第十二話「禁域の民の真実」
光が消え、世界が音を取り戻したとき。
ルーディアスは、自分がまだリーネを抱きしめていることに気づいた。
彼女の体は驚くほど軽かった。
だが、その軽さが今は恐ろしく感じられる。
胸にかすかに当たる鼓動だけが、彼女がまだここにいるという証拠だった。
「……リーネ」
呼びかけると、腕の中で彼女の瞼がわずかに震えた。
「ルー……」
消え入りそうな声。
焦点の合わない青い瞳が、かろうじて彼を捉える。
周囲では、教師たちが慌ただしく指示を飛ばしていた。
「負傷者を先に運べ! 魔力酔いを起こしている者も多い、治癒班を呼べ!」
「結界は維持しろ! 都市側の結界と連動している。これ以上の波が来たら終わりだぞ!」
悲鳴と怒号が入り混じり、庭園は一瞬で混乱の渦と化していた。
イリアは額に汗をにじませながらも、冷静に教師の指示を聞き取り、倒れた生徒の人数を数えている。
エランはその場にへたり込み、震える耳を押さえていた。
カナトは歯を食いしばり、ルーディアスとリーネの方を何度も振り返っていた。
「……とにかく、建物の中に避難しろ」
教師の一人が、ルーディアスの肩を強く叩いた。
「彼女も連れていけ。ここでは危険だ」
「はい!」
ルーディアスはリーネをしっかりと抱え直し、ふらつく足で立ち上がった。
まだ身体の芯がじんじんとしびれている。
さっき無理やりひねり出した四属性の魔力が、今になって反動を見せ始めていた。
それでも、彼は一歩も揺るがず、講堂へと続く階段を上っていった。
◇
学院の大講堂は、緊急避難のために開放されていた。
高い天井。
長椅子がいくつも並び、壇上には学院の紋章が掲げられている。
普段は入学式や式典に使われる場所だが、今は震える生徒たちと、走り回る教師たちの声で埋め尽くされていた。
「ここに寝かせなさい」
治癒担当の教師が合図をし、ルーディアスは言われた通りにリーネを長椅子の上にそっと横たえる。
リーネは、まだ息が浅かった。
胸の上が上下するたびに、青い髪がかすかに揺れる。
その手は、彼の袖を離そうとしない。
「ルー……に、げて……」
やっと紡がれた言葉は、ふらふらとした息に混じっていた。
「逃げる? どこに?」
ルーディアスは彼女の手を握り返しながら、眉をひそめる。
「僕たちはもう、学院の中に避難したよ。ここが一番安全だって――」
「ちがう……」
リーネはかすかに首を振った。
「そういう……意味じゃ、ない……。わたし……きっと……捕まる……」
「捕まる?」
聞き慣れない言葉だった。
「誰に? なんで?」
問いかけても、リーネは首を横に振るだけだった。
唇が震え、喉の奥に言葉が引っかかっている。
ルーディアスには、その恐怖の正体が分からない。
ただ、リーネの目の奥に宿った「諦め」の色だけは、痛いほどよく見えた。
それは、前の世界で自分が何度も鏡の中に見たものと同じだったからだ。
「……もう、いや。ルーまで……巻き込みたく、ない……」
「巻き込まれてなんかない」
ルーディアスは、きっぱりと言った。
「僕は僕の意思で、ここにいる。君の隣にいる」
その言葉に、リーネの睫毛がかすかに震える。
その時だった。
「喧騒はここか」
低く響く声が、講堂の入り口から届いた。
振り向くと、そこには一人の老人が立っていた。
白い長髪を背に流し、濃紺のローブをまとった男。
背筋は驚くほどまっすぐで、その瞳は年齢を感じさせない鋭さを宿している。
ただ歩いてくるだけで、講堂の空気が変わった。
見えない圧力が床を這い、空気を重くする。
強大な魔力の気配に、感覚の鋭い生徒たちは思わず息を呑んだ。
「学院長……ザガルト様」
教師の一人が、緊張した声で名を呼ぶ。
そう、この学院の頂点に立つ者。
アルグラン最高位の魔術師、ザガルト・エル=ハルド。
ザガルトは一瞥で講堂の状況を把握すると、ゆっくりとルーディアスたちの方へ歩いてきた。
「暴走の中心はどこだ」
短い問い。
だが、その一言だけで、周囲の教師たちは道を開けた。
「こちらです。先ほどの魔力の波は、この少女から発せられたと――」
教師の説明を聞きながら、ザガルトはリーネの前に立つ。
老人の瞳が、青い髪の少女をじっと見下ろした。
その視線には、哀れみも、怒りもない。
あるのは、冷静な観察者の目だけ。
数秒の沈黙。
やがてザガルトは、低く呟いた。
