第十一話「学院都市、消える」
その朝のアルグランは、いつも通りにきらきらしていた。
夜の冷たさを残した澄んだ空気。石畳の通りの両脇には露店が並び、焼き立てのパンと香辛料の匂いが混ざる。商人たちは朝一番の客をつかまえようと声を張り上げ、街路上空では配送用の小型ゴーレムが荷籠を下げてゆっくりと飛んでいた。
「今日も賑やかだなあ……」
寮の窓から見下ろしながら、ルーディアスは小さくつぶやく。
ついこの前まで、辺境の小さな村の中だけが世界の全部だった。
それが今は、こうして大都市の一角で、他国の人々と同じ時間を生きている。
生き直しの人生は、少しずつ確かに前に進んでいた。
そう思っていた、その時だった。
朝食にスープを口に運んだ瞬間、ルーディアスの背筋を何かが走り抜けた。
舌に触れた味ではない。匂いでもない。
もっと深いところ、胸の奥で、見えない波が揺れたような感覚。
「……ん?」
スープ皿を持つ手を止める。
耳の奥が少しだけ詰まるような違和感。
頭の中で微かなざわめきが広がる。
魔力だ、とすぐに分かった。
街全体に流れているはずの魔力の川が、どこかで歪んでいる。
わずかな振動が、空気の中に混ざり込んでいる。
本来なら、こういう変化は感覚の鋭いリーネが先に気づくはずだった。
「リーネ、今の……」
対面の席を見ると、リーネはスプーンを持ったまま、じっと自分の胸元を見つめていた。
青い髪の先が、いつもより重たそうに揺れている。
「ルー……なんだか、胸が苦しい……」
白い指が制服の胸元をぎゅっと掴む。
顔色は悪く、額には薄く汗が浮かんでいた。
「魔力、乱れてる?」
「うん……なんか、ぐるぐるする。普通の暴走とは違う感じ……」
リーネは目を閉じ、瞳の中で何かを探るように沈黙した。
ルーディアスはそっと手を伸ばし、彼女の手の甲に自分の手を重ねる。
そこから流れ込んでくる魔力の波は、たしかに普段と違っていた。
いつものリーネの魔力は静かな湖のように澄んでいる。
今は、遠くから投げ込まれた石が延々と波紋を広げているような、不穏な揺れ。
「無理して授業に出なくても……」
「平気。行く。何かあった時、わたしが見ていないと不安」
リーネはそう言って、スプーンを置いた。
その横顔には、恐れと同じくらい、決意の色があった。
◇
午前の魔術史の授業は、本来なら退屈なはずだった。
「では、アルグラン魔導学院の礎となった古代魔法文明についてだが……」
教壇の上で、老教授が分厚い資料を開きながら話を続ける。
黒板には古代文字で書かれた魔法陣の写しが並び、その線の意味を一つひとつ解説していく。
ルーディアスは、最初の数分は真面目にノートを取ろうとした。
だが、どうしても意識が別の方向へ引き戻される。
耳の奥で、さっきのざわめきが続いていた。
周期的な振動。
遠くから鳴り続けている低い鐘の音のような、一定の波。
魔力の流れが、街のどこかで不自然に集められている。
ちらりと隣を見る。
リーネは机に頬をつけるように伏せ、呼吸が浅くなっていた。
青い髪の先端だけが、微かに光を帯びている。
「リーネ、大丈夫?」
小声で声をかけると、リーネはゆっくりと顔を上げた。
「……だめ、かも。変な感じ。胸の内側から、何かに引っ張られてる」
「保健室行く?」
「授業終わるまで、がんばる……」
強がりなのは分かるが、目の下の陰は隠せていない。
教室の後ろの方では、エランが落ち着かない様子で椅子の上でもぞもぞしていた。
獣耳が落ち着きなく動き、尻尾もそわそわと揺れる。
「ねえ、なんか今日、空気変じゃない?」
「おい、エラン。先生の前で騒ぐな」
ぼそり、とカナトの声。
前の席では、イリアが眉をひそめて窓の外を見ていた。
彼女の瞳は、遠くの何かを測るように細くなっている。
「……魔力の波動。周期が普通じゃないわ」
イリアは誰にともなく小さくつぶやいた。
