまく力が入らない。
「体勢を立て直すのが遅い。相手は待っちゃくれねえ」
追撃。
ガラムの木剣が、今度は肩口へと振り下ろされる。
木と木がぶつかる高い音が森に響いた。
ルーディアスはとっさに木剣を持ち上げ、ぎりぎりで受け止める。
「くっ……!」
腕がしびれる。膝が震える。
でも、踏ん張る。
前の世界では、立ち上がれなかった。
一度躓いて、それっきりだった。
もう二度と、同じようにはなりたくない。
「立て、ルー」
ガラムの声は厳しい。だが、その奥にあるのは怒りではなく、焦りだった。
守りたいのに守れない未来への恐怖。
「俺がどんなに頑張っても、お前の代わりに生きることはできねえ。だから、お前自身が立てるようになれ」
「……僕は」
膝をつきかけた身体に、もう一度力を込める。
手の中で、木剣の感触が確かに存在を主張する。
「僕は、立てる……!」
叫びと共に、ルーディアスは前へ踏み込み、必死に木剣を振るった。
ガラムの剣に弾かれても、何度でも。
腕が悲鳴を上げても、足がつりそうになっても。
やがて、息が大きく乱れ、視界が涙で滲んできた。
「や、やめて……」
リーネの小さな呟きが聞こえる。
「ルーが……壊れちゃう……」
震える声には、深い不安がにじんでいた。
自分が少し前までそうだったように、人が壊れていく姿を、彼女は間近で見てきたのかもしれない。
「大丈夫だ」
ガラムがちらりとリーネを見やる。
「こいつは、簡単には折れねえ」
その言葉を裏付けるように、ルーディアスは倒れかけた膝をもう一度伸ばした。
涙は止まらない。喉も痛い。
それでも、木剣を離さなかった。
◇
その夜。
ミナリスはルーディアスの腕にそっと手を当てた。
昼間の訓練でできた青あざや擦り傷が、じわじわと薄れていく。
「痛かったでしょう」
「……ちょっとだけ」
「ちょっと、ねえ」
ミナリスは苦笑しながら、もう片方の腕も癒していく。
「ごめんね、ルー」
「え?」
「母さん、あなたを危険な場所に行かせようとしてるのかもしれない」
声には、自分自身への責めるような響きがあった。
「この村にいれば、それなりに平和に暮らせる。危険な目に遭う回数は、きっと減る。それは分かっているの」
「うん」
「でも、あなたの魔力を見ていると、どうしても思ってしまうの。ここだけで終わらせてしまうのは、きっと違うって」
ルーディアスは、少しだけ目を伏せた。
前世の自分を思い出す。
狭い部屋の中で、画面の中の世界だけを見ていた日々。
外には怖いものがいっぱいある。人も、視線も、失敗も。
だから、その全部から目をそらして、楽な方に逃げ続けた。
その先にあったのは、空っぽの毎日だった。
「僕は」
言葉にするのは少し怖かったが、それでも続ける。
「僕は、外の世界を見たいよ」
ミナリスの手がぴたりと止まる。
「リーネも……きっと外に帰るんだと思う。僕は、そのときに隣に立てるくらいにはなりたい」
「ルー……」
「それに、ここにいても、いつかは限界が来ると思う。だったら、準備できるうちに、少しずつ外に出ていきたい」
前世では、準備なんて何ひとつしてこなかった。
何かを始める前に諦めて、そのまま終わった。
今度は違う。
怖いからこそ、ちゃんと準備をしたい。
ミナリスは、そっとルーディアスを抱きしめた。
「あなた……そんなことまで考えてるのね」
「ちょっとだけ」
「ちょっとじゃないわよ」
小さく笑ったあと、ミナリスの肩がわずかに震えた。
「母さんね、あなたを外に送り出すことを想像するだけで、怖くてたまらないの。本当は、一生ここで抱きしめていたいくらい」
「母さん……」
「でも、それはきっと、私のわがままね。あなたの未来を閉じ込めることになる」
耳元で囁かれる言葉に、ルーディアスはそっと腕を回した。
「閉じ込められても、きっと僕は文句は言わないよ」
「そんなこと言わないの」
「でも、母さんが笑って送り出してくれた方が、僕はうれしい」
ミナリスはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。
「……ルー。あなたの未来を、信じるわ」
その言葉は、静かなのに、とても強かった。
◇
翌日。
ミナリオ家の食卓には、珍しく重たい空気が流れていた。
パンとスープの匂いはいつも通りなのに、誰も手を伸ばそうとしない。
「話をしよう」
