取るに足らないものだった
目の前に立ちはだかる豪華な扉。
翔真は両手で押した。――びくともしない。
もう一度、体重をかけて押す。……やはり無反応。
「……開かねぇだと? ここまで罠だらけで来させといて、今度はドア無視かよ……」
苛立ちを隠せずに舌打ちしたそのとき、上から「カラン」と金属の音が落ちてきた。
足元を見ると――針金。
拾い上げた瞬間、背筋がぞくりと震える。
「……まさか、そういうことか」
試されているのは脚力でも腕力でもない。
――盗賊としての“技”だ。
翔真はしゃがみ込み、鍵穴に針金を差し込んだ。
カチャ、カチャ、と音を立てながら慎重に動かす。
だが、すぐに異様なほど複雑な内部構造に行き詰まった。
「……くそ、これ……普通の鍵じゃねぇ」
焦りが額に汗をにじませる。
少しでも強引に動かせば、また毒矢でも飛んでくるかもしれない。
何度も失敗してはやり直し。
その間にも、扉の奥からは不気味な気配がじわりと漏れ出してくる。
――待ち構えている“何か”がいる。
「……俺は……盗賊だろ。こんなところで音を上げてたまるかよ」
深呼吸して手を止める。
目を閉じ、指先の感覚に全神経を集中させた。
内部の小さなピンが動く感触を、ひとつずつ確かめる。
――カチリ。
最後のピンが定位置にはまり、重厚な扉がゆっくりと音を立てて開いた。
「……よし!」
翔真は針金を握りしめ、わずかに笑みを浮かべる。
盗賊として、初めて誇れる瞬間だった。
だが――。
開いた扉の先に待っていた光景を目にし、笑みはすぐに引きつることになる。
ギィィ……重い音を立てて開いた扉の奥。
翔真が足を踏み入れた瞬間、部屋全体が赤黒い光に包まれた。
「――グオオオオオッ!!!」
咆哮と同時に、巨大な魔獣が姿を現した。
漆黒の毛並みに覆われた体躯は、翔真の三倍はある。
鋭い牙の間からは熱を帯びた炎が漏れ、次の瞬間、火炎弾の奔流が吐き出された。
「うわっ、ちょ、マジかよ!!」
咄嗟に横へ飛び、床を転がる。
さっきまで立っていた場所が一瞬で火の海と化す。
さらに巨体が迫り、鉄爪が振り下ろされる。
「武器もねえのに、どうやって戦えってんだよ!」
必死に逃げ回る翔真。
焦燥で頭が真っ白になりかけたそのとき――。
ガラガラッ、と壁面が開き、無数のサッカーボールが転がり出てきた。
ごろごろと床を埋めるその光景に、翔真は一瞬呆然としたが……すぐに息を呑んだ。
「……まさか、これが……俺の武器!?」
炎を吐きながら突進してくる魔獣に、翔真は必死にボールを拾い上げる。
迫る爪をギリギリでかわしながら、目を閉じてイメージする。
――スティールからのドリブル、そして渾身のシュート。
「いけぇぇっ!!!」
渾身のキックが放たれる。
ボールは一直線に魔獣の顔面へ。
轟音と共に直撃し、炎が途切れる。
「効いた……!?」
驚愕する翔真の目の前で、魔獣が苦悶の声をあげる。
確かにダメージを与えたのだ。
「よし……だったら、打ち込むしかねぇ!!」
次の火炎を紙一重でかわし、次のボールを蹴り込む。
さらにもう一発、もう一発――。
魔獣の身体がよろめき、確実に体力を削られていく。
翔真の胸に、恐怖と同時に熱い昂ぶりが宿った。
「サッカーで……俺は、この化け物を倒す!」
何発もシュートを叩き込んだ。
火を吹くたびに顔面へ、爪を振り下ろすたびに胴へ。
ボールは確実に巨大魔獣を削っていく――はずだった。
「……まだ、立ってやがるのかよ……!」
膝をつきかけながらも、魔獣はなおも雄叫びをあげる。
全身を焼け焦げさせながら、その眼光は鋭く翔真を射抜いた。
次の瞬間――。
「グオオオオオッ!!」
巨体が地響きを立てて跳びかかる。
爪が床を切り裂き、翔真の足元を掠めた。
さらに炎が奔流となって押し寄せ、逃げ場を塞ぐ。
「――クソッ、やべぇ……!!」
翔真は必死にボールを拾い蹴り返す。
しかし、炎と衝撃に押し返され、足が痺れる。
体力も気力も限界に近い。