「一定の方向から押し寄せては引いていく。呼吸みたいに。何か、大きな術式が動いている」
「術式?」
ルーディアスの背筋に、冷たいものが走る。
地面の奥で、何か巨大なものが目を覚まそうとしているような。
そんな感覚が、さっきよりも強くなっていた。
教授も、さすがにただならぬ空気に気づいたのか、黒板にチョークを置いた。
「……今日はここまでにしよう。体調の優れない者は保健室へ。あまり外をうろつき回らないように」
授業が早めに切り上げられ、教室中にざわめきが広がる。
「最近、魔力暴走が増えてるって噂、本当なんだな……」
「結界の調整、失敗してるんじゃないか?」
「高等部の方で何か実験してるって話もあったし……」
誰もが不安を口にし始めていた。
◇
「とりあえず、外の様子を見よう」
昼休み。
ルーディアスたちは、いつもの学院庭園の一角に集まっていた。
大きな木の下、噴水のそば。
昼食を広げるにはちょうどいい場所だが、今日はどこか落ち着かない空気が漂っている。
エランは尻尾をぎゅっと抱え込むようにして座り、耳をぺたんと寝かせていた。
「耳がキンキンする……何これ……」
「鼓膜に負担をかけるような魔力の振動だ。獣人族は聴覚が鋭い分、きついはずだ」
カナトが難しい顔で空を見上げる。
「ゴーレムも妙にふらついてる。普段ならまっすぐ飛んでるのに、軌道が少しずつぶれてる」
「街の魔力基盤が、どこかで引っ張られているわね」
イリアが冷静に言った。
「これは自然現象じゃない。誰かが、何かを起動させた」
「誰が? なんのために?」
ルーディアスの問いに、イリアは首を振る。
「分からない。でも――」
そこで、彼女の言葉が途切れた。
視界の端で、誰かが叫んだからだ。
「あれ……空が……!」
庭園にいた生徒たちが、一斉に空を仰ぐ。
学院都市の中心部。
アルグランの象徴とも言える巨大な時計塔。そのさらに上空で、空がゆっくりと歪んでいた。
雲が裂ける。
青い空に、白い光が一本、垂直に刻まれる。
最初は細い筋だった。
だが、瞬きする間にそれは太くなり、眩しさを増し、世界の色を塗りつぶすように膨らんでいく。
「な、なにあれ……」
誰かが震えた声で言う。
次の瞬間、世界が揺れた。
耳をつんざく轟音。
足元から突き上げるような衝撃。
噴水の水が吹き上がり、ベンチが跳ね、木の葉が一斉に舞い上がる。
光柱が、時計塔の真上に突き刺さった。
そして――
「……消えた?」
誰かの声が、静かに漏れた。
光が収まった先。
そこにあるはずのものが、なかった。
学院都市アルグランの一角が、丸ごと欠け落ちていた。
石造りの建物、賑やかな市場、走っていた馬車、空を飛んでいたゴーレム、人の姿。
そこにあったはずの全てが、まるで巨大な匙でえぐり取られたように、綺麗に消えていた。
残っているのは、不自然なほど滑らかな地面の断面だけ。
建物の残骸も、瓦礫も、血の跡すらない。
「な……なんだ、あれ……?」
「人が……人が、いない……!」
「こんなこと、魔法で……できるのか……?」
悲鳴が街中に溢れ出す。
走り出す人々。
泣き叫ぶ子ども。
店を閉めようと慌てる商人。
遠くの方で、鐘が鳴らされる。
「学院都市非常事態発令! 全学生は学院に留まれ! 市街地への不用意な移動を禁ずる!」
高所から拡声魔法による声が飛び、教師たちが次々と結界を展開し始める。
学院全体を包み込むように、透明な光の膜が形成されていくのが見えた。
その喧騒の中で、ルーディアスの腕を掴む手が震えた。
「ルー……」
リーネだった。
その顔は、今まで見たことのないほど蒼白だった。
青い瞳が見開かれ、光柱のあった場所を凝視している。
胸元に集まる魔力が、目に見えるほど渦を巻き始めていた。
「リーネ、下がって――」
「……あれは、だめ」
リーネの声は、かすれていた。
「あれは、来ちゃいけない……来ちゃいけないのに……呼んでる……」