ガラムが低い声で切り出した。
「外の学院の話だ」
ミナリスは顔を上げ、リーネはスプーンを握ったまま固まる。
ルーディアスは息を呑み、背筋を伸ばした。
「俺は、まだ早いと思っている」
ガラムは率直に言った。
「盗賊の情報が隣村から届いている。魔物の出現も増えている。そんな時期に、わざわざ辺境から外へ出すなんて、正気の沙汰じゃねえ」
「でも、ルーの力は、もう村だけじゃ収まりきらないわ」
ミナリスが言い返す。
「リーネの知識も、この家の中だけで終わらせるには惜しい。学院に行けば、二人とももっと学べる。きっと、もっと多くの人を助けられるようになる」
「助ける前に、殺されるかもしれねえんだぞ」
「だからこそ、鍛えてるんでしょう?」
ミナリスの声が少し震える。
「ガラム。あなたも分かってるはずよ。ルーはきっと、どこかで外と関わることになる。この村にずっと閉じ込めておける子じゃないって」
「だからって、わざわざ危険に放り込むことねえだろ!」
ガラムがテーブルを叩いた。器が跳ね、スープが少しだけこぼれる。
「俺たちの仕事はな、子どもを外に出すことじゃねえ。守ることだ」
「守るだけじゃ……人生は進めないわ」
ミナリスの目に、涙が光る。
「私たちはもう、ある程度生きた。ここで終わってもいい。でも、この子たちは違う。もっと先を見てほしい」
リーネは席の端で縮こまり、拳を握りしめていた。
「わ、わたしは……」
何か言おうとして、喉で言葉がつっかえる。
「リーネは悪くない」
ガラムが唸るように言った。
「問題なのは、俺たちだ。親として、どこまで子どもの行き先に口を出していいのかって話だ」
「だからこそ――」
ミナリスが言いかけたとき。
「待って」
ルーディアスは立ち上がっていた。
小さな身体なのに、その声は不思議とよく通る。
「僕の話も聞いて」
ミナリスもガラムも、リーネも、驚いたようにこちらを見た。
前世では、一度もこんなふうに話し合いの場に立ったことがなかった。
いつも逃げて、黙って、決めてもらう側でしかなかった。
もう、そうはしたくなかった。
「僕は……僕の意志で、外の世界へ行きたい」
静まり返った食卓に、言葉が落ちる。
「お前……」
ガラムの拳が強く握られた。
ミナリスは唇を押さえ、リーネは息を飲んでいる。
「この村が嫌いなわけじゃない。むしろ、大好きだよ」
ルーディアスは一人一人の顔を見た。
「お父さんとお母さんがいて、リーネがいて。帰る場所があるのは、とても幸せだと思う」
前世にはなかったものだ。
だからこそ、今度は守りたい。
「でも、ここだけにいると、きっといつか後悔する気がする。僕は、他の世界も見てみたい。リーネが知っている魔法も、もっと知りたい」
息を吸い、続ける。
「そして、いつか本当に危ないことが起きたとき、この村を守れるくらい強くなりたい」
「ルー……」
ミナリスの目から、涙が一粒こぼれた。
「だから、外に出たい。それは――」
自分の意思だ。
「僕の、わがまま」
静かな宣言だった。
ガラムは目を閉じ、深く息を吐く。
拳を握る手の甲には、浮き上がった血管がくっきりと見えていた。
「そうか」
少しの沈黙のあと、彼は目を開けた。
「お前が、そう言うなら」
ゆっくりと言葉を区切る。
「俺は、鍛えるしかねえな」
その一言に、ルーディアスは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ガラム……」
ミナリスもまた、涙を拭いながら笑う。
「ルー。あなたが自分で選んだ道なら、私はそれを信じるわ」
リーネは、震える声で言葉を継いだ。
「わ、わたしも……できる限り、一緒に行きたい。ルーが危ない目にあわないように、隣で魔法を支えたい」
「心強いな」
ガラムがわずかに口角を上げる。
「じゃあ決まりだ。すぐにどうこうはできねえが、いつでも外に出られるよう、準備だけは始めよう」
「うん!」
ルーディアスは思わず大きな声で返事をした。
ミナリオ家の食卓に、ようやく小さな笑いが戻ってくる。
喧嘩をして、ぶつかり合って、それでも最後に向かう先を決められたのは、かつての自分には考えられないことだった。
こうして――
ミナリオ家の中で、「外の世界へ向かう準備」が静かに始まった。
それは同時に、ルーディアスの人生が大きく動き出す狼煙でもあった。




