第3話「辺境村の天才児」
四歳になった。
ルーディアスは、鏡代わりに使っている水桶の水面を覗き込みながら、ふとそんなことを思った。
水面に揺れるのは、金色がかった髪と、淡い緑色の瞳。どう見ても、どこにでもいる辺境村の子どもの姿だ。
けれど、中身だけは違う。
前世三十路オーバーの引きこもり。
そこに、転生特典の高い魔力量と、なぜかやたらと良く回る頭までついてきた結果、幼児の器に収まりきらない何かになってしまっている。
「ルー、そんなところでしゃがみ込んでいると風邪をひきますよ」
背中からかかった声に振り向くと、ミナリスが洗濯籠を抱えて小走りに近づいてきていた。
四年経っても、彼女の銀髪と微笑みは相変わらず綺麗だ。ルーディアスは思わず胸の奥が温かくなる。
「大丈夫。寒くないよ、母さん」
「口が達者になりましたね。本当に四歳なのかしら」
くすりと笑いながらミナリスはルーディアスの頭を撫でる。
その手つきが心地よくて、ルーディアスは猫のように目を細めた。
「洗濯、手伝う?」
「気持ちだけ受け取っておきます。まだ水が冷たいですからね。ルーはその代わりに、さっき教えた生活魔法、復習してみましょうか」
「あ、うん。やってみる」
ミナリスは桶から少し離れた場所に空の木皿を置き、静かに手をかざした。
「見ててね。水よ、ここへ」
小さく呟くと、桶の水面がふるりと揺れ、細い水の糸が皿へと移動し始める。
勢いを調整しながら、半分ほど水を移したところで、ミナリスは手を下ろした。
「はい、こうやって、必要な分だけ移すのが生活魔法の基本です。お風呂、水やり、お料理。村の仕事はだいたいこれでまかなえますからね」
「ふむふむ……」
ルーディアスは頷き、自分も真似をする。
息を整え、胸の奥にある魔力の塊へ意識を向ける。そこから細い糸を引き出すように、指先へ流していく。
「水……ここ」
言葉になっているのか怪しい短い詠唱。それでも、桶の水面は素直に反応した。
水が持ち上がり、ミナリスの時より明らかに太い柱になって木皿へと移動する。
どぽん、と少し派手な音を立てて水が収まった。
「あっ、やりすぎた」
「ふふ、たっぷりですね。悪くありません。けれど、使う分だけでいいんですよ」
「うん……つい」
魔力制御だけなら、正直、村の大人たちをとっくに追い越している。
ミナリスもそこは分かっていて、目を細めて誇らしげに笑った。
「ルー、魔法は誰かを助けるために使うものです。壊すための力じゃありません。前にも言いましたね?」
「うん。母さんの魔法、好き。あったかいし、おいしいし、便利だし」
「最後の理由が本音ですね?」
からかうように目を細められ、ルーディアスは照れくさくて視線を逸らした。
壊す力の怖さは、嫌というほど知っている。
一歳のとき、感情の暴発と一緒に溢れた魔力で、家の壁を吹き飛ばしたあの出来事。あれから、彼は無意識に魔力制御の鍛錬を続けた。
その成果もあって、今では暴発することはほとんどない。
だが、あの日の光景を覚えている村人たちは、彼を見る目にいまだ不安を残していた。
あの家の坊は怖い。
あれは人の子じゃない。
魔物だ。呪いだ。
そんな噂話が、ルーディアスの耳に入らないはずがなかった。
「ルー?」
「あ、ううん、なんでもない」
ミナリスの声に、ルーディアスは慌てて表情を戻す。
彼女に余計な心配をかけたくない。それだけは強く思っていた。
前世で、自分のせいで家族を苦しませた記憶が、心のどこかにこびりついている。
◇
「おい、ルー!」
家の裏手から、太い声が飛んできた。
木剣を肩に担いだガラムが、口角を上げて立っている。
「出てこい。少し鍛えてみるか」
「訓練?」
ルーディアスが首を傾げると、ミナリスが小さく息をついた。
「ガラム、怪我させないでくださいね」
「当たり前だ。うちの宝物だからな」
さらりとそんなことを言うから、この父親はずるい。
ルーディアスは胸の奥がくすぐったくなりながらも、嬉しさを隠せなかった。