「呼んでる?」
意味を問い返す前に、リーネの身体がびくんと跳ねた。
青い髪がふわりと浮き上がり、その一本一本が光を帯びる。
瞳孔が大きく開き、まるで別の何かを映す鏡のような青に染まる。
「リーネ!」
ルーディアスが抱きとめた瞬間だった。
リーネの身体から、暴風のような魔力の波が吹き出した。
目に見えない衝撃が周囲に広がり、近くにいた生徒たちが次々と押し倒される。
噴水の水が天井まで吹き上がり、木々の枝が折れ、石畳にひびが入る。
「くっ……!」
ルーディアスも一瞬、膝をつきかけた。
それでも必死に踏ん張って、リーネの肩を固く掴む。
リーネの魔力は、いつもの繊細なものではなかった。
もっと荒々しく、形を持たない大河のように暴れている。
「……これは、魔力暴走なんかじゃない」
少し離れた場所で、イリアが震えた声を漏らした。
「もっと根源的な……魔力そのものの“源”が揺さぶられている感じ」
「ルーディアス!」
エランが必死に立ち上がり、尻尾をだらりと垂らしながら叫ぶ。
「リーネちゃん、やばいよ! あのままだと――」
「ミナリオ!」
カナトも杖を構え、ルーディアスのそばに駆け寄ろうとする。
だが、リーネから放たれる魔力の風で、近づくだけで全身が押し戻される。
「近づくな!」
ルーディアスは叫んだ。
「今、無理に触ったら巻き込まれる!」
それでも、自分だけは離れない。
前の世界で、苦しむ人を前にして何もできなかった自分を、何度も夢に見た。
また同じように背中を向けたら、この人生をやり直した意味がなくなる。
「大丈夫。僕が、抑えるから」
耳鳴りを押し殺しながら、ルーディアスはリーネの両手を強く握った。
自分の魔力を、彼女の中へ細く流し込む。
以前、暴走しかけた時と同じように、彼女の魔力の流れに寄り添う。
だが、今回は桁が違った。
リーネの体内を駆け巡る魔力は、彼女ひとりのものではないように感じられた。
もっと大きな何かが、彼女を通り道にしてこの世界に侵入しようとしている。
「……重い……!」
ルーディアスの指先がしびれる。
意識が遠のきそうになるたびに、前世の記憶が彼を引き戻す。
暗い部屋。
閉め切ったカーテン。
誰もいない部屋で、ひとりでパソコンの光だけを見ていた日々。
あの日々には、守りたいものなんて何もなかった。
今は違う。
「リーネ!」
叫ぶと、リーネの瞳がわずかに揺れた。
「ルー……逃げて……」
震える声が耳元に届く。
「わたし、あれに……引っ張られてる。あの光の向こうにあるものに……呼ばれてるの。行っちゃいけないのに……」
「行かせない!」
ルーディアスは歯を食いしばった。
「なんだろうと、僕が止める!」
その瞬間だった。
頭上の光柱が、二度目の脈動を起こした。
白い光が一瞬だけ収束し、今度は波紋のように街全体へ広がる。
「第二波が来るぞ!」
遠くで教師の叫び声がした。
「全員、ここから離れろ! 結界の内側に――」
叫びは途中でかき消された。
空気そのものが震え、地面がうねり、建物の窓ガラスが一斉に割れる音が重なり合う。
学院の結界が、きしんだ音を立てた。
透明なドーム状の防御膜が、外側から巨大な手で押されているかのようにへこむ。
魔力の表面に走るひび割れが、肉眼でも見えた。
「結界が……」
エランが顔を上げる。
「持たない……!」
このままでは、学院ごと光に飲み込まれるかもしれない。
教師たちも全力で魔力を注ぎ込んでいるが、彼らの力では明らかに足りなかった。
ルーディアスは、リーネの魔力を抑えながら、空の光を見上げた。
足りない。
誰かが何かをしなければ、本当に街ごと消える。
その「誰か」に、自分が含まれていないとは、もう思えなかった。
「……行くしかないか」
自分自身にそう言い聞かせるように呟き、ルーディアスは目を閉じた。
胸の奥。
