あなたのために手料理を
ジャンルをホラーにしましたが、ヒューマンでも良かったのかもしれません。
みずみずしい青菜をトントントン、とリズム良くカットしている私の所へ、夫が顔を出す。
めずらしくジャージ姿の夫に、私は首を傾げた。
「あら? どこかへ行くの?」
「ちょっと走ってくる」
私の問いかけに、夫はバツが悪そうに答えて自分のお腹をさする。
「君の作る食事が美味しすぎて、最近お腹が出てきてしまったみたいなんだ」
「まぁ。だったら少し量を減らそうか?」
「量を……。いや、それは嫌だ。だからその分運動して消費してくるよ」
苦笑しつつ提案した私に、夫は迷ったようだったが、きっぱりと否定すると玄関へ向かった。
その背を見送りつつ声を掛ける。
「無理はしないでね」
私の呼びかけに夫は片手をあげて応えると、扉を開けて出て行った。
夫がいなくなりシンッと静まった部屋で、私は調理を再開する。
メイン料理の他に小鉢が10品、それにスープとサラダ、主食も五穀米と白米、玄米を用意し、好きな物をちょっとずつ食べられ、野菜中心のメニューでも飽きられないように工夫を凝らす。
これだけの品数を毎食用意するのは骨が折れるが、夫が美味しそうに食べる姿を想像すると頑張れた。栄養は健康な身体を作る上でなにより大事だから。
食卓に並べた料理の数々を見て、今日も美味しく食べてくれるかなと胸を弾ませる。
最後に夫の料理にだけ愛情を一振りして完成、なんて自己満足に浸っていたら、ちょうど夫が帰ってきて、食卓を覗き込むなり歓声をあげた。
「おっ! 今日もうまそうだな!」
「うふふ。運動してきてお腹が空いたでしょう? たくさん食べてね」
手を洗うのも早々にドカリと椅子へ腰かけ、勢いよく私の作った料理を食べ始める夫に、私の眦が下がる。
「美味しい?」
「ああ、外では食欲がないんだが、君が作ったごはんだけは美味しくて、どんどん食べられる」
「食欲がないの?」
たくさん作った料理はどんどん夫の胃袋へ収まってゆき、もうあらかた平らげてしまっているのに、食欲がないと言う夫に私は苦笑した。
私が笑ったのを見て、自分の空になったお皿に気づいた夫も照れたように頭を掻く。
「だから、君の料理にだけ食欲が湧くんだって。しかし君は本当に料理が得意になったよな、昔はお世辞にもうまいとはいえなかったのに。あぁ、今日もうまかった」
お皿に残っていたメインディッシュのソースまできれいに食べ終えた夫は、ソファへゴロリと横になると、そのうちすやすやと寝入ってしまった。
最近、夫は家にいると食べるか寝るかしかしていない。
食事の後片付けをしながら、私は夫の寝顔をチラリと見た。
夫の言う通り、私は料理が苦手だった。
実は今だって大嫌いなのを我慢して、作り続けている。
美味しくなぁれ、美味しくなぁれ、と魔法を掛けて、夫が自分以外の食事を受け付けなくなるように。
夫が浮気をしていることを知ったのは半年前のことだ。
妊娠して悪阻の酷かった私は、会社を辞め只管家で嘔吐を繰り返していた。
家事など出来るわけもなく、どんどん汚くなっていく部屋と毎日続くコンビニ弁当に、夫は顔を顰めて言った。
「君がこんなに怠惰だとは知らなかった。腹の中の子供だって、栄養状態が悪いんじゃ、ちゃんと育たないんじゃないの? 環境最悪だから、俺、暫く家出るわ」
トイレとベッドの往復しか出来ない私に、そう言い放った夫は、それから本当に家に帰ってこなくなった。
信じられない気持ちと、落胆に襲われるが、それでも悪阻は続く。
帰ってこない夫と初めての妊娠で不安な日々が続く中、ある日、大学からの友人の連絡で、夫が会社の同僚女性と不倫しているのを知った。
