第19話 思わず見惚れる花のかんばせ
巫女様の唇が俺の唇にほんの数瞬重なった。
情の篭もらない口づけほど、味気なく虚しいものは無い。
まるで娼婦としているようだ。
いや、同じだ。
俺を従わせるためだけに、己の純真なものを差し出しているのだ。
誰も信じられないがゆえに。
そんな巫女様が酷く哀れで、神官でありながら僅かばかりも主に信頼されていない己が情けなかった。
椅子に戻った巫女様は、手巾を取り出すと、いかにも汚らわしいといわんばかりに口元を拭った。
嫌っている男と初めてであろう口づけをよくしたものだ。逆を返せば、それほど追い詰められているということだ。
「で、私に何をさせたいのですか?」
「一月に二度、子供たちのいるあの屋敷へ行き、保育料を渡して彼らの様子を見てきてちょうだい」
そんなことっ。
俺は軽い眩暈を覚えた。
たかがそんなことだ。
そんな簡単なことの為に、巫女様は清廉であるべき大事な唇を穢し、俺は巫女様に命を差し出したのか。
そこまでせずとも、外出を禁じられている巫女姫の使いの一つや二つ、神官は仕事の一貫として動くものだ。
それさえもできないとなると、巫女様の不信感は俺が思っているよりもずっと根深い。
あの屋敷で、雇い主の彼女を庇い、心配していた彼らさえも信じていないのだから。
『怪盗ガーディアン』の仕事を一緒にし、共に危険を掻い潜ってきた仲間の絆のようなものが、俺には見えていたのだが。
それさえも完全否定か。
まあ、俺にはあんなやつらどうでもいいがな。
「あなたが彼らをどう思ってらっしゃるかは存じませんが、少なくとも、彼らはどう見ても保育に適した者には見えません。預けるなら、子供に慣れたご婦人か、あるいは孤児院が……」
「そんな選択肢はないわ」
巫女様は声を強めて、俺の台詞を遮った。
「食事は日に一度、それもほんの少しのスープとパンがたったの一切れ。服は着ている一着だけで、いつも汚れてボロボロ。なのに大人たちは、子供達に毎日、院内の掃除に、大人たちの着た服を洗濯。食事の用意だってしているのに。まるで奴隷のように働かされて、少し怠けただけで、殴られて蹴られて。それが孤児院の実態よ。あなたは生まれも育ちもお貴族様だから、孤児院の上辺しか知らないのよ。せっかくそんな場所から逃げられたのに、また戻せと言うの?」
緑の双眸に強い光を宿し、澱みなく淡々と仰った。それがかえって俺の胸に突き刺さった。
悲痛な叫びに思えて、言葉を失う。
だから、大人が信じられなくなったのか?
「……いいえ。そのような実情があるとは存じておりませんでした」
巫女様は疲れたように一息つくと、茶器を手に、紅茶を飲んだ。
「わかったら、言ったとおりにして」
それでは、俺が安心できない。
巫女様が雇っている男達は、俺の目からもごろつきだが根は良さそうな者達に見えた。これまでも調査の為に何度かあの屋敷を覗いたが、虐待している様子はなく、仲良く一緒になって遊んでいるのを見た。
子供達を引き取るとまで言った彼らだ。
信用していないと言いつつ、頼っていることは言うまでもない。
だが、この先何年も継続して安心して預けられる保証などどこにもない。
また何かのきっかけで、もしかすると他に誰も知らない新たな抜け道が見つかって、また無断で神殿を抜け出されることになっては、堪ったものじゃない。
巫女様が町へ出る理由を一個ずつ確実に消していかなければ、俺が安心して眠れる日は来ない。
「巫女様、その前に私の提案を聞いて頂けませんか?」
「何?」
「子供達を私の屋敷で預からせて頂けませんか?」
「いやよ。今の屋敷であればあなたに監視をさせられるけど、あなたの屋敷に移せば、監視役が別に必要になってくるもの」
いっそ、清清しいほどはっきりと仰る。
まったく、しっかりしたお姫様だ。
「その必要はありません。私の監視を子供自身にさせればいいのです。彼らにはあなた様宛てに手紙を書いてもらいます」
「無理よ。あの子たちは読み書きができないもの」
「ではこちらで習わせます。家庭教師を雇いますから、勉強もさせましょう。今からしておけば、将来はある程度の職業を選ぶことも出来るようになるでしょう。そうすれば、仕事に就けずスラムに戻るということもなくなる」