今まで丁寧に整えてきた魔力の流れを、あえて崩す。
風。
土。
水。
雷。
自分の中にある四つの属性が、一斉に姿を現した。
普通なら、一つか二つまでが限界だ。
人の身体は、そんなに多くの属性を同時に扱えるようにはできていない。
けれど、前世の空っぽだった時間と、辺境村で積み上げた訓練が、今、身体の限界をほんの少し押し広げていた。
何より――守りたいものがある。
「ルー!?」
リーネの声が遠くなる。
四つの属性が、ルーディアスの中で渦を巻き始めた。
風で衝撃を受け流す。
土で地面を固める。
水で熱と衝撃を分散させる。
雷で魔力そのものの形を乱す。
それぞれの役割をイメージしながら、四重の結界を組み上げていく。
「四属性同時展開……?」
イリアが息を呑んだ。
「そんな芸当、人間の器じゃ――」
「うるさい……」
ルーディアスはかすかに笑った。
「僕は転生してまで、普通の人間でいるつもりはないんだ」
風の壁が、彼と仲間たちを包むように立ち上がる。
土の防壁が、足元から隆起して盾となる。
水の膜が、柔らかい半球を作り、雷の線がその表面を走る。
「来いよ」
空を睨む。
白い光が、第二波として降り注いできた。
音もなく世界を削る破壊の奔流が、学院結界を叩き、ひび割れを広げる。
結界の外側で弾けた光が、今度は内側にいる人々を狙うように流れ込んでくる。
その先端が、ルーディアスたちのいる庭園を飲み込もうとした瞬間――。
四重の結界が、それを受け止めた。
風の壁が衝撃の方向をずらし、土の防壁が地面を固め、水の膜が光の熱を吸収し、雷の障壁が光の魔力構造を乱していく。
白い光は、ルーディアスたちの目の前で形を失い、霧のように消えた。
ただ一度、鈍い音が響いただけだった。
庭園にいた生徒たちは、誰ひとり倒れることなく、その場に座り込んでいた。
教師たちが呆然としている。
「今のは……」
「結界の内側から、別の結界が……?」
「誰が……」
視線が、一人の少年へ集中する。
ルーディアスは肩で息をしながら、まだリーネの身体を抱きしめていた。
全身から汗が噴き出し、膝が笑いそうになる。
それでも、腕の力だけは決して緩めなかった。
「……ふう」
荒い息を吐きながら、ルーディアスは小さく笑う。
「まだ、いける……」
腕の中で、リーネが小さく震えた。
「ルー……なんで……」
「決まってるだろ」
ルーディアスは額を彼女の額に軽く押し付けた。
「君を置いて、どこに逃げるんだよ」
リーネの瞳に、涙がにじむ。
イリアはその様子を見つめながら、震える指で眼鏡を押し上げた。
「学院結界に匹敵する規模の魔力……それを、あの年齢で、四属性同時に……」
エランは尻尾をだらりと下ろしたまま、口をぱくぱくさせている。
「ルー……やっぱり人間じゃないよ……」
「人間だよ」
カナトが思わず突っ込んだ。
「ただの、人間離れした人間だ」
笑いを交えた言葉が、少しだけ張り詰めた空気を和らげる。
だが、その中心にいるリーネだけは、笑えなかった。
彼女の胸の奥では、まだあの呼び声が鳴り続けていたからだ。
「……ちがうの」
震える声で、リーネはようやく言葉を紡いだ。
「ルーが、守ってくれたのは分かる。でも……わたしの中の何かが、あの光に……応えてる」
「応えてる?」
「うん……“来い”って呼ばれて、“行く”って返事してるみたいに」
リーネの指が、ルーディアスの服をぎゅっと掴む。
「……わたし、あれに、つながってる。あの光の向こう側と。ずっと前から」
その一言は、誰の耳にも重く響いた。
ルーディアスは、彼女の言っている意味をすぐには理解できなかった。
ただひとつだけ分かったのは――
学院都市で起こったこの“消失事件”と、リーネの存在が、切り離せない何かで結ばれているということ。
そして、ルーディアス自身もまた、その渦中に巻き込まれていく運命にあるのだということだった。




