後編 下っ端職人の悩み
「はよーすー」
「おはよう、サリアン。いらっしゃいませ」
四日後。
朝の七時過ぎ。
開店前のアウセラーレ時計店に調薬師のサリアンが顔を出す。仕事の前に一時間ほど余裕を作って立ち寄るという約束だった。
「朝ごはん食べた? これ差し入れ」
「えっ、いいの。ありがとう」
ほかほか湯気の立つ香草パン。あちらの世界での葱抓餅に近い、サクサクした庶民の軽食だ。水を汲んできて二人で食べた。
「で、あの時計、直った?」
「うん」
「さすがー」
「話してた通り、部品交換をいくつかと、中のクリーニングをさせてもらったよ」
察しはついていたが部品の摩耗による故障だった。使いすぎだ。故障原因になった部分だけでなく中の機構が相当にくたびれていたので割と広範に手を入れることになった。
卓上のゴミを小さな手ぼうきで掃き清め、手を丁寧に洗う。
パイ皮状の食品は美味しいのだが、食べくずが落ちやすいから普段店舗エリアで食べることはない。今日はいただきものだから特別だ。
カウンターに布張りの台を置き、保管ケースから出したサリアンの腕時計をそっと載せる。
「どうぞ」
「おおー」
見た目は何も変わらないだろうにサリアンはぱちぱち拍手する。
持ち上げて慣れた手つきで操作をし、時計の針が回り始める様子に目の色を明るくした。カチ、ともう一度押したボタンに応じて長針が止まる。別の場所を押せば針は元の位置に戻った。
「直ってる。良かったぁ!」
シノの口元がぴくぴくっと上がった。
普通の営業スマイルで押さえているが、喜ぶ客を目の前にすると嬉しくて、どうしても得意げな気持ちが湧き上がる。
「普通の針の動きもスムーズになった? あっ、ここ、錆みたいなのついてたの取れたんだ。すごい、ぴかぴか」
しばらく職人娘二人はあちこちを確認してははしゃいで、それもひと段落すると、確かに綺麗に修理は完了したと合意ができた。そうなれば後は会計である。
「どうぞ」
「うひー」
さっきと同じ言葉で明細を差し出すと今度は悲鳴が上がった。
「聞いてたけど、おっきいなぁ……」
「しめて八レギー四○○○レギオスです」
「ぐう」
「これでも端数は値引きしてるんだからね」
塩を振ったレタスみたいにしんなりしつつ、彼女は帳面を出して金額を書き入れ、一枚破り取ってシノに渡す。
複数のギルドが持ち合いで運用している小切手だ。
恭しく受け取って、ありがとうございますと丁寧に頭を下げた。
ものすごく乱暴な通貨換算をすると、一レギオニーはシノの感覚で一円と近い価値がある。この時計は新品購入時の値段がおそらく三五○レギー、つまり三五○万円程度で、その修理代が八万円ほどということだ。人によってはローンを検討する額である。
この店で扱う様々な機械は製品としてはスマホやコンピュータに近いが、資産としては自動車に近いようにシノには思われる。ただのメンテナンスでも五レギーを超えることは一般的だが、車検費用と思えば高くはない。中古市場がそれなりに大きいのも似ている印象だった。
「サリアン、この時計って中古で買った?」
「分かるの?」
「たぶんそうかなって。あなたの生活だといらない機能が結構ついてるから」
「なるほどー」
「それでね」
「うん?」
「前回も話したけど、故障の原因は使いすぎ」
「あうう」
「この腕時計、必ずしもストップウォッチはメインじゃないのよ。普段は時刻を見る時計として使いながら、必要な時ストップウォッチにも使えるっていう考え方で作られてるの。あなたみたいに一日に何回もどころか何十回も使うのは負担が大きすぎる」
「そうらしいなぁっていうのは、思ってたけどぉ……」
「だからね、サリアン」
「ん?」
「仕事用の時計、別に用意しよう」
じゃん、とシノは準備していた木箱を取り出した。
弁当箱のようにかぱっと開けると、片側にオーソドックスな懐中時計型のストップウォッチがはまりこんでおり、もう片側を台にして安置できるようになっている。
「わぁ」
瞬きとともにサリアンの視線はシノの手元へ向けられる。
大きな円盤の中の下方、六時付近に小さな円盤がひとつある。デザインは非常に簡素で、必要なものだけに整えられており、機能美の粋とも言える美しさがある。
「計測やリセットのボタンの使い方はその腕時計とほとんど変わらないから、操作は迷わないと思う。ここを押してスタート、もう一度押すとストップ。こっちがリセット」
