第17話 濁ったぬるま湯の中で
「……官……ディーン長官」
名を呼ばれて目を開くと、茜色の光の中に副官がいた。
「ロメオか、なんだ?」
雑木林の草むらの中、俺は平服を汗と泥まみれにして寝転がっていた。
茜色の光は副官のロメオが手にしている明かりを灯したランタンのものだ。
いつの間にか辺りは薄暗くなっていた。
緩慢に身体を起こすと呆れた顔をされる。
「なんだじゃありませんよ」
「そうか? ただのサボりとは思わなかったのか」
「ここ何ヶ月も無休で、真面目に巫女様に付かれていた長官が急にお休みになれば、さすがに何かあったと思いますよ」
「お前は俺のファンだからな。しかしよくここが分かったな」
「仲の良い神兵が、長官を裏山で見かけたと教えてくれたんです」
仕事もせずに忙しいやつだ。
いかがわしい関係なのかと問うのも面倒で、俺はしらけた目を向けるだけに留めておいた。
「で、なんなんです、この重石は?」
ロメオは俺の近くにある、岩の狭間に置かれた石を指差した。
図書室の隠し扉を裏側から木の板を打ち付けて塞いだ俺は、更に裏山側の出口も同じように完全に塞いだ。
そして、井戸の抜け道には、裏山側の出口のみ塞ぐことにした。
女の手では絶対に動かせないよう、板も隠れるほどの平たい大きな石を乗せておいた。
汗水たらし、飲まず食わずでそれらに半日かかった。
疲れきった俺は寝不足もあって動けずに、気絶するように寝てしまったのだ。
ロメオは、神官の中でも古株で、先代の守護者から仕える者だ。
神殿内部へと通じる隠し通路と知っていての発言だろう。
非難めいた目を向けてくる。
「賊らしきものが侵入しようとしていたのでな、巫女様にもご了承を得て塞いでおいた」
ロメオは珍しく厳しい顔をした。
「巫女様の了承があれば、何をしても良いというわけではないでしょう。塞いでしまったら神殿内で何かあったとき、どう対処なさる気ですか?」
「心配すんな。俺がいる限りそんなことにはならねぇ。それに、俺がここをやめるときには取っ払っておくさ」
「そこまでおっしゃったからには、ちゃんと責任を取って頂きますからね」
「分かってるよ、少しは上官を信用しろよな」
表情を緩めたロメオが、手を差し出してきた。
俺は部下の手に掴まり立ち上がった。
「していますよ、少しはね。至極真面目にお働きになる凛々しいお姿を拝見することが多くなりましたので。それに町へ下りても寝取りの噂を耳にしません。やりすぎてご婦人には飽きましたか?」
「いや、今は神官長として、巫女様をお守りすることに集中したいだけだ」
「今日の巫女様はどうなさったのか、お顔色も悪く、体調が優れぬご様子でしたよ。大事をとって早めのご就寝をお勧めしておきました」
そりゃそうだろうよ。ほとんど寝ずにお勤めに入られるんだ。
……どおりで、顔色が悪い日がよくあるわけだ。
ただでさえ、守護者は朝夕の結界管理の勤めが欠かせない。その片手間に夜中に怪盗業をし、更に以前は日中に子供達にも会いに行っていたのだ。
全くよくやっていたもんだ。
「俺も今日は早く寝て、明日の午前中にでも巫女様にお声をかけてみるよ」
「今はお食事ですね」
「そうだな」
先ほどからぐうぐうと腹の虫が鳴いている。
腹が減りすぎて眩暈までする。
男好きのロメオに近づくのは嫌なんだが、ふらつくので渋々肩を借りた。
下心剥きだしの変態野郎の手が、俺の背をいやらしい手つきで尻へと撫で下ろしてくる。
「お前は俺に、捻り潰されたいのか」
「まさか」
慌てて手を引くロメオをじろりと睨んだ。
先刻の部下とのやり取りを思い出す。
『わかってるよ。少しは上官を信用しろよな』
『していますよ、少しはね。至極真面目にお働きになる凛々しいお姿を拝見することが多くなりましたので……』
赴任してから俺は何をしてきただろうな。
あの屋敷で、巫女様を見失って初めて気づいた。
たった一人では、どうにもならないことがあるのだということを。
そんな当たり前のことを、俺は忘れていたんだ。
騎士団にいた頃は、何も考えなくとも、日々の訓練と任務を遂行する中で、自然と団員同士が連携し、結果、仲間との信頼と結束は強まっていた。
そうとは気づかず、神殿に来てからも何も考えずにいた。
ゆっくりとした平穏すぎる日々は、怠惰を蔓延させるだけで、何も生出してはいなかった。
濁ったぬるま湯の中で、巫女様はたった一人、どんな思いで過ごされ、何を思って『怪盗ガーディアン』などという危険極まりないことをされていたのか。
神殿の大階段前に来ると、俺は建造物を見あげた。
少し開いた花びらのような外壁の中心に、天を穿つが如くクリスタルが高く聳えている。
ほの白く淡い光を発して闇夜を照らしている。
頑なに心を閉ざす巫女様に、思いを馳せた。
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