「行ってきます、母さん」
「はい。転ばないようにね」
ルーディアスは駆け出した……と言いたいところだが、四歳児の足では走るというより小走りだ。
それでも、以前よりは体の動きも安定してきている。魔力制御と一緒に、体の使い方も意識してきた成果だ。
「よし、来たな」
家の裏の空き地には、すでに丸太で組んだ簡易の標的や、砂を敷き詰めた練習場のようなものが作られていた。
ガラムがこっそり用意していたらしい。
「これ、お父さんが作ったの?」
「ああ。ルーの魔法訓練用ってミナリスには言ったが、まあ、剣の練習にも使える」
ガラムはニヤリと笑い、ルーディアスの前に短い木剣を一本差し出す。
「持ってみろ。重くねえか?」
「……ううん。ちょっと重いけど、持てる」
両手で柄を握ると、ずしりとした重みが腕に伝わる。
前世で筋トレなどしたこともないルーディアスにとっては、なかなかの負荷だ。
「いい顔をしている」
ガラムは自分の木剣を肩から下ろし、真正面に立った。
「まずは構えからだ。いいか、足は肩幅。左足を少し前に出す。腰は引くな。体の芯を真っすぐ立てろ」
「こう、かな」
「お、悪くねえ。飲み込みが早いな」
ほめられて、ルーディアスの頬が緩む。
だがガラムはすぐさま次の指示を飛ばした。
「腕に力を入れすぎるな。力みすぎると、振る前に疲れる。剣ってのはな、振る前の構えで半分決まる」
「ふ、振る前の……」
「そうだ。力は体の中心から剣に流すイメージでいい。腕だけで振ろうとするな」
言っていることは理屈として理解できる。
問題は、それを四歳児の体で再現できるかだ。
ルーディアスは恐る恐る、木剣を振り下ろした。
ひゅ、と頼りない音。
剣先がぶれて、砂を軽く叩いただけで終わる。
「う、うーん……」
「そりゃそうだ。最初からうまくいったら、俺の立場がねえ」
ガラムは豪快に笑い、ルーディアスの背中をぽんと叩いた。
「だが、目つきは良かったぞ。ちゃんと前を見ていた。怖がって目をつぶる奴が多い中で、それだけでも立派だ」
「本当?」
「ああ。お前、本当に四歳か?」
問いかけられて、ルーディアスは少しだけ言葉に詰まった。
本当は四歳どころか、前世を合わせれば三十をとうに越えている。けれど、それを正直に言えるわけがない。
「……うん。でも、強くなりたい」
短く答えた声には、どうしても前世の後悔が滲んでしまう。
あの頃、自分は何もできなかった。
逃げてばかりで、挑戦もせず、誰も守れなかった。
そんな自分を、心の底から嫌っていた。
だから今度こそ、変わりたい。
ガラムはルーディアスの目を見て、ふっと真剣な表情になった。
「そうか。なら、ちゃんと教えてやる。剣でも、体の動かし方でも、男としての心意気でもな」
「男としての……心意気」
「そうだ。お前の力を恐れる奴も出てくるだろう。もう出てきてるかもしれん」
ガラムは村の方角に目をやり、わずかに口を引き結ぶ。
「あいつは魔物だ、とか。呪いだ、とか。くだらねえ噂は、いくらでも飛び交う」
「……うん、知ってる」
ルーディアスは素直に頷いた。
実際、耳に入っている。
「あの家の坊は怖い」
「この前も、ちょっとしたことですごい光を出していた」
「近づいたら呪われる」
そんなことを言われて、目の前で輪を崩されたことだってある。
「だがな」
ガラムの声が、少しだけ低くなる。
「それは、お前が強い証拠でもある。人は、自分より強えものを無意識に怖がる。自分にはないものを持ってる奴を、無意識に遠ざける」
「証拠……」
「お前は普通じゃねえ。だからこそ、俺たちは誇っていい。怖がらせないように振る舞うことも大事だが、お前は何も悪くねえ」
その言葉が、胸の真ん中にまっすぐ刺さった。
前世で、誰かにそう言ってもらいたかった。
お前は何も悪くない。
ルーディアスは、ぎゅっと木剣の柄を握りしめる。
「……ありがとう、お父さん」
「礼を言う暇があるなら、もう一振りだ。ほら、構えろ」