「……禁域の民、か」
その言葉が落ちた瞬間、空気が凍った。
「きんいき、の……?」
「禁域の民?」
エランが小さく繰り返し、カナトが顔を上げる。
イリアの目が、鋭く細められた。
ルーディアスだけが、その単語の意味を知らない。
「禁域の……民って、なんですか?」
震える声で尋ねると、ザガルトは視線を彼へ移した。
「辺境出身か」
「はい……」
「ならば知らぬのも無理はないな」
ザガルトは短く頷き、ゆっくりと説明を始めた。
「千年前。この大陸を飲み込まんとした古代魔王がいた。名を持たぬ存在。空間そのものを食らう化け物だ」
講堂中が静まり返り、誰もがその言葉に耳を傾ける。
「当時の大魔術師たちは、その魔王を討つことはできなかった。倒せぬならば封じるしかない。彼らは世界の地脈と魔王を繋ぎ、巨大な封印術式を作り上げた」
ザガルトの声には、一切の誇張がなかった。
淡々と語られるその事実が、かえって重く響く。
「しかし、封印には“鍵”が必要だ。起動しなければならないからな。彼らは、人の身体に封印の起動因子を組み込み、一族として残した。それが――禁域の民」
「鍵……?」
ルーディアスの喉がひりつく。
「封印の、鍵……?」
「そうだ」
ザガルトは頷く。
「封印の構造に干渉できる、特殊な魔力の血。魔王や異界からの干渉が強まれば強まるほど、それに反応して魔力が暴走する」
そこで、彼は再びリーネを見下ろした。
「さっきの光柱は、空間魔術の極致。あるいはそれに類する現象。封印のゆらぎか、あるいは何者かの干渉だろう」
老人の瞳が、細く鋭くなる。
「そして、それに最も強く反応したのが、この少女だ」
「そんな……」
ルーディアスは茫然と呟いた。
「じゃあ……さっきの暴走は、リーネが“鍵”だから?」
「正確には、彼女の中にある因子が反応したからだな」
ザガルトの声は冷静だった。
「禁域の民は、生まれながらにして世界の“外側”と繋がりやすい体質だ。多くは何も起こさず一生を終えるが、封印側に変動があれば、今のような暴走を起こす可能性がある」
リーネの肩が、小さく震えた。
「……ごめんなさい……」
絞り出すような声。
「わたし……知られたら……迷惑かけるって、分かってたから……」
震える指が、自分の髪を掴む。
「この色、嫌い。みんな、この髪を見ると……怖がるから」
ミナリスが過去に言っていた言葉が、ルーディアスの頭の中で蘇る。
『危険な血筋が、まじっているのかもしれないわ』
あのときは、漠然とした可能性として聞き流していた。
それが今、はっきりと形を持って目の前に現れている。
ザガルトは、短く息を吐いた。
「……この少女は隔離する」
「は?」
あまりに当然のように告げられたその一言に、ルーディアスの思考が止まる。
「ザガルト様……」
教師の一人が確認するように言った。
「隔離、とは……」
「禁域の民の血が反応している以上、学院に置いておくのは危険だ。封印のゆらぎは、今後も続く可能性が高い。ここは若い魔術師たちが学ぶ場所。何百人という生徒を守らねばならん」
ザガルトの声は、氷のように冷たかった。
「封印研究部門の監視下に置く。王都の地下施設へ送致し、原因究明と制御法の研究対象とする」
「待ってください!」
ルーディアスは思わず叫んでいた。
「リーネは……リーネは悪いことなんてしてません! さっきだって、暴走しそうになってただけで――」
「暴走しそうになっていた、で済めば良かった」
ザガルトは言葉を切り捨てるように返した。
「あの光柱で、都市の一部が消えたのは見たな?」
「……見ました」
「誰が起こしたかは断定できん。だが、結果としてあの現象に最も強く反応し、魔力を暴走させたのはこの少女だ」
老人の瞳が、容赦なく真実を突きつける。
「悪意があるかどうかは関係ない。災いを呼ぶ原因であれば、それは対処すべき危険だ」
「だからといって……!」
声が震える。
ルーディアスは拳を握りしめた。
「だからといって、力があるだけで、誰かを閉じ込めていい理由にはならない!」
「ここは学院だ」
ザガルトの声もまた、少しだけ強くなった。
「感情論では決められん。私はこの学院と、都市を守る責任がある。たとえ一人を犠牲にしてでも、数百、数千を守らねばならん時もある」
その言葉は、残酷なほど筋が通っていた。
だからこそ、許せなかった。
「ルー……」
