私はあなたの姉と結婚するわけじゃない【連載版も進行中】
マンションの玄関ドアに手をかけたまま、大川灯里は深く息をついた。月曜日の朝だというのに、休日の疲れなどまるで取れていない。
同棲している庄司翔の姿は、すでにリビングにはない。彼はいつもどおり姉と連絡をとって朝早く家を出ていった。少し前までなら、そんな朝の風景に何の違和感も覚えなかったのに、今はわずかな胸の痛みを伴って受け止めてしまう。
翔と知り合って三年。つきあい始めてからは順調そのものだった。少し優柔不断なところはあるけれど、基本的には優しく、居心地のいい人。彼の仕事が落ち着き始めたころ、自然な流れで結婚を考えるようになり、そして顔合わせ、入籍、式の準備へ──そうやって道筋は順調に見えた。
しかし、結婚は二人だけのものではない、とよく言われるように、この話は翔の姉である美月の強い存在感を軸に、微妙に歯車が狂い始めている。
翔には三つ上の姉がいる。庄司美月、三十四歳。昔に結婚したが、数年前に離婚して実家に戻っている。離婚の理由は詳しくは知らないが、それなりに苦労したらしい。
幼いころに両親を亡くしており、姉が翔を支える形で家族として頑張ってきた──という話は、最初のうちは美談のようにも思えた。実際、翔は美月を「親友みたいな姉」と呼んでいる。
だが、美月は弟を支えたいばかりに、ときに首を突っ込みすぎるのだ。
それが特に顕著になったのが、結婚準備に入ってからである。
結婚指輪を検討していると、翔が「姉さんがこう言ってたんだけど、このデザインは飽きがこないかな?」などと、ほぼ美月の言葉を丸のみにして自分の意見にしてしまう。
式場のリストを渡してみれば、「姉さんが『設備が足りないところは後悔する』って言うから」など。灯里は翔と二人で決めたいのに、いつの間にか三人会議になっている感覚が否めない。
もちろん最初は灯里も、美月を「家族になる人」として好意的に受け入れようと思っていた。結婚をするなら、義姉になる彼女とも良い関係を築きたい。そう思い、翔が頻繁に姉へ連絡を取ることにも口をはさまないようにしていた。
だが、ある日、灯里が選んでおいたウェディングドレスのカタログを見て、翔は「姉さんが『もっと落ち着いたもののほうが年齢に合う』って」と口を滑らせる。
確かに灯里は二十九歳、それを“年齢に合うように抑えろ”という言い方はあまりにも直接的で、灯里の心に小さな棘が刺さったような痛みをもたらした。
「でも、私が着たいのはこれなんだよね」
そう言い返しても、翔は「別にダメとは言ってないよ? ただ、姉さん的には、もう少し上品なほうがいいんじゃないかって意見だからさ……」と、煮え切らない。
そんなやりとりが何度も重なるうちに、「これは果たして私たち二人の結婚なのだろうか」という疑念が灯里の中で膨らんでいった。決定的だったのは、両家顔合わせである。
土曜日、灯里の両親と翔の姉、美月が参加する顔合わせの食事会。最初のうちは和やかだったが、美月はスーツ姿できりりと登場し、序盤から主導権を握っていた。
「弟はまだ若いので、いろいろ人生経験が浅いんです。だから今回の結婚も、ちゃんと堅実に進めるべきだと思っています」
灯里の母が「若いといっても三十一歳でしょう?」と笑いながら返すと、「いえ、男は何歳になってもまだまだ子どもですよ。離婚なんてことになったらかわいそうでしょう?」と言い放つ。
失礼というより、翔のことをまだ自分の保護下の子どものように捉えているのが透けて見える。
挙句、美月は結婚式の日取りについて「あの……すみませんが、〇月〇日は仏滅なんですよね? こういうの、あとあと気になるんですよ。入籍日はもっと縁起のいい日に変更できませんか?」と食事の場で堂々と述べる。
灯里は言葉に詰まった。なぜならその入籍日は、灯里の両親が仕事の都合を合わせて区役所に立ち会えるようにした日だったからだ。もちろん両家で話し合った上で決めたもの。
