棚ぼた皇帝
海の向こうの大陸に留学に行っていた弟が帰ってきた。そのこと自体は喜ばしい。船旅は必ずしも安全とは限らない。陸路よりも気をつけなければならないのだから。
長旅で疲れただろう弟はようやく懐かしい自分の部屋に戻っていったばっかりで、夕飯は弟の好きな物を沢山用意するべく指示をだしてあった。
けれども、そんな弟は部屋に戻ったかと思えばすぐさま引き返して部屋に飛び込んできたのである。
「兄上! 一体どういう事ですか!?」
「どう、とは?」
「何故、隣国のメルセリアがうちの領土になってるんです!?」
「何故、って言われても、ねぇ」
なったからなった、としか言いようがない。
「とてもわかりやすく言うのであれば。
あの国の王が帝国に売り渡したから、かな」
「そんなバカな! 有り得ない!!」
弟の驚愕に満ちた叫び。わからなくもない。
「そうだね、神の加護を得た国だ。その国が簡単に他の国に自らを明け渡すはずなどありはしない。そう思うのは当然だ。けれども、それでもこれは紛れもない事実だよ。我が帝国はあのメルセリアを手に入れた。それだけは揺るぎない事実である」
そう言えば、弟はぐ、と言葉を飲み込んだ。言いたいことはたくさんあるけれど、しかし何から言うべきか、何を言うべきかが追い付いていないといったところか。
「戦争だとかは」
「起きていないよ。あぁ、まぁ、かつての向こうの王族は大半が亡くなってしまったけれど。それでもメルセリアの民草たちがいたずらに命を落とした事はない」
無理矢理侵略戦争を仕掛けていたのであれば、こうも穏やかに弟の帰還を迎える事は叶わなかった。
「そうだな、話をしようか。夕飯までにはまだ時間もたっぷりとあるからね。
恋物語は好きかい?」
そう言えば、弟は理解が追い付いていないのかきょとんとその瞳を瞬かせた。
――それは確かに恋だったのだろう。少なくとも最初は。
恋と明確に呼べるものであったかはわからない。何せその頃の二人はとても幼かったので。
メルセリアに限った話ではないが、神の加護を得た国というのはいくつかある。
そういった国は大抵神から授けられたという宝が存在していた。
そしてそれを持つ者こそが、王として認められる。
故に王家はその宝を大事に大事に保管して、次なる王へと授けていくのだ。
神から授けられたのは宝玉と呼ばれる石であった。
宝石のような煌めきを持つが、しかし宝石とは異なる不思議な力を宿している。
ある国は王冠に、ある国は王杖に、と大抵は身に着けるものにその宝玉はついていた。
とはいえ、大切な宝だ。普段はそれに似せたイミテーションを身に着けて、本物はここぞという時にしか身に着ける事はない。
メルセリア国の王子リックは幼い頃に父でもある王からそう聞かされていた。
お前が将来王になる時には、本物を見せてやろう。そう言われて。
幼い王子は目を輝かせてそんな話を聞いていたのだ。
まだ幼いながらにリックには既に婚約者がいた。
公爵家の令嬢、カミラである。
幼いながらも初めての顔合わせの時から二人は意気投合したのか仲睦まじく、そんな二人を見て周囲の大人たちは微笑ましさに皆知らずそれが顔に出ていた程だ。
王命で結んだ政略結婚とはいえ、二人の仲が睦まじいのに越したことはない。
このまま仲睦まじく二人が成長してくれれば良い……と王も思っていた。
婚約者となった二人は度々仲を深めるため、定期的に交流を重ねていた。
普段は周囲に使用人が控えていたが、その日は少しだけ離れた場所に待機してもらって、リックは城の中庭の、花咲き誇る中にあるガゼボでカミラと二人きりだった。
「あのねカミラ、これをきみにあげる」
「まぁ、ペンダント……? 素敵ですね。でもこれ、わたくしには大きいしなんだかとても高価な物なのでは?」
少しばかりもじもじしながらも、リックが差し出してきたそれを見て、カミラはもしかして王妃様の物を持ち出したのではないか、と一瞬疑ってしまった。
こどもが身に着けるサイズというよりは、確実に大人サイズ。
王妃様が持つにしては若干シンプルではあるけれど、それでも飾りについている石は控えめながらも確かに本物だと思えた。カミラはまだ目利きができる程色々な物を見てきたわけではないけれど、それでもこれがただの綺麗なガラス玉というわけではない、という程度には気が付いていた。
王子からもらうプレゼントとしてならば、本物の宝石がついていてもおかしくはない。
けれども、流石にまだ早いのではないか、ともカミラは思っていた。
デビュタントもまだのお子様だ。明らかなお子様向けの装飾品だってないわけではないが、これは間違いなく大人用。
本当に受け取って良いものか……とカミラは困ってしまった。断るにしても相手は王子だ。下手な言い方をして機嫌を損ねられるのも、怒りを買うのも本意ではない。
それに、王妃様の持ち物だと思ったのはそれが明らかに新品ではないと思えたからだ。誰かの持ち物だったなら、貰うわけにもいかない。
けれどもリックはそんなカミラの内心の葛藤を遠慮していると受け取ったのか、一歩カミラに近付くとそのままカミラにペンダントをつけてしまった。
大人用サイズなので本来ならば胸元あたりで輝いただろう石は、それよりも下で輝いてなんだかペンダントというよりも、何かで表彰された時のメダルみたいに思えてくる。
「これはね、僕とカミラがずっと一緒に居るって言う証なんだ。だから持っていてほしい。ずっと」
頬を赤らめてはにかむリックに、断るタイミングを完全に失ってしまった。
流石に目の前で外して突っ返すわけになど、いくわけもない。
「あのね、でもね、恥ずかしいから、それこっそり持っててね」
耳元で囁くリックの声は本当に照れていて、そして同時にカミラもこのペンダントを見た他の大人たちの反応を鮮明に想像できてしまったから。
いそいそと服の下に隠すようにしてペンダントをしまい込む。
「わかりました。大切にいたしますね」
「うん、ずっと持っててね」
服の上からそっとペンダントのあるあたりに手をやって、カミラもまた頬を紅潮させて微笑んだ。
大好きなリックからの贈り物だ。嬉しくないわけがない。
どうして大人用なのだろうか、とかこれは一体どこから、という疑問は確かにあったけれど。
「大きくなってもつけててね」
という言葉に。
それを見越しての大人用なのかしら、とカミラは思ってしまったのである。
優秀さの片鱗を見せ始めているといっても当時のリックもカミラもまだ幼く、それ故に考えが及ばない事もあった。
ペンダントを見てこれはどうした、と聞かれた時にもらったと答えた事で大人がどういった反応をするか。
微笑ましいとばかりに揶揄ってくるのもカミラからすれば困ってしまうし、その反対にまだ早いと叱られるのも困りものだった。大人用の装飾品は確かにカミラにはまだ早いけれど。
微笑ましいとばかりに話題に出されても、怒られるような事になるのも。
想像したらどちらもカミラにとっては嫌だなぁ、と思えたので。
だから、結局カミラはリックの二人だけの秘密ね、という言葉に頷いて、誰にもこのペンダントを見せないようにしようと決めたのである。