リーネが、涙で濡れた瞳を彼に向ける。
「やだ……やだよ……ルー、行かないで……」
「行かない」
即答だった。
「僕は君から離れない」
その瞬間、周囲の教師たちが動いた。
「学院長の決定は絶対だ。申し訳ないが、少年。これ以上は――」
警備担当の教師二人が前に出て、リーネの両脇に手を伸ばす。
ルーディアスは反射的に彼女を抱き寄せた。
「やめてください!」
「ミナリオ君。落ち着きなさい」
「落ち着いてなんか……いられません!」
喉が裂けそうなほど叫ぶ。
「リーネは僕の大事な人なんです! 危険だからって、閉じ込めていいわけがない!」
その叫びには、前世の後悔が全て詰まっていた。
あの世界で、自分は何も言えなかった。
誰かが理不尽な目に遭っていても、目を逸らし、画面の向こうでだけ憤っていた。
守りたいと、口では言いながら、手を伸ばすことはなかった。
だから今度こそ。
「ルーディアス!」
エランが叫ぶ。
「リーネは、ルーのこと大好きなんだよ! あたしだって分かるもん! そんな子を、危険だからってだけで――」
「そんなはずない、と言いたいのか?」
ザガルトの一言が、エランの言葉を遮った。
エランは唇を噛みしめる。
獣耳が怒りと恐怖で震えている。
「お前たちの気持ちは理解できる。だが、私は全体の安全を優先せねばならん」
ザガルトが手を振り下ろした。
「この少女を隔離室へ連れていけ」
「はい!」
警備教師たちが一斉に魔力を展開する。
淡い光の縄がリーネの手首を絡め取ろうと伸びた。
「やめろ!」
ルーディアスは魔力を走らせ、咄嗟に風で縄を逸らす。
だが、さっきのような余力はもう残っていなかった。
風はすぐに絡み取られ、逆に彼の足元を縛ろうとする。
「ミナリオ君を拘束しろ。今は興奮状態だ」
「ちょっと待ってください!」
イリアが前に出た。
「彼は暴れていない。ただ叫んでいるだけです!」
「そうだ!」
カナトも声を上げる。
「リーネを一人で連れていくなんて、あんまりだ!」
「お、おかしいよ! あたしたち、何もしてないのに!」
エランは涙声で叫び、教師たちに飛びつこうとした。
しかし、すぐに透明な壁に弾かれた。
薄い膜のような結界が、ルーディアスたちと周囲を隔てていた。
「君たち三人もだ」
ザガルトが告げる。
「彼と少女に過度に接触していた者は、しばらく行動を制限する。悪いようにはせん。ただ、万が一の連鎖を防ぐためだ」
冷静で、揺るがない決定。
教師たちの魔力が結界を強めていく。
「やだ……やだ……!」
リーネが泣き声を上げた。
「わたしが……わたしが、また誰かを傷つけちゃう……! だから……だから、離れて……ルー……!」
その言葉は、彼女の心の奥底にある傷そのものだった。
幼いころから、“魔力が危ない”と言われ続けた。
青い髪を見て顔をしかめられ、人の輪から押し出されてきた。
だから、彼女は最初から距離を取る術しか知らなかった。
自分が誰かと近づけば、その分だけ相手を傷つけるかもしれないと、いつも怯えていた。
「もう、いやなの……」
リーネは涙をこぼしながら言う。
「ルーまで、わたしのせいで苦しんでほしくない……。だから、離れて……」
その言葉が、ルーディアスの胸を貫いた。
前の世界で、自分も同じことを思っていたからだ。
誰かと関われば迷惑をかける。
自分と関わる人なんていない方がいい。
だから、部屋に引きこもっていればいい。
そうやって、自分から世界を閉じた。
その結果、何も守れなかった。
「……嫌だ」
ルーディアスは、絞り出すように言った。
「嫌だよ、そんなの」
ゆっくりと立ち上がる。
結界が足元を絡めようとするが、構わず一歩前へ踏み出す。
「リーネが、誰かを傷つけたくないって思ってるのは分かる。でも、それは君の願いであって、僕の願いじゃない」
彼の声は、震えているのに、どこか不思議な力強さを帯びていた。
「僕は、君と一緒にいたい。君が魔力暴走しかけたら、何度だって止めるよ。君が怖くて泣いてたら、隣にいるよ。君がどんな存在だろうと、僕には関係ない」
「ルー……」
「だから、離れろなんて……言うなよ」
喉の奥が熱くなった。
「前の世界で、僕は誰も助けられなかった。苦しんでる人からも、怖くて逃げた。あれが、死ぬまでずっと心に刺さってた」
自分でも驚くほど素直に、昔の言葉が出てくる。