両親は苦笑いを浮かべて「まあ、仏滅と言いましても気にしない人も多いですしね」と大人の対応を見せる。しかし、美月は「せっかくなら、大安のほうがきっぱりしていていいかなと思うんです」と納得しようとしない。
翔は「姉さん、あんまりそこは言わなくていいよ」と笑いながら言うが、明確に否定もしなかった。
食事会が終わるころには、灯里は内心で怒りと悲しみがごちゃ混ぜになっていた。これほど重要な場面ですら、翔は「姉の意見」を否定しない。家族みんながいる中で、姉の顔色を伺っている。
帰り道、灯里の両親からは「灯里、無理しなくていいんだよ?」と声をかけられた。表面上は穏やかに振る舞っていた両親ですら、あの姉の言動には相当引いていたに違いない。
そして灯里の中にある「これは私の結婚なんだろうか」という疑いは、確信に近い形に変わりつつあった。
翌日、同棲先のマンション。翔はいつもどおりにリビングでスマホをいじっている。おそらくまた姉とLINEか通話でもしているのだろう。顔合わせの翌日だというのに、「昨日はごめんな」などのフォローは特にない。
意を決した灯里は、スマホから顔を上げた翔に向けてまっすぐ声をかける。
「ちょっと話したいんだけど、いい?」
「うん、どうした?」
「昨日の顔合わせ、どう思った?」
翔はポリポリと頭をかきながら、居心地悪そうに笑った。
「姉さん、ほんとに心配性というか、まあでも悪気はないし……」
「悪気があるかどうかを聞いてるんじゃないんだよ。どうして入籍日の話とか、式の場所とか、ああいう大事なことを、お義姉さんだけが主導権を握るの?」
これまでなるべく抑えていた感情が、思いがけず口をついて出る。
翔は少しむっとした顔をしつつも、「姉さんは離婚して色々苦労したからさ。だから俺には同じ轍を踏んでほしくないんだと思う。もともと仲もいいし、昔からずっと面倒見てもらってるから、親友みたいな感覚なんだよ」と言う。
灯里の心は痛む。姉とは親友みたいな関係? それは彼女が弟を支配する口実になってはいないか。
「私も、あなたのお姉さんの気持ちはわからないではないよ。だけど、結婚って、二人が軸でしょ? あなたは、お義姉さんの言うことが絶対に正しいと思ってるみたいに見えるの」
「絶対なんて言ってない。姉さんも、俺たちが決めればいいって言ってたし……。ただ、結果的に姉さんが提案してくれたほうがいい選択かもしれないじゃん?」
言い合いになる気配を察してか、翔はコップに水を注ぐと一気に飲み干した。灯里は不安定な胸の内を抑えようとしつつ、静かに言い放つ。
「……私はさ、学生のとき、親が反対したのに短期留学したことがあるんだ。覚えてるよね?」
「うん、聞いたことあるよ。結局、許しを得るまでにすごく揉めたって」
「そう。でも私は自分のやりたいことを曲げられなかった。家族を嫌っていたわけじゃない。ただ、誰かの人生を生きるんじゃなくて、自分自身の選択を貫きたかった。今回の結婚だって、本当は二人で築きたいのに、私たちの“意志”はどこにあるの?」
翔は視線をそらす。沈黙が降りる。姉を否定されたくない、でも灯里の言っていることも理解はしている、その葛藤が表情に浮き彫りになっているようだった。
だが、結局、彼は「姉さんが間違ってるわけじゃない」としか言わなかった。灯里はそこで、彼が自分の意志より姉の言葉を優先する限り、一生このままだと思い知らされる。
数日後、翔が仕事に出ている間に、灯里はスーツケースに必要最低限の荷物を詰め始めていた。決断は早かった。既に灯里の両親には、婚約破棄の可能性をほのめかしてある。両親は「あなたの人生だから、自分で選びなさい」と言ってくれた。
夕方、翔が帰ってくると、玄関先に置かれたスーツケースを見て少し固まった。「……何、それ?」と情けないほど動揺した顔。
