第4話 禁断の森の囁き
狼のようなモンスターから逃げるために無我夢中で走り続けた。痛みが背中に走り、傷口からは温かい血が流れ落ちる。しかし、その痛みは意識の隅に追いやられ、ただ逃げることだけが頭にあった。ふと、周囲が静まり返ったことに気づく。振り返ると、モンスターの姿はもう見えなかった。
(やっと逃げ切ったか……あいつは一体なんだったんだ?)
胸の鼓動が収まりかけたが、同時に言葉が漏れた。
「クソ、初手からハードすぎねえか、この異世界は。」
痛みを感じながらも水の音がかすかに聞こえ、思わずその音に引き寄せられるように、ふらふらと歩き始める。だが、歩くにつれて、目眩がひどくなり、頭が重たく感じてきた。傷が思ったより深かったのか、意識が朦朧としていく。
「これじゃ、まともに歩けねえ……。」
それでも、なんとか水の音がする方向に向かって進んだ。目の前に小さな泉が現れたとき、安堵感とともに意識が薄れていくのを感じた。
「ここまで来たのに、倒れちまうなんて……。」
泉の縁に足をかけた瞬間、意識が途切れ、倒れ込んでしまった。冷たい水が肌を撫で、彼はそのまま水の中に沈んでいく。
目を閉じている間に、水は奇跡をもたらした。特殊な成分を含んだその水が、主人公の傷に作用し、温かさをもたらしていく。血が止まり、肉が再生していく感覚が、彼の意識の奥底でほのかに感じられた。
どれほどの時間が経ったのか、再び目を開くと、彼は泉の水の中に浮かんでいた。傷はすっかり癒え、痛みも消え失せている。
「え? あれ、どうなっているんだ……?」
周囲を見渡すと、そこに一羽の小さな鳥が飛んできた。その鳥は怪我をしてい?らしく、水を飲むと、たちまち羽にあった傷が元通りになった。真はその光景に目を奪われた。
「なんだこの水は……めっちゃすげえじゃん!」
異世界には不思議な力が満ちている。彼の心には、期待と興奮が湧き上がった。
「やっぱ異世界はすげえや。」
新たな力を手に入れたかのような感覚が、彼を包んでいた。希望が芽生え、この先の冒険に対する気持ちが一層高まった。とりあえず、この泉の水は使えそうだ。もし今後、もっと大きな怪我を負った時でも、この水があれば何とかなるだろうと考え、保管できるものを探し始めた。
目に留まったのは、少し離れた場所に転がっていた大きな実だった。それは、表面が硬く、まるで岩のような質感を持っていたが、割ってみると中は空洞になっており、偶然にも水を貯めるのにぴったりだった。真はそれを器にして泉の水を注ぎ入れ、近くの葉で簡易的な蓋を作り、水を携帯することができた。
「よし、これで安心だ…」
そう呟きながら、真は再び森の出口を探すため歩みを進めた。どこか不安な空気が漂う森の中を進んでいくと、霧が次第に立ち込めてきた。視界がどんどん狭くなる中、目の前にうっすらと影が見えた。
(なんだ…?)
影は遠くにあり、はっきりとした形状はわからないが、その大きさは異様だった。真は興味を引かれ、さらに霧の中を進む。歩を進めるごとに影の正体が明らかになり、やがて、巨大な大木が目の前に現れた。
「…でけぇ…」
その木は、今まで見てきたどんな木よりも圧倒的な存在感を放っていた。幹の太さは少なくとも何十メートルもあり、天を突き抜けるような高さがあった。根はまるで地面全体を支配するかのように広がり、無数の枝が空を覆っていた。
自然の力強さに圧倒され、真はただ呆然とその大木を見上げていた。しかし、その時、不意に頭の中に低く、重々しい声が響いた。
「なぜ…人間がこの森にいる…?」
真は驚き、思わずその場で立ち止まった。周囲を見渡すが、誰もいない。声は、まるで自分の心に直接語りかけてきたようだった。
(…誰かいるのか?)
戸惑いながらも、真は再び耳を澄ましたが、再び声は聞こえてこなかった。ただ、森全体が何か異様な力で満たされているような感覚が続いていた。彼の体が不自然に緊張し、心臓の鼓動が速くなる。
「ここは禁断の地。忘れられた森だ。人間が入れるような場所ではない」
その声が大木から響き渡るように、空気を震わせる。重く低い音色は、森全体に広がり、真の心臓にまで響き渡る。彼は驚き、自然と足が後ろへと退いた。だが、ここで怯んでいては何も始まらない。動揺を隠し、なんとか勇気を振り絞って言葉を発した。
「…あんたは誰なんだ。どこから話しかけているんだ?」
短い沈黙が続いた。まるで森全体が一瞬にして静まり返ったかのように、空気が重く、ぬるりと張り詰めた。すると、真の目の前、大木の前の地面が不気味に蠢き始めた。黒々とした土の中からねじくれた木の根が伸び、ゆっくりと上へと成長していく。目の前に生まれたその木は、まるで意思を持っているかのように人の形を模していった。
根が絡み合い、太い幹が腕と胴体を作り、無数の枝葉が絡みついて体を覆っていく。だが、それは人間の形に見えるだけで、人とは程遠い異形の存在だった。頭が現れたとき、真の背筋に冷たい恐怖が走った。顔は無い。葉や幹が不気味に絡み合っているだけで、そこに表情はなく、目も鼻も口も一切存在しない。ただ漆黒の闇が、そこにぽっかりと口を開けている。まるで見てはいけないものを覗き込んでいるような錯覚――その闇の奥には、何か恐ろしく深遠なものが潜んでいるかのように思えた。
「私は大地の神だ。この森の支配者であり、全ての大地の創造者だ。」
その声が再び頭の中に響く。それは以前の低く重い声とは異なり、さらに深く大地そのものから発せられているように聞こえた。そして続けて、冷たく、抑えた響きが脳裏に突き刺さる。
「お前は、この場所に足を踏み入れるべきではなかった。」
目の前に立つその姿は、まるで地の底から湧き出た何か恐ろしいもの――それを見てはいけない禁忌の存在であるかのようだった。