着替えを取りに来たのか、久しぶりに帰ってきた夫を問い詰めたら、最初はしらばっくれていたが、友人が送ってくれた、女性とキスをしている写真を見せると逆ギレしてきた。
「お前が帰ってきたくない家にしてるからだろ! 妊娠は病気じゃないのに大袈裟なんだよ。仕事も辞めて一日家にいるのに、家事もまともにやらずにメシも不味い女なんて浮気されて当然だ!」
夫はそう捨て台詞を吐くと、呆気にとられる私を置いてまた出て行ってしまった。
一人残された部屋で、嘔吐と食欲不振でフラフラになっていた私の身体が膝から崩れ落ちる。
そのまま意識を失い、気が付いた時には病院のベッドの上で、私の中に芽生えた命が消えてしまったことを告げられた。
「もっと早く、発見されていれば助かったのに……」
「救急車を呼んだのも、連絡がとれないって心配で見に来た友人だったみたいよ」
「旦那さん、他の女性と一緒にいたんですって。悪阻が酷い奥さん置いて浮気だなんて最低よね」
看護師さん達が陰でこっそりと話しているのを、ぼんやりと聞き流して、もう誰もいないお腹に手をあてる。
悲しい。悔しい。許せない。
今まで感じたことないくらいの負の感情が溢れ、夫への愛情を憎悪で塗りつぶしてゆく。
私が壊れたのは、きっとこの時だったのだろう。
私が流産し入院していると知って少しは罪悪感があったのか、退院の日、夫は迎えにきてくれ、すまなかったとポツリと零した。
タクシーに乗って自宅へ到着するまでの間、窓の外に流れてゆく景色を無言で眺めていた私は、夫が繋いできた手を握り返すことはなかった。
退院して私が真っ先にしたことは、散らかった家の中を片付けることだった。
夫は体調を心配してくれたが、私は夢中で家中を掃除し隅々まで磨き上げた。
手の込んだ料理を作りだしたのもこの頃だ。
家が綺麗になり美味しい料理を出すようになると、夫は何事もなかったかのように帰宅するようになった。
でも、私は知っている。
夫がまだ同僚女性と浮気を続けていることを。
先程、夫は運動してくると言って出て行ったが、どこでどんな運動をしてきたんだか。
でもね、そんなことはもうどうでもいいの。
それよりも夫が私の料理を食べてくれることが、今は何よりの幸せなんだもの。
気持ちよさそうに眠っている夫の少し出てきたお腹に、うっそりと微笑む。
虚ろな瞳が映す未来に、胸が高鳴る。
「あぁ、早く会いたいわ」
堪らず声に出してしまい、慌てて口を押さえて夫の顔を覗き込んだ。
幸せそうに眠る夫は、私の呟きは聞こえなかったようで、だらしなく口を開けて寝入っている。
黄ばんだ舌ではなくて本当はもっと奥が見たい。
けれど今はまだ我慢だ。
料理の仕上げに振りかけている愛情が入った小瓶を、エプロンのポケットから取り出す。
透明な薄いピンク色の液体は、あなたに必要な栄養が詰まった特別な代物だ。
強い常習性があるのが玉に瑕だが、あなたのためならば仕方ないわよね? だって栄養は大事ですもの。
どんな子が産まれてくるかしら?
私達二人の子供だもの。きっと可愛いわ。
悪阻が酷く辞めてしまったが、私は大学の時に専攻していた寄生虫学に関わる仕事をしていた。
学生時代からの研究成果を手元に置いておきたくて、友人と一緒に作りだした新種の卵を退職時にこっそり持ち帰ってきていたのだが、その卵を夫に振舞った料理に入れておいたのだ。
卵は人間の体内で徐々に大きく膨み、まるで女性が妊娠した時の悪阻のような圧迫感と気怠さが付き纏い、臭いに敏感になり常に吐き気を催す。
疑似妊娠が出来る卵として開発していたが、実は致命的な欠陥がありお蔵入りとなったものだ。
夫のお腹が少しふっくらしてきたのは、初期段階が過ぎ順調に育っている証である。
妊娠は病気じゃないんでしょう?