そう言いながら、ガラムは不器用に笑った。
それがたまらなく嬉しくて、ルーディアスは何度も木剣を振った。
腕はすぐに悲鳴を上げたが、心は妙に軽かった。
◇
剣の訓練を始めた日から、父との距離は少しずつ縮まっていった。
ガラムは言葉数こそ少ないが、褒めるときは褒め、叱るときはきちんと叱るタイプだ。
「今の一撃は悪くねえ。腰の入りがよかった」
「足元を見すぎだ。敵の目を見ろ」
「お、今のは俺でも避けにくいな」
そうやって、少しずつ正面から向き合ってくれる。
だが一方で、村の子どもたちとの距離はなかなか縮まらなかった。
ある日の昼下がり。
村の中央広場では、子どもたちが木片を剣に見立てて遊んでいた。
鬼ごっこ、戦いごっこ。笑い声が響いている。
ルーディアスは、少し離れたところからその様子を眺めていた。
輪の中に入りたい。
一緒に走り回りたい。
そんな気持ちが、胸の奥にふっと浮かぶ。
前世の自分なら、その感情ごと押し殺して、見なかったふりをしていただろう。
けれど今は違う。逃げないと決めた。
ルーディアスは、意を決して一歩前に出た。
「ねえ、僕も混ぜて」
できるだけ笑顔を作って声をかける。
だが、その瞬間、子どもたちの動きがぴたりと止まった。
「あ……」
「ルーディアだ」
視線が一斉にこちらを向く。
次の瞬間、空気の温度が変わった。
「この前、森の方で変な光、出してたよな」
「知ってる。魔法、ドーンって」
「近くにいたら、一緒に吹っ飛ばされるかも」
ささやき声。
冗談めかしているが、そこに混じる本気の恐怖は、ルーディアスにも分かった。
「そんなことしないよ。僕、もう暴発しないように気をつけてるし……」
必死に笑ってみせる。
けれど、輪の中の誰も、彼を招き入れようとはしなかった。
「ごめん、今、人数ちょうどだからさ」
「あ、うん……」
はっきり拒絶されたわけではない。
けれど、それは「入ってほしくない」という意味だと痛いほど伝わってきた。
前世でも、何度も味わった感覚だった。
教室の隅。
グループ分けの時に余るあの瞬間。
「今はちょっと」「また今度」が積み重なって、気づけば誰とも話さなくなっていた。
あの頃の自分は、いつからか「なら、最初から関わらなければ傷つかない」と結論づけてしまった。
結果、楽な部屋の隅に逃げ込んで、そのまま世界から降りてしまった。
「……」
胸が少し痛んだ。
けれど、涙は出なかった。
ルーディアスは、小さく息を吸って、笑ってみせる。
「そっか。じゃあ、また今度」
背中に刺さる視線を振り払いながら、広場を離れる。
足取りはできるだけ、普段どおりを装った。
◇
その夜。
ルーディアスは布団の中で丸くなりながら、天井を見つめていた。
家の中には、いつもより少しだけ、ピリピリとした空気が漂っている。
薄い板壁越しに、小さな言い争いの声が聞こえてきた。
「このまま村に置いていていいのか? あいつの力は……」
低いガラムの声。
「だからこそよ。村に居場所がないなら、外に出て学べる場所を探すべきなの」
静かだが、どこか切迫したミナリスの声。
「外は危険だ。盗賊も魔物もいる。王都の連中だって、辺境の子どもをどう扱うか分からん」
「だからといって、この村の中だけで一生を終わらせるの? あの子は、私たちよりずっと遠くへ行ける子よ」
「行かせたくないんだ、簡単に」
「分かってる。私だって、できるならずっとここで一緒にいたい。けれど……」
一瞬、沈黙が落ちた。
ルーディアスは布団からそっと抜け出し、戸口の影から二人を覗いた。
ガラムは拳を握り締め、視線を落としている。
ミナリスは涙をこらえるように唇を噛みしめていた。
「幼いからこそ、広い世界を知ってほしいの。ルーはこの村の子だけど、この村だけの子じゃないわ」
「だが、あいつが外で傷ついたらどうする。俺たちは守れないんだぞ」
「村の中なら絶対に安全なの? あの噂の中で、あの視線の中で生きるのが、本当に幸せ?」
ミナリスの声が少し震えた。