――そのときだった。
体の奥底で、何かが弾けた。
視界が一瞬、白く光に包まれる。
「……っ!? な、何だこれ……」
腕や脚に力が漲る。
意識が研ぎ澄まされ、魔獣の動きがスローモーションのように見える。
「俺……進化したのか……? 盗賊に……!」
脳裏に浮かんだスキルの名。
――《バックスタッフ》。
翔真は地を蹴った。
魔獣の爪が振り下ろされる瞬間、その懐に潜り込み、影のように背後へと回り込む。
「ここだ――!!!」
全身のバネを使い、渾身のシュートを叩き込む。
ボールは鋭い音を立て、魔獣の後頭部を直撃した。
「グ……オ……ォ……ッ!!!」
咆哮が途切れ、巨体が前のめりに崩れ落ちる。
地面が揺れ、砂煙が舞い上がる中――。
翔真は肩で息をしながら、勝利を確信した。
「……っしゃぁ……! サッカーで……倒したぜ!」
暗いダンジョンに、翔真の声が響き渡った。
巨大魔獣を打ち倒し、翔真はふらふらになりながらギルドの扉を押し開けた。
待ち構えていた受付嬢が、驚いたように目を見開く。
「……本当に、戻ってきた……!」
その声を合図にしたかのように、奥からわらわらと盗賊ギルドのメンバーが集まってきた。
男も女も、老人も子どもも、みな異様な熱気に包まれている。
「おおー! やったぞ!」
「新たな盗賊の誕生だ!」
「宴だ、宴だーーっ!」
太鼓が鳴り響き、笛の音が重なり、誰かが掛け声を上げる。
ギルド全体が一気に祭りのような空気に包まれた。
「ちょ、ちょっと待って!? なにこれ!? 俺まだ何も――」
翔真の抗議などお構いなし。
ギルドメンバーは彼を取り囲み、ぐるぐる回りながら踊り出す。
歌声が重なり、ジョッキの酒が宙を舞う。
「盗んでなんぼ! 奪って一流!」と意味不明な歌詞が耳に突き刺さる。
「いやいやいや!! ホント怖いんだけど!!」
恐怖で固まる翔真の頭に、花冠をかぶせられ、肩を叩かれ、背中を押され――。
次の瞬間。
――ビリリリリッ!
翔真の背中に熱が走った。
灼けるような感覚に思わず叫び声をあげる。
「うわっ!? な、なにこれえええ!!」
仲間たちの歌声が最高潮に達したとき、その背に刻まれた「盗人」の文字が光を帯び、ぐにゃりと形を変える。
【盗賊】
その二文字が鮮やかに浮かび上がった瞬間、ギルドの大広間は割れるような歓声に包まれた。
「誕生だーーーっ! 新しき盗賊の仲間がぁぁぁ!!」
「飲め飲め飲めぇぇ!」
――そして翔真は。
恐怖と混乱と祝福の渦の中、完全に流されていった。
翌朝――。
翔真はどこかぎこちない足取りで学校へと向かっていた。昨日のギルドでの“進化の儀式”が、まだ夢だったのではないかと錯覚するほどに、現実感が薄い。
「……なんか、雰囲気変わってね?」
「昨日までと顔が違うような……?」
登校すると、クラスのあちこちからひそひそ声が飛び交う。翔真本人には心当たりがありすぎて困るが、どう答えるべきか分からず、曖昧に笑ってごまかした。
◇
放課後。
部室に入るや否や、ローマリオが机をドンと叩いて立ち上がった。
「翔真! 昨日、部活サボったな!」
「い、いや……ちょっと事情があって……」
言い訳を探す余裕もない。翔真は、黙ってユニフォームの裾をめくり上げ、背中を見せた。
そこには、はっきりと黒い文字が刻まれている。
――『盗賊』。
「なっ……」ローマリオの目が一瞬見開かれた。
部員たちも一歩近づいて覗き込むが……次の瞬間には、誰もが「ふーん」と肩をすくめただけだった。
「で? それが何だよ」
「俺ら、サッカーにしか興味ねぇし」
「盗賊だか何だか知らんけど、ボール蹴れりゃいいだろ」
その場に漂う、あまりにあっけない空気。
翔真は思わず目をぱちぱちと瞬かせた。
――進化の儀式、ギルドの熱狂、背中に刻まれた称号。
あの非日常のすべてが、サッカー部員たちには取るに足らないものだった。
「……マジかよ」
肩を落とす翔真をよそに、部室にはいつも通りの笑い声とボールの音が響いていた。