カミラは公爵令嬢なので着替えの際にメイドが何もかもをするのだけれど、ペンダントが発見される事はなかった。着替えが終わってからメイドを下がらせて、そうして誰もいなくなってからそっとペンダントをつけて服の下に隠すようにする。
だからこそ、外から見る限りカミラがペンダントをしている事なんて誰も気づいていなかった。
隠し事をしているのはなんだか悪い事をしている気持ちになったけれど、それでも同時にカミラはリックとの秘密を共有している事で、くすぐったさも感じていた。
将来リックのお嫁さんになるのだ、と聞かされているけれど、それとは別にリック本人からもずっと一緒の証だよなんて言われてしまえば。
カミラだって幼いながらも胸ときめかせるというものだ。
そうして二人はすくすくと成長しても仲睦まじいまま……であるかと思われたのだが。
貴族たちが十五歳から十八歳の間に通う事が定められている学校に通うようになってから、リックは変わってしまった。
王族という事もあって、社交に出た事がないわけではないけれどそれでも付き合う人間は限られていたリックには、様々な者との交流は酷く刺激的に映った。今までは高位貴族とばかり関わっていたけれど、低位貴族も学校には通っている。同じ貴族だと言うのに異なる考え方を持っていたりする彼らの存在は、リックの好奇心を大いに刺激したのである。
今まで穏やかに仲睦まじい関係性を築き上げていたカミラの事は嫌いになったわけではなかったけれど、それでもどこか一線を引くような付き合いであったのは否定しない。
それは単純に淑女としての正常な距離感であったのだが、リックからすれば物足りなく感じるようになっていたに過ぎなかった。
授業で同じグループになった愛らしい女子生徒がリックが思う以上にぐいぐいと距離感を縮めてきたのもあって、彼はそこから坂道を転がるようにその令嬢と関わるようになってしまった。
同じクラスで、授業に関する課題を助け合ってこなしている。彼女との関係はやましいものではない。単なる学友だ。
そういった認識であったとは思う。勿論最初のうちは。
リックと親しくなりつつある令嬢――ルルナは男爵令嬢ではあったけれど、カミラと比べれば随分と活発な印象であった。
男爵と言う爵位こそ持っていてもその暮らしは大分平民と近しかった事もあり、貴族というよりは平民のように思える部分も多々あった。けれどもそれは、リックにとってとても新鮮に映ったのだ。
普通の貴族では思わない――というかそもそも考えもしない――発想だとか、リックの知らない民草の暮らし。そういった、リックにとって今まで知る必要がそこまでないと思われていたものを、ルルナは沢山知っていた。
リックは別に勉強が嫌いであったとかでもなく、好奇心もそれなりに旺盛であった。
だからこそ、自分の知らない事を沢山知っているルルナとの関わりはとても新鮮なもので。
お忍びでこっそりと町に出かけたりもした。
そうして直に見る平民たちの暮らしぶり。
貴族たちとは異なるそれらは、なんだか別の世界に迷い込んだかのような不思議な気持ちにもなって。
見るもの全てが珍しく映ったのだ。
買い物だって今までは城に商人を招いていた。自分から出向いて、なんてした事がなかった。
けれども平民は自分の足で店に行き、そこで売られている物を自分で選んで買うのである。
自分で選ぶ、という点は同じだったけれど、しかし微妙に異なる。
リックが買い物をする時はなるべくこういった物が欲しいという要望を伝えていた。そして商人がその要望に沿うのが当たり前であったのだ。
けれども平民の場合は店にある商品の中から選ぶ。この場にない物が欲しいとなれば、入荷を待つか諦めるかだ。
リックにとって買い物は欲しい物は必ず手に入るけれど、平民の場合はそうではないという事をこの時初めて知ったのだ。
平民たちの暮らしは自分と比べれば雑多で、でも賑やかで、それもまた物珍しく映っていた。
ルルナがリックの世界を広げてくれたのだ。
けれどもそんな楽しい毎日に水を差す者が現れた。カミラだ。
カミラはあまり羽目を外しすぎないようにだとか、婚約者がありながら異性と二人きりで出かけるのはどうかと思うだとか、側近にも言われた事を更にくどくどしたものに変えて言ってきた。
確かにルルナと一緒にいるのは嫌いじゃない。楽しいと思う。
けれども、彼女とはあくまでも友人でありそんなんじゃない。
そんなに自分は信用がないのか、と思ってむっとしたし、だったら今度はカミラも一緒にと誘えば彼女はその誘いをあっさりと断った。
己の立場を考えて下さい、と言われて、そうしてカミラは立ち去ってしまったけれど。
なんだかリックの事を何もかも否定された気持ちになってしまったのである。
勿論カミラにそんなつもりはなかった。あからさまに王子である、という出で立ちで出歩けば問題があるが、学校の制服を着ているだけなら彼が王子だと気づかない者は多い。だからまぁ、大抵は学校に通うお坊ちゃん、程度の認識だろう。けれども、だからといって安全なわけではない。
もしもの事があったら大変だからカミラとしては忠告したに過ぎないのだ。
けれども結局、リックはそんなカミラの気持ちを汲んだりはしなかった。
その後も何度もルルナと二人で町へ遊びに行く。
リックはルルナの事を友人だなんて言っていたけれど、カミラの目からはそうは見えなかった。ルルナは間違いなくリックに恋をしていた。目を見ればそんなのわかる。自分だってきっと同じ目をしているのだから。
気付けば二人が一緒にいる事は少なくなってきて、リックはルルナといる事の方が当たり前のようになっていた。
そういう時、カミラはそっと制服の下に隠してあるペンダントを服越しに握っていたけれど、リックがそれに気づく事はなかった。
段々と、カミラと一緒に居てもリックは笑わなくなってきて、それどころか苦言を呈する自分の事を煩わしく思っているもの感じられるようになっていた。カミラもそれを感じ取ってはいたけれど、でもいつかはわかってくれると信じていた。
けれども。
そんなカミラの想いを裏切るように。
リックはルルナと更に距離を縮め、気付けば学校の中でもいつでも二人きりでいるようになって、人目を憚る事なくいちゃいちゃするようになっていた。誰が見たってあれを友人とは言えない。見た者たち全てが二人は恋仲なのだろう、と思える程の近しさだった。
リックに何度言ってもわかってくれないと思ったカミラは、次にルルナに話をつける事にした。
リックは将来王となるべき人物。関わり方には気を付けてほしいし、仮にも婚約者のいる異性にあんな風にべたべたするのはルルナにとっても良い事とは言い難い。
リックが遊びまわっているのが一時的なものであればよかったけれど、最近はほとんどルルナと一緒だったせいで、成績も落ちかけている。
このままではリックのためにもならないからこそ、適切な距離を保ってほしい。
そう、ルルナに伝えたのだが。
王子は自分の意思でそうしているんです。私がそれを強制する事はできません。
私如きが王子を操れるはずなんてないでしょう?