「見てのとおり、荷造り。翔には悪いと思うけど、私、結婚はやめたい」
「ちょっと待って、落ち着いて話そう。いま姉さんに電話して──」
「やめて、お義姉さん関係ないじゃない。違うよ、翔がお義姉さんの言葉を最優先にしてる限り、私たちの結婚なんて成立しない。それが全ての答え」
翔は言い淀んだ後、「姉さんは失敗してるから、俺には失敗させたくないだけなんだ。姉さんだって悪気じゃなくて、優しさでやってるんだ」とかばう。
「たとえ優しさでも、私はそれに従うだけの存在じゃない。あなたが私を見てくれないのなら、この先、どうやって家族になれるの?」
灯里の言葉は淡々としていた。激情が既に冷えきったようにも見えたのだろう、翔はうろたえ、そして初めて本音を吐くように声を荒らげた。
「でも、姉さんとは昔から支え合ってきたんだ。俺には姉さんを裏切るなんてできない! 結婚しても家族の一員なんだから、助言は受けるべきだろ?」
「それは助言の範囲を超えてるよ。いくら家族でも、そこにいるのはあなたと私。二人が幸せになるための行動をとれてないじゃない」
張りつめた空気のなか、翔は何か言い返そうとして口を開いたが、言葉が続かない。
見れば、彼は時計を見つめている。姉との連絡時間でも気になっているのかもしれない。その態度が灯里の背中を後押しした。もう、ここにいる意味はないのだと。
玄関に置いていた合鍵を静かにテーブルに置き、スーツケースの取っ手を握る。翔は声を上げようとするが、その一瞬を置いても言葉を見つけられない。
「……姉さんの人生の埋め合わせで生きていくのは、あなたの自由。だけど私は、自分の人生を歩きたい。それだけ」
涙は出てこない。激しく怒る気力も、もう残っていない。ただ、大学生のときに親の猛反対を振り切り留学をした自分を、今こそ取り戻す気がした。あのときの私は誰に何と言われようと行動を起こした。今回もそうするだけ。
数日後、灯里は職場の上司に異動希望を申し出、ほどなくしてグループ企業の地方拠点へ移ることが決まった。環境を一新したかったのだ。浮き足立っているわけではないが、このまま同じ場所にいては、やがて翔や彼の姉とも会う可能性が出てくるだろう。それを避けたい気持ちは強かった。
そして、一連の話を職場の同僚に報告すると、「お姉さん、過保護すぎるね」と同情してくれる人もいれば、「これから結婚する予定だったのに勿体ない」と言う人もいた。
でも灯里は、翔との結婚を取りやめたことを後悔はしていない。
引っ越しを終えた新居は、松本市内にあるこぢんまりとしたマンションの一室だ。荷ほどきをしながら、ふとベランダから外を見やると、高く澄んだ空が広がっている。少し冷んやりとした風がカーテンを揺らし、灯里は思いきり息を吸った。
「最初から、こうなるはずじゃなかったんだけどな……」
そんな独り言を呟きながらも、彼女の口元には苦笑が浮かぶ。何より、不思議なくらい心が軽い。
スマホを開けば、翔とのやり取りがまだ残っている。最後は少し言い争いのようになったけれど、彼も彼なりに姉と自分の歴史を大切にしていたのだろう。今はもう、彼がどう過ごしていようと、灯里には関係のないことだ。
しばらくして、カフェラテでも買いに出かけようとバッグを手に取る。玄関のドアノブを回しながら、心の中でつぶやいた。
「私は私の人生を生きる。もう誰かの言いなりにはならない」
わずかに風が吹き込んで、髪を揺らす。灯里はゆっくりと外へ踏み出した。ドアが閉まる音が、自分の新しいスタートを告げる合図のように響いた。
まだ何も知らない街、そして自分自身もまだ知らない未来が、これからはじまっていく。留学時代に感じたあのわくわくした感覚を少しだけ思い出しながら、灯里はまっすぐ前を向く。その胸の奥には、恐れよりも一歩踏み出せる確信のほうが大きく広がっていたのだった。