「この世界でやり直すって決めたんだ。今度こそ、本気で生きるって。守りたい人から逃げないって」
膝が震える。
でも、もう座り込むつもりはなかった。
「リーネ!」
叫ぶ。
「僕は絶対に君を見捨てない!」
講堂中の空気が震えた。
教師も、生徒も、誰もがその言葉に息を止める。
ザガルトでさえ、一瞬だけ目を細めた。
「……感情だけで世界は救えんぞ、少年」
「世界なんて、まだ救えません」
ルーディアスは歯を食いしばりながらも、真っ直ぐに言い返した。
「今の僕にできるのは、目の前の一人を守ることだけです。それでも――それが、僕にとっての世界なんです」
静寂。
ザガルトの目に、一瞬だけ僅かな感情が浮かんだように見えた。
しかし次の瞬間には、再び冷たい光に戻っていた。
「……連れていけ」
学院長の短い命令が落ちる。
「この少年は、今はこれ以上動かせん。拘束だけにとどめろ。禁域の少女は、研究塔へ移送する」
「了解!」
魔力の縄が再び伸びる。
リーネは、泣きながら首を振った。
「やだ……やだよ……!」
それでも、痩せた腕では、教師たちの手を振りほどくことができない。
「リーネ!」
ルーディアスは叫ぶ。
結界が彼の足を絡め取り、身体の動きを封じる。
魔力を込めれば破れるかもしれない。だが、今の彼にはもう、さっきのような力は残っていなかった。
伸ばした手は、空を掻くだけだった。
「ルー……!」
リーネが最後に振り返る。
涙でぼやけた視界の中。
彼女の瞳には、必死に手を伸ばす少年の姿が映っていた。
彼を巻き込みたくない恐怖と、離れたくない本音が、ぐちゃぐちゃに絡まっている。
それでも、彼女の足は引きずられていく。
細い背中が扉の向こうに消えたとき――
講堂には、ルーディアスの叫びだけが残った。
「リーネ!!!!!」
喉が裂けるような声が、石壁に反響する。
扉が閉じる音は、世界から色が消える合図のようだった。
◇
静まり返った講堂で、ルーディアスは膝から崩れ落ちた。
胸の奥が燃えるように熱い。
怒り、悔しさ、自分への情けなさ。
さまざまな感情が渦を巻き、魔力と一緒に脈動している。
「……ルーディアス」
イリアがそっと近づく。
「そのままだと、本当に暴走するわ。深呼吸して。魔力を沈めて」
「ルー……」
エランは泣きはらした顔で、結界の向こうから彼を見つめていた。
カナトは拳を握りしめ、歯ぎしりをしている。
「こんなの……こんなの、おかしいだろ……」
「おかしいよ」
ルーディアスは、搾り出すように言った。
「でも、今は……どうしようもない」
握った拳から、爪が掌に食い込む。
血のにじむ感触が、かろうじて意識を現実に引き戻してくれる。
その痛みを頼りに、ルーディアスはゆっくりと立ち上がった。
足元はふらついている。
それでも、背筋だけは真っ直ぐに伸びていた。
「……連れ戻す」
静かな声。
だが、その中には揺らぎがなかった。
「絶対にだ」
エランが息を呑む。
「ルー……」
「学院長が何と言おうと、禁域の民がどうとか言われようと、関係ない」
ルーディアスは、結界の向こうの友人たちに向けて言った。
「リーネは、僕の先生で、家族で……僕の大事な人だから」
イリアが目を細める。
「そう簡単な相手じゃないわよ。学院長は、王都でも最上位の魔術師。王国の封印研究に深く関わっている人間よ」
「分かってる」
ルーディアスは頷いた。
「だから、僕も強くなる。昨日までと同じじゃ、絶対に届かないから」
彼は、自分の震える手を見下ろした。
この手でさっき守れたものもある。
でも、守れなかったものもある。
なら、選ぶ道は一つだけだ。
「リーネを閉じ込めた場所がどこだって、封印がどうだって、必ず見つける。必ず辿り着く」
その表情は、まだ幼い少年のものだった。
だが、その瞳に宿る光は、前世で何度も死んだように生きてきた大人のものだった。
「だから――リーネ」
閉ざされた扉の向こうに向かって、彼はもう一度だけ言葉を投げる。
「待っててくれ。今度は、絶対に逃げないから」
その誓いは、静かに、しかし確かに、学院の空気を震わせた。
アルグラン魔導学院で起きた“消失事件”と、
禁域の民の少女の隔離。
それは後に、この世界全体を揺るがす大きな物語の始まりとして語られることになる。
だが、このときルーディアスが見ていたのは、ただ一人の青髪の少女の涙だけだった。