カミラ様が言い聞かせればよいではありませんか。
そんな風に取り合ってすらくれなかった。
確かに最初は自分から近づいていたけれど、別に王子だけではない。ルルナはクラスメイトと同じように皆と親しくなろうとして精力的に話しかけたりはしていた。王子だけに近づいていたわけではなかったのだ。
そうして何度か話をしていくうちに、この人とは合わないな、と思えばちょっと距離をとったりしていって、それぞれの距離感を掴んでいった。
その中で、王子は一番仲良くなっただけ。
最近は自分から王子に近づいてなんていません。いつも王子からやってくるんです。
そう言われてしまえば、では王子から逃げ回りなさいと言えるはずもない。そこまでの権利、カミラが持っているはずもないので。
ルルナの言葉には一つ嘘があった。
確かに最初、いろんな人に声をかけた。折角同じクラスになったのだから仲良くなりたい。それは嘘ではない。将来自分の利になるかもしれない相手であるならなおの事。
けれども、一目惚れだった。同じクラスになったリックに目を奪われて、一瞬で恋に落ちた。
けれども露骨に王子だけに近付けば何かあると思われるのは言うまでもない。
だからこそ、最初は恋心を隠して近づいたのだ。あくまでも皆と友達になりたい、という体で。
最近リックが自分を見る目にも熱がこもってきている事を感じて、ルルナは内心でカミラの事を嘲ったりもしていた。婚約者だからってあれもダメこれもダメなんて、母親みたいに鬱陶しくガミガミしていたら、これくらいの年齢の男性なんて反発心を覚えるのは当然だ。幼い頃ならともかく、そろそろ一人前だという思いが芽生えてきているのに子供のように扱われていい気分になるはずがない。
本当に正しい事を言っていても、口煩く何度も言われたらうんざりするものなのだ。
だが、カミラはそんな事にも気づかずに何度も何度もリックに注意をしてきた。
鬱陶しい、とリックが思うのは時間の問題だっただろうし、事実彼は最近カミラの名を聞くだけでげんなりした顔をするようになってきた。
ルルナは好きになった相手が王子であるという事に、それ相応の覚悟をしていた。
もし王子から距離を取られたならば無理に接近するつもりもなかったけれど、近くにいる事を許された。
触れる事を許された。名を呼ぶ事だって許されて、愛を囁かれる事すら。
身分の問題もあって簡単にルルナがリックの妻に――王妃になれるとは思っていない。側妃でも構わないと思っていた。けれども、もし許されるのであれば。
自分が王妃となってリックの隣に在りたい、とも思ってしまったのだ。
そのための努力は既にしている。
ルルナはリックが知らない事を知っていたけれど、同時にルルナが知らない事をリックは知っている。
だから、リックに頼んで上位貴族としての常識だとかを教わってレッスンだって始めていた。
リック様のそばにいるなら、せめて最低限これくらいはできないとね。カミラ様にも叱られちゃったわ。
なんて。
心にもない事を言ってリックの中のカミラの株を下げるようにも仕向けた。
別に、叱られたとかではない。
ただ、王子と接するなら適切な態度をと言われたくらいだ。
それをちょっと針小棒大に、大袈裟に伝えたに過ぎない。
けれどもたったそれだけで、リックは自分にガミガミ言うだけでは飽き足らずルルナにまで口を出しているのか、と思い込んだのである。
二人とも恋に浮かされていたけれど、ルルナは比較的冷静な部分も残っていた。しかし、リックは。
彼はそうではなかったのだ。
カミラがリックのためを思って色々と言えば言う程リックはカミラへの思いが冷めていくのを感じていたし、どんどん冷たい態度になるリックの事をカミラは必死に引き留めようとしていた。けれども、もうこの頃にはカミラが何をやってもリックにとっては気に入らないものになっていたのである。
リックの視界にカミラが入った時点で機嫌の悪そうな表情を隠しもしないし、まるで敵にでも出会ったかのような態度。二人が仲睦まじかったのだ、と言われても今では誰も信じたりはしないくらいに。
二人の関係は確かに冷え切っていた。
それでもカミラは信じていたのだ。
いつかリックが思い直してくれる事を。
今はちょっとすれ違っているだけなのだと。
いつかきっと、わかってくれる日がくるのだと。
しかしそれは叶わなかった。
卒業式が終わった後のちょっとしたパーティーで、リックは隣にルルナを連れ立って、カミラとの婚約を破棄すると宣言したのである。
今までの忠告であり説得はリックにとって全て心無い暴言だと思われていて、それをルルナにまで、一体何様のつもりなのかときつく言われて、こんな女を将来の妃になどできるはずがない、とのたまい婚約破棄を言いつけたのである。
この頃にはルルナもそれなりに上位貴族と言われても遜色ない程度の所作が身に付き、またリックによって色々教わったこともあってカミラ程ではないがまぁ一応上位貴族の娘と言われても通じるくらいにはなっていた。
彼女は努力ができる女性だし、きっと私の妻となっても立派に国を導いてくれる、などと言い、リックはカミラとの婚約を破棄しルルナと婚約を結び直すと大勢の前で宣言してしまったのだ。
すっかり冷え切った仲だと思われて周囲からもひそひそと婚約者に蔑ろにされてるのにそれでもみっともなくしがみついているだとかの陰口を言われていたカミラにとっては、まさに地獄のような時間だっただろう。
婚約を無かったことにするだけであるならば、このような大勢の前で言う事ではないからだ。
わざわざこちらの恥となるような事を平然としてくるそっちの方が余程心無いではないか、と思ったが言えなかった。口を開いても、きっと声が震えてマトモな言葉にならないだろうから。
昔からずっと大好きだった相手にこっ酷く拒絶されて、本当だったらわんわんと大声を上げて泣きたいくらいだった。けどそんな風に泣くのを許されていた年齢はとうに過ぎてしまったのだ。
涙が零れないように目に力を入れて、声が震えないように一度口の中の頬の肉をがり、と噛んで無理矢理震えを抑える。
「――婚約破棄、承りました」
それが、カミラにできた精一杯の虚勢だった。
カミラは二人に対してあくまでも口煩かっただけで、嫌がらせをしただとかはない。
ルルナも馬鹿ではなかったので、そんな事をでっちあげたら逆にカミラの思う壷になるかもしれないと思っていた。けれども、自分がリックに選ばれたのだとなれば下手におどおどした態度をとるよりは毅然とした態度の方がいいだろうと思っていたので去っていくカミラの後姿を見送るだけだ。
この後、やはり婚約破棄の撤回をする、と言われる可能性は残っていたがそれでも。
大勢の前で宣言した以上、完全に無かった事にはできないはず。
もし、それでもリックと結婚するとなるのなら。
その場合は側妃になるのかしら……とルルナは考えていた。
いえ、側妃にもならないように、まずは自分の有用性を示さねばならない。家柄は低く、そういった意味での後ろ盾も何もあったものではないが、身一つでも役に立てると思わせればルルナの勝ちだ。
リックと一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。
決して楽な道ではないとわかってはいるが、それでもルルナはその道を選んだのだ。その先の栄光も、きっと掴んでみせる……!!