巫女様はゆっくりと紅茶を飲むと、カタンと茶器をテーブルに戻した。
そして俺に、十二歳とは思えぬ冷酷な目を向けた。
「上手い話には必ず裏があるものよ。……でも、騙されたと思って許してあげる。だって私には、あなたの嘘を見抜く方法なんていくらでもあるから」
ゾクリと、俺の背筋を振るわせるほどの美しい貌で仰った。
また神殿を抜け出すつもりか。
「抜け道はどちらも完全に塞ぎました。それらとはまた別の抜け道でもあるのでしょうか?」
「いいえ、私にとってはもっと初歩的なものよ」
随分ともったいつけなさる。
騎士団で幾度も修羅場を潜ってきた俺を、手玉に取った巫女様だ。
断言するからには確固たる自信があってのことだろう。
国を守る守護者はクリスタルの力を制御しているだけで、国を守っているのはあくまでもクリスタルだ。守護者単体には何の力もないと俺は聞いていた。
しかし俺にはもう、巫女様が、クリスタルを制御する力以外に、なにか特殊能力でも隠しているようにしか思えない。
そうでなければ、怪盗ガーディアンなどという盗賊団や騎士団の裏をかくことができるはずがない。
「盗賊団の悪事とアジトを見抜かれたように、ですか?」
一体どうやって?
朝夕欠かさずに、この国の為にクリスタルに向かって、お勤めをされる巫女様を思い出す。その清らかなお姿からは、やはり盗品を盗み返す『怪盗』の姿は想像が出来ない。
つい昨日早朝に、あの屋敷で待ち伏せして連れ戻したわけだが、それでも実際に盗賊のアジトに忍び込む現場を見たわけではない。
俺の目に、巫女様が常に首から提げておられるクリスタルの欠片が目に止まった。
巫女様は俺の視線の先に気づいて、クリスタルに手を宛てた。
俺はそのときになってようやく気づいた。
「まさか、クリスタルで?」
「そうよ、そのまさかよ」
守護者は勤めで、アーディクリスタルを通して、この国に張られた結界を見ているのだと、神官長就任の際に、副官のロメオから説明を受けていた。
「でも誤解しないで。勤めの時はヴォルグしか見ていないわ。それ以外のときにほんの少し覗いている程度よ。それでも、あの子達が虐げられているかどうかぐらいは確められる」
俺は子供たちのことよりも、なぜ巫女様が『怪盗ガーディアン』などという危険なことをしていたのかがますます気になった。
しかし、一度訊ねて地雷を踏んだ俺は自重した。
「そうでしたか。ではどうぞ、お気の済むまでご確認ください」
「ディーン、一つ約束をしてあげるわ」
「何でしょう?」
「将来あの子達が全員、ちゃんと職を見つけて働いて、自立できるように育ててくれたら、そのときは、あなたが王国騎士団へ戻れるよう陛下に口添えしてあげる」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
巫女様の夜の外出に気づいたときから、俺はいつでも全責任を取って処刑される覚悟をしていた。先刻、彼女から『死の接吻』を受け、いよいよ現実感が増していたところだった。
それがいきなり真っ暗闇に、眩しい光が差し込んできたかのように眼前が明るくなた。
俺は非礼も省みず、まじまじと巫女様を見つめた。
「王国騎士団へ戻れたら嬉しい?」
「……それは、もう」
神官として巫女様の数々の外出を見過ごし、あまつさえ『怪盗ガーディアン』という危険極まりない行為を見逃し続けた罪。『死の接吻』を受けるまでもなく、将来は既に閉ざされていたのだ。
先を望んで良いわけがない。
後ろめたさを引きずりながらも、希望を持って生きたいという本能がせめぎ合い、俺は声を上ずらせて恐る恐る答えていた。
「約束を守ってあげる。だからお願い、あの子たちをちゃんと育ててあげて」
巫女様は俺の目を真っ直ぐに見つめて告げた。
「必ず、お約束します」
目に、声に、思わず力が入った。
俺はやはり、これまでどおり生きて、また、あの活気ある騎士団に戻りたかった。
騎士の育成所で散々叩き込まれた正義の定義に目を逸らし、俺はみっともなく、浅ましく、深々と頭を下げた。
誰のためでもなく自分の為に。
顔を上げると、そこには肩の力を抜いて、ふわりと微笑む巫女様がいた。
初めて見せられた花の顔に、俺は思わず見惚れた。