「私、あの子が広場から帰ってきた顔を見て分かった。あの子、また『自分のせいだ』って思ってるわ」
「……」
「前の世界がどうだったかは知らない。でも、あの子の目を見ると、たまにひどく怯えた色になるの。きっと、何かを繰り返すのが怖いのね」
ガラムは眉をひそめ、頭を掻きむしった。
「お前は時々、全部見透かしてるみたいで怖いな」
「母親ですもの」
ミナリスは少しだけ笑ってみせたが、その目に光るものをルーディアスは見逃さなかった。
「私は、ルーに可能性を閉ざしてほしくない。あの子の力を、ただ『怖い』で終わらせたくないの。きちんと教えてくれる人がいる場所へ行けば、あの子はきっと……」
「王都の学舎か、ギルドか……」
ガラムは重い声で呟く。
「だが、そんな話が簡単に転がってるか?」
「だからこそ、探さなきゃ」
「探すって……誰が? どうやって?」
「……私、昔のつてを当たってみるわ」
ミナリスのその言葉に、ルーディアスは小さく目を見開いた。
彼女には、まだ自分の知らない過去があるのだと、改めて思い知らされる。
父は息子を守ろうとしている。
母は息子の未来を広げようとしている。
どちらの言い分も、ルーディアスには痛いほど分かった。
だからこそ、自分のせいで二人が言い争っているように感じてしまう。
「僕のせいで……」
喉の奥がきゅっと締めつけられる。
布団の中へ戻り、膝を抱え込むように丸くなった。
「また、同じだ……」
前世でも、自分が負担になっていた。
学校にも行かず、働きもせず、家族だけに心配をかけ続けた。
最後は、何も返せないまま終わった。
今度こそ、変わるって決めたのに。
目の奥が熱くなり、涙が滲む。
けれど、声には出さなかった。
今、泣いてしまったら、本当に子どもに戻ってしまいそうで。
◇
翌朝。
食卓には、いつもと変わらない朝食が並べられていた。焼きたての麦パンと、温かいスープと、炒めた野菜。
「おはよう、ルー」
ミナリスはいつものように微笑み、ルーディアスの前に皿を置いてくれた。
その笑顔は、昨夜泣きそうになっていた人とは思えないほど穏やかだった。
「おはよう、母さん」
「おう、起きたか。今日は剣の練習はほどほどにしておけよ。昨日ちょっと飛ばしすぎたからな」
ガラムも、普段どおりにパンをちぎりながら声をかけてくる。
「うん。分かってる」
ルーディアスは二人の顔を交互に見た。
言い争いの痕は、食卓には残っていない。
だからこそ、余計に胸が締めつけられた。
「どうしたの、ルー。食欲ない?」
「え、ううん。あるよ」
慌ててパンにかじりつく。
香ばしい匂いと、焼きたての柔らかさが口の中に広がる。
「おい、ちゃんと噛めよ。喉につまらせたら笑えねえぞ」
「お父さん、それ笑えません」
ミナリスのツッコミに、ガラムは肩をすくめて笑った。
何でもないやりとり。
けれど、その「何でもなさ」が、今のルーディアスには何より愛しく感じられた。
ずっと、この時間が続けばいい。
そう願わずにはいられない。
しかし同時に、このままではいけないとも思っていた。
この小さな村の中に留まり続けることが、自分にとって本当に正しいのか。
父と母の言い争いを、また増やすだけではないのか。
答えはまだ出ない。
けれど、何かが、ゆっくりと動き始めていることだけは分かっていた。
◇
辺境の小さな村。
その片隅で育つ、魔力にあふれた天才児。
村の子どもたちと遊ぶことは少ない。
魔術の制御と、剣の基礎と、生活魔法の訓練。
そんな日々が、彼の生活の大半を占めていた。
孤立と、ささやかな幸福と、不安と、決意。
それらを抱えながら、ルーディアスは一歩ずつ前に進もうとしていた。
彼はまだ知らない。
自分の人生を大きく変える人物が、もうすぐこの村を訪れようとしていることを。
辺境の天才児という噂を聞きつけて、王都から派遣された人物が、すぐ近くまで来ていることを。
自分の人生を大きく変える人物が、すぐ近くまで来ていることを──。