――と、まぁ、ここまでなら哀れにも恋破れた女がいたというだけの話だ。
大勢の前での婚約破棄も大概だが、よりにもよって公爵令嬢がすごすごとそこで引っ込んでいいのか、とか王命での婚約だったならそんなん無効になるだろうとか、本当に突っ込みどころしかないのだけれど。
もしカミラがもっと大人しく控えめで内気でやられっぱなしでめそめそ泣き寝入りするような令嬢であったなら、この後リックの婚約破棄の撤回からの再度婚約の結び直しとなったかもしれない。
けれども、深窓の令嬢のような雰囲気であったカミラは、しかし見た目通りの人物ではなかった。
幼い頃は確かにちょっと引っ込み思案なところもあったかもしれない。控えめだったかもしれない。
けれども成長するにしたがって、彼女は自分の意見はハッキリと口にできるようになっていったし、決して人の意見に流されるだけの意思の弱い人間ではなかった。
大人しそうに見えていたのは単純に淑女教育の結果である。
下手に苛烈な面を見せて、リックに嫌われたら、というのもあった。
好きな人の前では可愛い自分でいたいという恋心。
嫌われたくないから醜い部分は見せないように。
そんなよくあるやつである。
幼い頃からずっとずっと大好きだったリックは、いつかきっとわかってくれて自分の所に戻ってきてくれるものだと信じていた。だから、どれだけ冷たい態度を取られようとも我慢してきた。
けれども婚約破棄まで突きつけられて、いよいよカミラの我慢は限界を超えてしまったのだ。
馬車に乗る前までは泣かなかった。けれども、自宅に帰るための馬車に乗った途端もうダメだった。
ぼろぼろと大粒の涙を零し、とにかく泣いた。馬車の中が外から見えないようになっていたから大勢の前で泣くような事にはならなかったが、それでも時折もしかしたら声が漏れたかもしれない。
おんおんと泣く女の声がする馬車とか、ちょっと間違えたら都市伝説になりそうな気がする。
そうして自宅に辿り着く頃にはカミラの顔はそれはもう酷いことになっていた。目は真っ赤だし瞼は腫れてるし、鼻水垂れてるし、最後の最後で声が震えないようにと頬の内側の肉を噛んだ事で口の中痛いし。
散々である。
本来なら、卒業した後にリックとカミラは結婚するはずであった。だからこそ、あんなことにならなければ皆から祝福されていたはずなのに。
祝福どころか惨めに捨てられた女として大勢に見られたのである。こんな酷い醜聞、そりゃあ社交界で盛り上がらないはずもないだろう。前々からほんのりと捨てられかけてる噂は流れていたけれど、それが本当に捨てられたのだ。ある事ない事盛りだくさんに社交界に広まるだろう。
とんでもない姿で帰ってきた娘に、両親もそりゃあ仰天した。
本当だったら卒業式が終わった数日後に改めて関係者が集まって、結婚式だとか今後の話し合いだとかが待っていたはずだけど、娘がこんな大泣きで帰ってくるような事は予想していなかったのだ。
当然何があったかを聞くし、カミラだって包み隠さず話した。
そして両親は婚約破棄されたという事に再び仰天する事になったのである。
いくらリック王子が宣言したと言っても王子の一存で決めていい話ではない。けれどもカミラは、
「もう、もう構いませんわ! こんな目に遭わされてまでリック王子と結婚なんてできるはずありませんもの!」
と、顔中くしゃくしゃにして叫んだ。
学校に行くまでは仲睦まじかった二人がまさかこんな事になるなんて、誰も思っていなかった。
確かにリックはルルナと近しい距離になっていたけれど、それでもそれを知った大人たちの大半は学校にいる間だけの、期間限定の恋なのだろうと思っていた。結婚してから妻に内緒で愛人持つより結婚前のお遊びで済むならまだマシな方だろう、なんて思って。
それに、確かにリックとルルナはしょっちゅう一緒にいたけれど、別に人前で抱き合ったり濃厚な口づけをかましたりだとかの、一言で言うなら発情しているような行為まではしていなかった。
確かに雰囲気は甘ったるい恋人そのものだったが、人前では精々ちょっと仲良く寄り添っているとか、手をつないでいるだとか。時に腕を組んで歩く事もあったようだけど、目くじら立てて大人が叱る程のところまではいっていなかった。
なので教師たちもとても困っていたのである。
ルルナと一緒になってリックは確かに一時期成績も落ちたけれど、その後は徐々に戻っていたのもあって余計に。そしてルルナの成績だってリックと一緒になってからは少しずつ上がっていったのだ。
二人そろって成績が下がって、その上で遊んでばかり、というのならともかくそうではなかった。
そうなると余計な口出しは難しかったのである。
「もー無理! 王命だろうとなんだろうとリック王子と夫婦だなんてごめんですわああああああああ!!」
今までかぶっていた淑女の仮面もかなぐり捨てて泣き叫ぶカミラに、両親としては何とも言えない。
こうなる以前であったなら、二人が結婚して夫婦になっても問題ないと思えたが今の状態で結婚させたら完全に仮面夫婦の完成である。貴族としての役割を理解しているだろうから、白い結婚とかやらかさないとは思うけど後継ぎを作るのも一苦労しそうな予感しかしない。
最初から愛のない政略結婚であったならまだ割り切れただろうけれど、好きだったけどその好きが裏返って嫌い、もしくは憎しみに変わったような相手となればそう簡単に割り切れるはずもない。
跡取りどころか初夜当日、殺人事件に発展しかねない。
「あれだけ大勢の前で言われたらあっという間に噂にもなるし、もうこの国に居場所なんてなくなるのだわああああああ!! もういや、わたくしが何をしたっていうの!?」
ひっくひっくと嗚咽を漏らすカミラに、メイドの一人がそっとカミラの近くにグラスを置いた。
あまりに泣きすぎて身体中の水分が干からびてしまうのではないか、とでも思ったのかもしれない。
グラスの中には赤い液体が入っていて、カミラの父は「それワイン」と言いかけたがメイドは淡々と、
「赤ブドウのジュースです。ちなみにこちらが白ブドウのジュースです」
ともう一つのグラスを置いた。
ワイングラスを使っているせいでどう見たってワインにしか見えない。
酒だろうとジュースだろうと関係ないとばかりにカミラはお行儀悪くグラスを手にぐいっとあおった。いい飲みっぷりである。
たんっ、と音を立てるようにグラスが置かれて続けてもう一つのグラスの中身も飲み干された。
「……口の中切ってるから、染みて痛いです」
うりゅ、と更に目に涙をためるカミラに、良かれと思って出したジュースが更にお嬢様を!? とメイドは申し訳ございませんと謝罪したが、カミラは悪気があってやったわけではないから、あとこのジュースは美味しかったので口の中が治ったらまたほしいわ、なんて言っていた。
ちょっとしたメイドの気遣いでさえも今はとても沁みたのである。
結局のところ。
国王がどういう結論を出そうにも、カミラがもうこの国にいるのもやだああああ! と相変わらず淑女の仮面を放り投げて泣き喚いたせいで、両親もちょっと悩み始めていた。