シノが説明しながら稼働させてみせると、サリアンの深緑の瞳はそれまでの比ではなく興味を惹きつけられたように丸く大きく開かれた。
「何これ、すごい見やすい」
「腕時計の三倍くらいサイズが大きいからね。文字盤もいらない装飾は全部なくして、目盛りと数字がくっきり見えるようにしてあるよ。針は黒く塗って見分けやすくしてみた。触って試してみて」
「うわ、やばい、やばいこれ」
言語能力がやられている。
「ううううー!」
ひとしきりいじくり倒して、赤毛のポニーテール娘は苦しみのうめきに顔を伏せた。
「どうよ?」
「正直、めっちゃ欲しい……!!」
魂から湧き出るような心地良い悲鳴に、シノは得たりと微笑んだ。
「でもこんなの試薬の側に置いておいたら、絶対先輩たちに取られて回ってこなくなる!」
そう。そこだ。
一番の問題がそれだった。
見学させてもらったサリアンの工房は五十人近くの職人や見習いがひしめく大きな組織だった。共用の道具は様々に用意されているのだが、使いやすいもの、精度の高いものは、より難しい工程を担当する上位の職人にキープされてしまう。
さらには、体育会系の縦社会の中で『ちょっと貸して』と言われると下の立場から断るのはかなり難しいことも問題だった。
「腕につけてる時計はさすがに取り上げられたりしないけど、これはやばいよシノ。絶対狙われる。すごい格好良くて使いやすそうだもん」
「素敵なダメ出しありがとう」
名前の刻印などで誰の所有物か一目で分かるようにしても駄目なのかというのも質問したのだが、サリアンや昨日合った若い見習いたちは苦笑いで言葉を濁すばかりだった。多少改善が見込めるが、厚かましい性格の先輩にかかると『しばらく借りているだけ』が成立してしまうらしい。
「というわけで」
おもむろにシノは胸元から鍵のペンダントを引き出す。
「起動」
しゅっと魔法がひとつ。
組み込んでおいた術式が発動して、時計が箱ごと淡く光ってすぐに落ち着いた。
「何したの?」
「持ち去り防止策。それ持ってみて」
「え、何が……うわ!?」
サリアンは言われた通りに箱からストップウォッチを持ち上げようとして握ったのだが、ガチっと箱ごとテーブルにくっついてしまっておりまったく動かせない。全体が石にでもなったかのようだ。
「ええ、何これ」
「簡単な防犯の魔法ね。仕組みは企業秘密。利用者登録しようか。サリアン、片手を貸して」
「う、うん」
サリアンが右手を出すと、シノは鍵をこすり、蛍を指先に止まらせるように指先を光らせた。そのまま光をぽとっとその手のひらに落とす。
「利用登録」
「わ」
「名前を言ってくれる?」
「さ……サリアン・ティーディア」
「申請」
ふっと光の粒が手の中へ吸われて消えた。
「これで使える。固定する時に『ロック』、固定を解除する時に『アンロック』で行けるよ。アンロックって言ってみて」
「ええと、アンロック……?」
見た目に変化はない。
どうしよう、という顔でサリアンが見るので、持ってみて、と仕草で示した。
「う、うわっ」
固まっていると思っていた時計がすんなり持ち上がって、逆に慌てて両手で押さえている。
「動く……。すっごい」
「ロックも試して」
「ロック!」
はしゃぎ始めた。
「なるべく平らな場所でね」
「了解!」
彼女が何度か固定と固定解除を繰り返している合間に、シノはカウンターを出てゆっくり歩き、机の上の時計で遊ぶサリアンの斜め横に並ぶ位置へ移動した。より近くなった距離で説明を追加する。
「これで計測中に近くを離れても勝手に持っていかれることはないかなって。私物の棚に置いてもロックして家に帰れるし」
「うんうん」
「あとね、これすごく正確な時計でその分振動とかに弱いんだけど、しっかり固定されるからそういう心配も減らせるの。いいでしょ?」
シノの緑色と茶色が複雑に混ざったヘーゼルの瞳が急に明るく輝いた。時計職人としては防犯の話よりも性能向上の話の方が何倍も楽しい。
「計測結果の誤差が減らせるから、どんどんロックして使ってもらえたら嬉しいな」
「こんな魔法初めて見た」
「ふふ」
「シノのオリジナル?」
恩恵?と聞きたいのだろうが気を使ってくれている。シノが曖昧に肩をすくめてみせれば、サリアンもそれ以上何も言わずにまたストップウォッチに向き直った。
シノは今、お客様の斜め横、やや後方にいる。
さながら背後霊のように。