それなら味わってみればいい。
ささくれだって荒んだ気持ちのまま、勢いで卵を食べさせてしまったけれど、本当はすぐに虫下しの薬を飲ませるつもりでいた。
夫が愛人との逢瀬を続けていなければ。
夫が愛人である同僚女性を同じマンションに住まわせ、頻繁に行き来しているのを知ったのは、退院して間もなくのことだった。
部屋が綺麗になり凝った料理を出すようになってから、毎日帰ってきてくれるようにはなったが、妊娠中の敏感になった嗅覚で嗅いだ移り香の不快な臭いは、まだはっきりと覚えている。
その臭いをつけて素知らぬ顔で帰ってくる夫。
同じマンションの方が行き来も簡単に済ませられて便利だと考えたのだろう。
私が外出した貴方の後を尾行するように友人に頼んでいたことも知らないで。
さらには嫌がらせのつもりなのか、愛人がこれみよがしに情事を匂わせるゴミを玄関の前へ捨ててゆくのを見て、完全に私の中で何かが壊れてしまった。
卵は夫の中で順調に育っている。
スクスク、スクスク。
ピンク色の栄養剤はたくさんの食材と一緒に接種することで、より一層効果が現れる。
だからこその品数だ。
常習性のせいで夫が私以外の料理を受け付けなくなっているのは仕方がない。
ちなみにこの栄養剤を接種している宿主の体液が何らかの形で体内に入ると、その人間も同じように栄養剤無しの食事は食べたくなくなる。
それこそ濃厚なキスのような接触をしたら、栄養剤が入っていない食べ物なんていらないと思うはず。
お腹は空いているのに食べたくない、栄養剤もまた悪阻みたいな症状を促進させる。
今はまだ「痩せた?」なんて喜んでいるかもしれないが、きっとそのうち何も食べられないことで、どんどん衰弱してゆくだろう。
でも私の料理はあなたのためだけのもの。助ける義務も義理もない。
クスクス、クスクス。
寝入った夫の顔を見て私は嗤う。
会社へは何とか出勤しているが残業は一切しなくなり、帰宅してもだるそうにすぐに寝てしまう夫。
ね? 悪阻って辛いでしょう?
何もしたくなくなっちゃうでしょう?
でも私はあなたが大切だから、貴方に丸投げなんてしないで、きちんと面倒をみてあげる。
種だけ植え付けて放置なんて真似、絶対にしない。
ただ、あんまり栄養が豊富だとすぐに孵ってしまうかもしれないわね。
女性が出産するのと違って、あの卵は宿主の体内で孵化したら用済みの殻を食い破って出てくるんだけど、耐えられるかしら?
卵がお蔵入りになったのは、普通分娩の経験ができないから。
でもちゃんと産まれてきてはくれるのよ。
人の形をした虫が。
それもまた人道的観点から開発中止になった理由だけれど、生まれてきたあなたを育てる技術や知識なら、作った私達が一番知ってるから問題ないの。
宿主が無事でいられるかはわからないけれど、私達二人の可愛い子供であることに変わりはないわ。
冷やさないように夫のお腹へ毛布を掛けて、食後の後片付けを再開する。
出産に備えて部屋も綺麗に整えているけれど、ちゃんとここで産まれてきてくれるかしら?
食欲不振になった愛人を心配して出掛けていった先で、産まれてしまったらどうしましょう。
でもあなたなら私の作る料理を食べたくて自力で戻ってくるから心配いらないわね。
そう考えたら、愛人を同じマンションというすぐ近くに住まわせた最低な夫は、先見の明があったのかもしれない。
「もうすぐパパとママに会えるわよ」
そっと囁いてシンクに置いた、たくさんのお皿を洗う。
洗われて綺麗になったガラスのコップに映った私は、虚ろな眼差しをしているにも関わらず期待に満ちた笑みを浮かべていた。
数ヶ月後、あるマンションの一室で腹部が血塗れになった男性の遺体が発見される。
その隣に横たわっていた女性は痩せ細って皮と骨になった状態だったが息はあり、病院へ運ばれたが数日後に死亡した。
女性が精神を病んでいたことから、事件は不倫関係にあった二人が痴情の縺れから女性が無理心中を図って男性を刺し、相手の腹の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜ放置した猟奇殺人と断定された。
既婚者であった男性の妻は、同じマンションに愛人を住まわせていた事実に周囲から同情されたが、好奇な視線に耐えられなかったのか、ほどなくして引っ越していった。
夫婦に子供はいなかったらしいが家を出る際に妻は、おくるみらしきものを愛おしそうに抱え、友人らしき男性が迎えに来た車へ乗り込み去って行ったらしい。
お気づきでしょうが、妻が言っているパパは夫ではありません。
作中の『あなた』は敢えて平仮名と漢字で区別しています。
あなた=子供(卵) 貴方=夫 です。
なんでこんなお話を書いたのか自分でも不思議です。
ご高覧くださり、ありがとうございました。