婚約破棄の撤回がされてももう今までのような仲の良い二人に戻れるかどうかは疑わしいし、かといって正式に婚約がなかった――破棄ではなく解消、または白紙――としても、醜聞が綺麗さっぱり消えてなくなるわけでもない。
なんだったら今までは好意的に見ていたリック王子に関してカミラの両親は可愛いうちの娘に何してくれとんのじゃ、という気持ちになっていたし、可愛い可愛い娘が行き遅れになる可能性も放置できなかった。
「あなた」
「うん?」
カミラの母――レティシャに静かに声をかけられて、公爵は娘に向けていた視線を妻へと移動させた。
「いっそこの国出て、実家に帰ろうと思いますの」
「……本気で言ってる?」
「えぇ。だってこのままでは可愛い可愛いカミラはいい笑いものではないですか。これからずっと道化として生きていけ、なんて酷な事、言いませんよね?」
しれっとした表情で言うレティシャの実家は帝国にある。
というか。
レティシャは王位継承権こそ下から数えた方が早いがやんごとなき身分である。
一応、帝国とこの国との友好関係だとかまぁ、縁を繋ごうとかそういう目的もあってこちらに嫁いできたのである。
それが実家に帰る、となるとひと悶着ありそうではあるけれど。
「…………そうだな。そうしようか」
長い黙考の末公爵もまた頷いた。
レティシャが実家に――帝国へ戻るとなれば多少なりともいざこざはあるかもしれないが、しかしと考えてみる。これが離縁して、とかならまだしも、離縁するわけでもなく一家そろってならそこまでの大事件にもならないのではなかろうか。
大体誰のせいでそんな考えが出てきたかとなれば間違いなくリック王子である。
別の女と結婚して幸せそうな姿をカミラが見る事になったら、今以上に傷ついてもおかしくはない。
やらかしたのがこちらであるならともかく、あくまでも王子のやらかしなので。
ちょっと国離れて娘のために良い縁談を探しに行ってきますよ、くらいなら問題にもならないだろうと思ったのだ。別にこの国捨てるとかそういう話でもないので。
確かにちょっと公爵がいない間、一部の仕事が滞るかもしれないが、そんなもん許容範囲として受け入れてほしいくらいだ。造反するとかではないのだから、それくらいは甘んじて受け入れてほしいとすら思えてくる。
どのみち国王がどういう結論を出したところで、零れてしまったワインは戻らないし、ましてや割れてしまったグラスも復活するはずもない。むしろ下手に二人を近い場所に置くような事になれば、余計に拗れる可能性しか見えないのだ。
なら、これは必要な事だとすら思えてくる。
王との話は公爵だけでつけてくる事にして、善は急げとばかりにレティシャはカミラを連れて帝国へと戻っていった。馬車でも数日かかるので、後から追いかけるにしても公爵が帝国へ辿り着くのは二人が帝国についた後だろう。
そうして公爵が遅れて帝国に到着して。
王が下した決断を聞いたカミラは、あの国出て正解でしたわおのれー! と叫んだのである。
王の下した決断は、リックとルルナの結婚であった。
ルルナは身分が低いけれど、それでもリックと共に上位貴族としての振舞い方だとかも学んでいたために、何もわからないまま教育を受けるよりかは受け皿ができていた。
それに、あれだけの騒ぎになった以上は、再びカミラとリックを婚約し直すなど到底できるはずもない。
しかしリックとルルナを引き離したところで、アレだけの事をやらかしていたリックにすぐ結婚相手が見つかるか、となればこちらも難しかったのである。
無能な令嬢であるならともかく、ルルナはそれなりに優秀であったので悩みに悩んだ末の決断だったとも言えるのだが、しかしそれにしたって公爵からすれば面白くはない。
この国での娘の結婚は絶望的になったので、妻の故郷で相手を探す事に致しましたと報告だけしてさっさと公爵も帝国へ向かう事にしたのである。王も悪いと思っていたようだけれど、謝罪がちょっと軽すぎたのも公爵がイラッとした原因である。
「――それで、その話が結局どうしたっていうんですか」
兄のゆったりとした語りに、弟は少々イラついていた。
カミラの事は知っている。まさか兄の口から出た話が自分の知っている相手の事であった、というのは驚いたけれど、その話とメルセリアが帝国の領土になった事は関係がないように思える。
「おやまだわからない? 最初の部分で気付いたかなって思ったのに。
まぁいいや、まだちょっと続きがあってね」
弟の苛立ちに気付いているだろうに、兄はしかしそんなものとばかりに気にすることなく続きを語り始める。
帝国にやってきたカミラは、最初のうちはまだ気持ちの整理がつかなくて泣いたり怒ったりしていたけれど。
それでも流石にいい加減落ち着いて前を向かねばと思い始めていたのである。父から聞かされた国王の決断で怒りがわいた事もそう思った原因だった。
とはいえ、結婚相手を探すにしたって正直ちょっとしばらくは恋愛とかお休みしたい気持ちもあった。
リック王子とやり直す事はないだろうし、そのつもりもないけれど。
でも他の誰かと恋をしろと言われてもそんな心の元気はまだカミラにはなかったのだ。
そこに訪れたのが、従兄である。
滅多に顔を合わせる事はなかったけれど、幼い頃に従兄だと言われていたし、その時の記憶から随分と成長していたのですぐに思い出せなかったけれど、手紙のやりとりなどは何度かしていた。
手紙から感じ取れていた人柄とそう変わらない気さくな態度で従兄はカミラの話を聞いてくれた。
両親に散々吐き出した後だったけれど、それでも親に言うのとそれ以外に話すのとではちょっとばかり違う。
親にはちょっと言えなかった部分の心境だとか、あれこれそれはもうたくさん吐き出して、カミラはようやくなんだか一段落ついた気持ちになった気がしたのであった。
「へぇ、大変だったね」
「本当ですわ。そりゃあね? 幼い頃からずっと変わらない気持ちを持ち続けるとか難しいとは思いますけれども。それでもその頃から育ててきた気持ちが学校でルルナさんに出会った事であまりにもあっさり捨てられるようなものだったなんて思いますか!? わたくしだってずっとずっとリック王子の事好きだったのに! 好きだからちょっと厳しいことだって言ったのに! それ全部心無い暴言扱いですのよ!?」
「はは、将来太鼓持ちの無能ばかりを抱えてそうな未来が見えるね」
「流石にそこまでではないと思いたいのですが……」
「で、婚約破棄なの? 解消なの?」
「解消でしてよ。破棄だったら間違いなく向こう有責で慰謝料とんでもない事になってたでしょうから、それを惜しんだ……と今のわたくしとても穿った見方をしてしまいますわ」
「まぁそうだろうね。いくら神の加護がある国だからって資金が潤沢にあるわけじゃない」
というか、神の加護と言ってもハッキリした何かがあるわけでもないのだ。
ただ、神が授けたとされる宝玉を継承していない者が王となった場合、国は驚く程急速に衰えていくだけで。
宝玉を継承した王であれば、多少間違った決断をしてもすぐに国が滅ぶような事もない、と言われているがそのためだけに間違えた決断をし続ける実験などをやらかす王もいなかったので真相は不明のままだ。