「さて、サリアンさん」
「ん?」
顔だけ振り向く。
「こちら、利用登録が完了したわけですが」
営業スマイル。
しばらく見つめ合って、やがてすーっとサリアンの頬から血の気が引く。
「待って!?」
話をする間も机の上に置いたままスタートしたりストップしたりといじって遊んでいたストップウォッチから大慌てで手を離し、白旗を揚げるかのごとく娘は両手を上げる。
「まだ、私、買うって言ってないよね!?」
「使いたくない?」
「使いたい! けど!」
八レギーが修理代で吹き飛んだばかりである。
「簡素にして十全。こちらの素晴らしいストップウォッチ、盗難防止の術式付き専用ケース込みで、今ならトライアル価格、三十レギー!」
「えっ、想像してたより安……じゃない、買えない、買えないってば!」
「だめかー」
ぶんぶん頭を横に振るから赤いポニーテールがぴょんぴょん跳ねた。黒髪のシノはからりと笑う。
「だめかーって、あんたねええぇ」
「なぁに?」
「頑張れば微妙に買えそうでむかつく、このやろー!」
「あはは、ごめんごめん。ここ見てみて」
いったん箱を閉じて、保護のために貼っていた薄紙をぺりぺり剥す。側面の紙はケーキのフィルムをはぎ取るようにぐるっと。そしてシノは箱の向きを変えて、ある一面を指さした。焼き入れたような焦げ茶色の飾り文字がそこには踊っている。
『調薬のお供に!
*高精度ストップウォッチ*
リース 二月あたり一レギーから
ご購入 四十レギーから
ご用命はアウセラーレ時計店まで』
少しの沈黙があった。
時刻は七時四十分を回っている。
「リース……、貸し出し?」
サリアンが呟く。
「ひと月、五〇〇〇レギオスで使える、ってこと?」
シノはにっと笑ってみせる。
「その金額だったら行けそう?」
「行ける。めっちゃ行ける」
「そして今ならなんと!」
さっきと似たような宣伝口調でシノはばーんと両手を開いた。天窓から差し込む朝の光に、彼女の黒い髪は反射でほんのり青く輝いて見える。
「限定一名様! 試作機のモニターを絶賛募集中!」
「モニター」
「条件はポーションクラフターまたはその見習いの方で、時計は職場で使用すること、アウセラーレ時計店の宣伝の入った箱を使っていただくこと。モニターの方は一年間、リース無料!」
「シノリア様ああぁぁ!!」
感謝、感激、雨、あられ。
サリアンは自分より少しだけ小柄なシノに抱きついてぴょんぴょん跳ねた。
「ありがとう、シノ最高、愛してる!」
「おそれいったか」
「いった、いった!」
笑い合って、シノはあらためて製品貸与のための魔術セットをいくつか起動させた。
「あくまでうちの店の時計を貸すだけだからね。壊れたり無くしたりしたら状況によっては弁償してもらうから気をつけて」
「うん!」
「ロックかけ忘れたり、勝手に使われるのを防ぐために、今試験的にロックがかかってないとストップウォッチ自体が使えないように設定したんで、使っててあんまり不便だったら言ってね」
「至れり尽くせりだー!」
箱一体型の小さな時計を宝箱のように掲げ持ち、意気揚々とサリアンは店を出ていった。八時が近付いていることを教えてやるとちょっと慌てた様子でもあったけれど。
店が静かになって、ふう、とシノは息を吐く。
やり切った気分がすごいけれど今日はまだ開店時間にもなっていない。時計店の一日はこれから始まる。
「お前は本当にしようのないやつだな」
「クロノさん」
するっと現れた白蛇が珍しくシノの肩まで伝ってきた。さらさらした鱗がシノの耳元をかすめる。
「モニターのことですか? あれは元々試作機で実際にテストも不十分ですから、最初から正規金額を取るのもそれはそれで良くないと思ったんですよね。そのうち工房の人が二、三人きてくれたら割とすんなり採算取れると思います」
「逆だ、逆」
「逆?」
「大量注文が来たとしても対応できるよう、いくつかあらかじめ作っておいた方が良いぞ」
「えー、まさかぁ」
ご冗談、とひらひら手を振ったシノの髪をひとふさ蛇が噛んで抗議に引っ張る。
「…………え、まさか?」
「早ければ明日には注文が来るのではないか?」
「まさか……」
「体を壊すなよ」
優しいはずの言葉が空恐ろしく響く。
工房の荒くれ者たちが先を争うように時計店に押し寄せたのは、翌日どころか、その日の昼休憩の時間で、シノはそれから半月近く、とんでもなく忙殺される流れとなったのだった。