ただ、神の加護が授けられなかった――というか後から興された国は加護のある国と比べるとちょっとした失敗であっても呆気なく滅びた、という話はよく聞く。
加護を授けられた国は神話の時代から、というと流石に嘘くさいがそれでもかなりの年月存在し続けている。
もっとハッキリとした利点があれば、宝玉を何としてでも奪いその国の王となろうと考える者も多かった事だろう。
強いていうなれば。
戦争を仕掛けた場合、加護のない国はちょっとした不幸が重なって上手くいかないだとか、そういう事は沢山あった。いっそ不自然に思えるくらいに。
とはいえ、加護を持つ国が他国へ侵略しようとした場合、どんな状況でも上手くいくだとか、そういった事もなかったのである。
「あぁもう思い出してもまだちょっとイライラしますわ。
今まで王子からもらったプレゼントだとか、全部突っ返してやろうかしらとも思った事もあったのですが、いちいちそんな事に時間を割くのもなんだか癪で。
あ、でも」
そこまで言ってカミラは服の上から胸元へ手をやった。
「そういえば、ずっと昔、まだ幼かった頃に王子からもらったペンダントはそのままでしたわね」
「ペンダント?」
えぇ、とカミラは小さく頷く。
まだあの頃は二人、お互いに仲が良かった。
リックはカミラの事が好きだったし、カミラだってリックの事が大好きだった。
この気持ちのままずっといつまでも一緒にいられるものだと信じて疑ってすらいなかった。
あの頃もらったペンダントは、あの時は大きくて胸元どころかお腹の近くに宝石があったけれど、成長した今となっては胸元で輝いている。
とはいえ、あの頃からずっと誰にも見られないように服の下に隠し続けたままだった。
あまりにも幼い頃からずっとあったから、それが当たり前すぎてペンダントをくれたのが王子である事実はさておき、あの一件以降もずっと前からの習慣としてペンダントは相変わらず服の下に隠すようにして身に着けていたのである。
「ま、仮にも王家が贈った物を返せ、などみみっちい事言うはずありませんものね。これは慰謝料だと思う事にしましょう」
言いながら服の下から取り出されたペンダントを見て。
従兄は思わず目を見開いたのである。
――さてその後。
メルセリアでは事件が起きた。
リックがルルナと結婚するにあたって、当然式を行うわけだ。
その場にて国王は久方ぶりに宝玉を身につける事となったのである。
普段は神から授けられたそれは、宝物庫に厳重に保管されている。普段身に着けているのはよく似せたイミテーション。とはいえ、こうした場で流石にそれは王としての権威にも関わってくる。
それもあって、宝物庫から宝玉を取り出そうとしたのだが。
その宝玉がないのである。
厳重に保管していたといっても、何事も人の手で行う以上絶対はない。
保管場所から少しずれてしまって落ちただとか、そういう事を考えて床を探し、もしくは置いた位置が違うところだったのではないかと隈なく宝物庫全体を見る事になってしまったけれど。
肝心の宝玉はどこにもなかったのである。
見たつもりでも意外と視界に入ってなかった、なんてのは探しものあるあるなので王はそれこそ何度も何度も確認した。なんだったら探した場所のチェックリストまで作って執拗なまでに探したけれど。
やはりどこにもないのである。
驚く程に王の顔から血の気が引いていく。
あれがなければ、この国は、というか王家はとんでもない事になる。
具体的には次の王にとリックを指名したとしても、宝玉を継承できないので彼には王となる資格がない、という事になってしまう。
王位継承の儀では、王もまた先王から直々に宝玉を授けられたのだ。そうして初めてこの国では王として認められる。
しかし、その宝玉がないまま王となろうとしたならば。
王ではない人物が国を治めようとすれば神の加護は消え失せて、今までは大抵どうにかなっていた事すらどうにもならなくなってどんどん衰退の一途をたどるのだ。
既に他の神の加護を与えられていた国で実際にあった話なので、軽んじてはならない。
このままではいつかリックに王となる日が来た時に、しかし彼は王にはなれない。
何者かが盗んだとして、早くみつけなければ王家の血筋でなくともあの宝玉を持った者が王とされる以上、とにかく大変な事になってしまう!
王は急ぎ宝物庫の警備をしていた兵を集めて話を聞いた。
宝物庫に来る者は限られている。
それ以外の人物が来れば直ちに連絡がいくし、速やかに捕縛される。
故に犯行は、限られた誰かだ。内部の犯行と考えるのが自然だが、しかし最近怪しい動きをしていた者は兵士から聞く限りは誰もいなかった。
王は知らない。
盗まれたのは最近どころか随分昔である事を。
実際は盗んだというより持ち出したが正解なのだが、今ここに無い以上はそんな事は些細な違いだ。
流石に宝玉が盗まれた、など大々的に周知させる内容ではない。
けれど、探すためにはその情報を伏せるわけにもいかない。
王はまず宝物庫に足を運ぶ事ができる人物を呼び集め話をする事にした。
宝物庫の警備をしている兵士たちが嘘をついてこっそり持ち出した、という可能性もちらっと考えたりはしたけれど、彼らはあくまでも警備をするだけで緊急時以外は中に足を踏み入れる事まで許されてはいなかった。
もしこっそり忍び込んで何かを盗むにしたって、宝玉だけ盗むのも不自然だ。
だからこそ、他に宝物庫に足を踏み入れる事ができる者たちに確認するしかない。
とはいえ、それだってそう多いわけではない。
基本は王家の人間だけが立ち入りを許されているし、それ以外の者が足を踏み入れる時は王家の人間と共に見張りもつく。故に何かを盗むにしても容疑者としてすぐに疑われる事になるし、盗んだ物を売り払って金に換えようなんて目論んでも足がすぐについてしまう。
そして、宝玉が宝物庫から失われているという話を聞かされた時、リックは完全に忘れていた。
幼い頃自分がやらかした事をすっかり忘却していたのである。
キラキラする宝物がいっぱいの宝物庫は、幼かった頃のリックのお気に入りの場所だった。
何度も足を運んでその中にある様々な宝物を眺めるのが楽しみだったのである。
とはいえ、何かを持ち出したりはしていなかった。
それをすれば怒られるとわかっていたし、持ち出す物によってはすぐに見張りの兵士に見咎められて王に報告されれば怒られるのは言うまでもないからだ。
けれど、ある日どうしてもリックは一つ、大好きなカミラに贈り物がしたくて。
宝石をそのまま手渡すのもどうかと思っていたし、かといって宝石がちりばめられた短剣だとかを渡すのも躊躇われた。
そしてその時、いくつもの宝物の陰に隠れるようにしてひっそりと存在している、あまりゴテゴテしていないシンプルなペンダントが目に映ったのだ。大人からすればすっかり隠れて気付けない位置。しかし幼いリックの目線はそれとは違っていたために、しっかりと捉えてしまっていた。
流石にここから持ち出した物を渡すのは、どうかなとも思った。けれどもカミラにどうしても贈り物がしたい。でも、商人を呼んで注文するのも、当時のリックの年齢では一人でできない事だった。
恐らくその場合母親が自分についていたとは思うけれど、一生懸命選んでいる時にこれはどう? とかこういうのは? とか聞かれるのは何となくイヤだったのである。
母のセンスが悪いわけではない。
ただ、最初から最後まで自分でカミラのために選びたかったし、それに、なんというかそれをネタに揶揄われるのが嫌だった。本人にそのつもりがなくとも、リックからするとカミラが大好きな気持ちに水を差されたような気分になってしまうので。
けれどもそれが難しいのであれば。
ふらふらと吸い寄せられるようにペンダントの所まで近づいて、リックはそっとペンダントを手に取った。
取るのに少しばかり苦労したけれど、周囲の物を倒したり転がすような事もなかったので見張りの兵士が中を覗き込んでくる事もなかった。
それが、いつか王になるときリックの首に飾られる物である、とは少し前に父から聞いていたのだけれど。
つまりそれって、いつかは自分の物になるわけで。
そしてカミラと結婚するのだから、自分の物をカミラに与えても何も問題はないのではないか。
まだ幼かった頃のリックはそんな風に考えてしまったのである。
必要になった時にだけ、ちょっとだけ返してもらえればそれでいいだろう。
そんな安易な考えでリックはよりにもよって宝玉をカミラに渡してしまったのだ。
カミラはそれを宝玉だと気づいていなかった。
二人だけの内緒だよ、なんて可愛らしく囁かれて、なんだかいけない事をしてしまったような気分にもなったけれど同時にそんな秘密を持ってしまった事に高揚感すら覚えていた。
式典だとか、王が宝玉を身に着ける時にイミテーションではない本物を着けていた時、カミラはそれをわかっていなかった。間近で見る事があればもしかして、と気付けたかもしれないが、まだ幼いカミラが間近で国王を見る機会など滅多になかったのだ。
婚約者として顔を合わせる時に何度か機会はあったかもしれないけれど、その時王がつけているのはイミテーションで、本物の宝玉と比べると確かに見た目は似ていても輝きが違ったのだ。それで気付けと言われてもという話だ。
もし、カミラがリックからの二人だけの秘密、というのを守らずこっそりとでも自分の父か母にでも見せていたら。事態は違う展開になっていたはずだ。
けれどもカミラはペンダントをずっとずっと誰にも見られないように大切に大切に隠し通したのである。
リックは手にしたペンダントをそっと服の下にしまいこんだ。そうして堂々といつものように宝物庫を出れば、見張りの兵士も不審に思わなかったのか何も言わなかった。
そんな、幼き日の出来事など、リックはすっかり忘れ去っていたのである。
覚えていたならそもそもカミラに婚約破棄を突きつけた時に返せと言っていただろう。けれども忘れていたがために、ペンダントを昔あげたなんてこれっぽっちも思い出さなかったのである。
不安な時、気持ちを落ち着けようとした時カミラは無意識に胸元に手をやる事はあった。祈るように何かを掴むように。それが服の下にあるペンダントを握り締めようとしているのだという事に、リックは気付かなかったのだ。
まずカミラが不安な時は大体その場にリックがいない時だ。本人の前でそんな事はほぼしなかった。それもあって、余計に幼少の頃の思い出など思い出すはずがなかったのだ。
結局誰も心当たりがないとなり、かといって国宝がなくなったなど大々的に知らせるわけにもいかず。
少ない人数で彼らは必死になって宝玉を探す事になったのだ。
とはいえそれもすぐに終わりを迎えた。
帝国から供を連れて第一王位継承者である青年がやって来たからである。
そして彼の手には、国王たちが血眼になって探していた宝玉があった。
何のことはない。カミラが身に着けていたペンダントを見てすぐさまそれがメルセリアの宝玉だと気付いただけだ。そして、カミラからそのペンダントを譲ってもらった。
カミラとしてはもうとっくに別れた男からの贈り物で、正直思い出したくもない気持ちもある。
いつまでもこんなの身に着けてたらまだ未練があると思われるのも癪だし、慰謝料代わりに売り払ってやろうかとすら思い始めていた物だ。
要するに、何の未練も執着もなかったから譲ってほしいと言われたところでイヤと言うつもりがなかったのだ。
故に、メルセリアの王が持つとされている宝玉はあまりにもあっさりと、隣国の次期皇帝の手に渡ってしまったのである。
そして彼の手に宝玉がある以上、メルセリアの王は王の資格なしとされた。
厳重に保管していたつもりであろうとも、実際王家とは無関係の人間の手に渡った時点で厳重も何もあったものではない。神から授けられたそれをあっさりと奪われるようでは王である資格なし。そう判断されても仕方のない事でもあった。
現状宝玉が手元にあるが故に、メルセリアの新たなる王として青年は宣言した。
王を名乗る不届き者を捕えよ! と。
実際に不届き者は青年であるが、その手に宝玉がある以上青年に攻撃をしようとしても神の加護からか、兵士たちは攻撃しようとしてもできなかった。
攻撃そのものはできるのだが、しかし初めて戦場に立った時の新兵のように動きが覚束なくなって、どうにも上手くできない。そうこうしているうちに、一人の兵士の武器が勝手に壊れて、他の兵士たちの戦意はすっかり喪失されてしまった。
いっそ最初から神の加護の証明でもある宝玉を身につけていれば、こんなことにはならなかっただろうに……と青年は思ったが、何というかずっと持っているとどうにも気持ちが落ち着かない。何かに見られているような気がするのだ。立場上常に人の目がある事に慣れてはいるけれど、それとはどうにも異なる。
まるで、審判の時を迎えているかのような。
もっと俗物のような言い方をすれば、悪い事をしないように親に見張られているかのような。
それと同時に、やけに生温かく見守られているようにも思えた。
優しくも厳しい、と言えればいいが、そんなものではない。
カミラはよくこれを気にせずずっと身に着けていたものだな、と思う。
青年は自分であれば必要な時以外は身につけず厳重に保管しておくだろうなと思った。
結局、メルセリアの王族は捕えられたし、青年が王として宣言した事でメルセリアはこの日をもって帝国のものとなった。
まさかの無血開城である。
実際青年は攻め込んできたわけではなく、普通に連絡をとって会いに来たのでメルセリアの王はそれを迎え入れただけだ。正直それどころではなかったけれど。けれども今忙しいから後で、と言って追い払っていい相手でもなかった。
仮に帝国と戦争になったとして、メルセリアに神の加護がある限りは滅ぼされる事はなくとも、それでも国力が疲弊すれば民の暮らしにも影響が出る。
結果として、それどころではなくなってしまったけれど。
青年は大々的に貴族や国民たちに向けても宣言したのだ。
メルセリアは帝国の一部となったのだと。
その首に輝く宝玉に、滅多に宝玉を見る機会がなかった者は偽物を疑ったけれど、しかし偽物であるなら本物を持った王がどうにかしているはずだ。しかし王は拘束されている。
王家の簒奪か、と思われたがそれにしてはあまりにも手際がいいし誰かが傷ついた様子もない。
そもそもメルセリアという国を盗ろうとしたとして、その割に兵力と呼べる程人を連れていたわけでもなかった。
であれば、あの宝玉は間違いなく本物なのだろうと。
誰もがそう思い始めていた。
ほとんど何の苦もなく国一つを収めた青年は、王家や貴族たちに服従か死を選ぶように伝えた。
民に関しては上がすげ変わったところで、自分たちの生活が余程劣悪にならない限りは声を上げる事もないと青年は知っている。けれども上流階級はそうもいかない。自分たちの生活ががらりと変わる可能性が常にあるのだ。帝国の民としてやっていくなら、実力に応じて相応に。
そうでないなら不穏分子として早々に処分する必要がある。
結果として貴族たちの大半は従った。
けれども王家の人間は――
リックやその父は王家の直系とも言うべき存在である。
選択がどうであれ生かしてはおけなかった。
そして夫と子を殺される事になった妃は自ら死を選んだ。
何が何だかわからないとばかりに抵抗しようとしていたリックと比べれば、彼女は随分と潔かった。
王家の直系、血が濃い者たちに関しては後になってから反乱の御輿に担がれても困る。
故に危ういと感じた者は青年の判断で処刑された。
国一つ。
それを手に入れた時の犠牲者は、驚く程に少なかった。
そうしてメルセリアという国をまるごと手に入れた青年は意気揚々と帝国へ帰っていったのである。
ある程度の事は指示を出してきたのでまぁどうにかなるだろうし、どうにかするだろうと思いながら帰還して父に報告すれば、その功績が決め手になったのか次の皇帝はお前だと言われた。
継承権からしてほぼ確実と思われていたが実のところ青年が本当に次の皇帝になれるかどうかは微妙なところであった。
海の向こうに留学していった弟が帰ってきたならば、そして大いに成長していると父が判断したのであれば。
次期皇帝には弟が選ばれていたかもしれなかったのだ。
継承権一位といっても彼の立場は決して盤石ではなかった。
しかし神の加護があるとされる国をまるごと一つ手中に収めたのだ。
弟が留学先でどれだけの事を学んでこの国で活かせるとしても、帝国側の犠牲一切なしに国一つを手に入れた事と比べればちっぽけなものだ。
神の加護がある国。
それが帝国の一部になった事で、果たして神の加護が帝国全体にあるのか、それともメルセリアがあった場所だけなのか。まだ詳しい事はわからないけれど、そこら辺は多分研究熱心な学者が調べるだろう。
「――そうしてメルセリアはうちの領土になりました。
ついでに次の皇帝には私が決まったわけだよ。ふふ、なんだかごめんね?」
申し訳なさそうに笑う兄に、いえそれは全然いいのですが。と弟は言いかけた。
というか国王が売り渡したっていうけど、その国王って宝玉手に入れた兄上の事じゃないですか。
とも言いかけたが言えなかった。
弟――ロディとしては次期皇帝とやらにこれっぽっちも興味はなかったので、継承権のままに兄が皇帝になるのであればそれでいいと思っている。
元々海の向こうの国にまで留学しに行ったのは、そんな兄の助けになれればというのと、後は――
「ところで我が弟よ、きみは、カミラの事はどう思っているのかな?」
「え? いえ、その、嫌いではありませんが」
「ふぅん? 好きって素直に言えない程度には好きって事ね。オッケーわかったよ」
「はぁ!? 兄上何勝手な解釈してるんですか違いますけどぉ!?」
「それじゃあ好きでも何でもないって事?」
「そうは言ってな」
「好きだよね?」
「ですから」
「好きなんだよね?」
にこりと微笑んで問いかければ、やがてロディは観念したかのように小さく、余程よく見なければわからないくらい小さく頷いた。素直じゃないね、と笑う。
とはいえ、弟がカミラを好きだと自覚した時には既にリックと婚約していたし、ましてや二人ともがお互い好きだと言いあって仲睦まじい姿を見せていたのだ。
照れくさくて好きと面と向かって言えなかったロディが入り込む隙間などどこにもなかった。
留学すると言った時、恐らく戻ってくる頃にはカミラは結婚しているのだろうな、と兄は思っていたし、そうする事で長い間捨てる事もできなかった恋心に終止符を打つのだろうなとも思っていた。なんだったら向こうで新しい恋を見つけてくればいい、とも。
けれど真面目な弟は留学先で新たな恋人なんてものを作る事もなく、当たり前のように勤勉に学んだだけで帰ってきてしまった。
まぁ、今回に限ってその真面目さが良い方向に転がったと思っているけれど。
「お兄ちゃんに任せて。近いうちに最高に幸せな花嫁と花婿にしてみせるから」
帝国は血統も重要視されているが同時に実力も必須である。何の成果も出せない無能はいくら血筋的に由緒正しかろうとも、継承権が上であろうとも、玉座に座る事を許されたりはしない。
一応それとなく小さな功績は出していたけれど、しかし弟の留学して得た経験次第では。
父はあっさりと継承権一位の兄を無視して弟を皇帝にしただろう。
けれども神の加護がある国をまるごと一つ手に入れたのだ。
これによって弟に自分の立場が脅かされる事がなくなった兄は、ようやく精神的に余裕が出てきたのもあってよしそれじゃ長年恋心拗らせてる弟を幸せにしてあげようと思い立ったのだ。
もし弟が皇帝になってたらそんな風に思う事もなかった。それどころか嫌がらせで自分がカミラと結婚しようと画策したかもしれない。
弟の事は家族としては好きだけど、それはそれとしてお前ばかりが全てを手に入れられると思うなよ、の精神も確かに存在していたのである。
けれども今、気持ちはとても爽快なので。
よしよしお兄ちゃんに任せなさい、というとてもおおらかな気持ちでもう恋なんてうんざりですわと言いつつも結婚相手を探さねばならないカミラに、叶わないと知りながら尚恋心を捨てきれずにずるずるとやってきた弟を全力でプレゼンしくっつける事を約束したのである。
いや流石にそれはちょっと、自分で気持ちを伝えるので……と遠慮する弟ではあったけれど。
こういうのは得意だからね、任せて。
確実にカミラからOKもぎ取ってくるし、余計な邪魔も入る前に結婚できるようにするよ?
そんなとても甘い誘惑に、弟は自分の気持ちを伝えたところで自分だけでは上手くいく可能性がない気がして。
まんまとその誘いにのってしまったのである。
――ちなみに一年後、カミラとロディは幸せたっぷりな新郎新婦として祝福された。
語り手がおにいちゃんなので、当然詳しい部分はカミラから聞いた以上に推測と脚色が含まれておりますが、大体合ってる。まかり間違っても推理ショーとかさせたらあかんタイプ。
あと宝玉に関しては常時身に着けておくと確かに何かこう……神様的存在から見られてる気がするのもあるけど、装着している状態が当たり前になると人間気が抜けてうっかり、って事もあるので普段は厳重に保管してるよ!
実際他の国では下克上を企みかけてた部下にうっかりで宝玉を渡す事になって国を追われた王族だった人もいるよ。その国の宝玉は王杖だったよ。