美牛を捕まえたら、聖女だった。な ぜ だ。~モーデレ 美形眼鏡 視点
短編「聖女です。牛になったら、美形眼鏡と家族になりました。おや?」
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に出てきた美形眼鏡こと、ルドラ視点の話です。先に聖女視点を読むと、笑える所が増えると思います。
序盤はシリアス調ですが、じょじょにオカシクなります。
俺にとって、牛は家族だ。
守るべき愛しい存在であり、俺の運命だった。
俺の名前はルドラ。テントで暮らす遊牧民だった。俺の一族は草原地帯を求め、牛と共に流浪していた。
俺たちの主食は牛乳。古くなった牛乳には麦を入れて、粥のようにして食べていた。
「我らは牛によって生かされているんだ。大切にしろ」と、父からは教えられ、一族で、牛を大切にしていた。
初めて牛の出産に立ち会ったときは、感動した。産まれた牛は雌で、初めて父から飼育を任された。彼女は俺の言うことを聞いてくれ、放牧しても遠くにいかない。賢い牛だ。
その牛が大きくなり、二年の歳月が経った頃、次の祭りで食すという話になった。牛肉は常食はしない。貴重なものなので、年に一度の祭りで口にするだけだ。
幼い俺は、可愛がっていた牛を食べるという行為を受け入れがたく、父からナイフを手渡されても呆然としていた。
「育てた牛を、肉に変えて、初めて一人前になる。ルドラ、やれ」
父の言葉は、幼い俺の心を深くえぐった。雌牛はナイフを手にした俺を見ても、暴れることなく静かに立っていた。
まるで運命を受け入れているかのように、モーと鳴く。その声が「頑張れ」と聞こえた。
牛が生まれた日のことを思い出す。そしたら、俺はナイフを牛に向けられなかった。一人前じゃなくてもいい。牛に、生きてほしかった。
「逃げるんだ……どこか遠くへ! 早く!」
俺は抵抗する牛を引っ張り、一族から抜け出した。モーと、悲しげに鳴く牛の声は、聞こえないふりをした。
最初は抵抗していた牛も、諦めたのか俺と一緒に歩いてくれる。
くたくたになるまで歩き、意識を失いかけた俺を見て、牛は「モー」と鳴いた。ブフンっと鼻息を出して、地面に座り込む。
「背中に乗れって言っているの……?」
「モォォォ~」
「……ありがとう。重くない?」
「モォォォ~」
俺を背中に乗せて、牛が歩きだす。ゆったりとした足取りは心地よく、俺はいつの間にか眠ってしまった。
「モォォォ……」
悲しげな声を何度も聞いて、目を覚ます。
辺りを見渡すと、俺の一族がいた場所に戻っていた。でも、そこにはあったはずのテントがない。
盗賊にでも襲われたのか、慌てて逃げた痕跡がある。土の上に投げられた銅製のカップを見て、呆然とした。
俺は、これからどうすればいいのだろう。
たった一人で、どうやって暮らしていけばいいのか。
「モォォォ~」
牛が鳴いて歩き出した。一緒にいるよ、というように声が優しかった。
それからは、牛に育てられたようなものだ。湖に連れていかれ、水を飲んだり、俺が食べられる木の実を探してくれたり。食べ物がないときは、牛と共に青草を食べた。
時に牛は、乳を搾れと、豊満な乳房を俺に押しつけてきた。牛乳の出は悪かったが、飲んだ瞬間に、幸せな気持ちになったものだ。
あの時、牛がいなかったら、俺はのたれ死んでいただろう。
牛に助けられ、旅を続けていたが、盗賊に襲われて、日々は一変した。
無慈悲な盗賊は、牛と俺を好奇の目で見て嘲笑い、いきなり矢を放ってきた。
「牛がいるぞ! 狩っちまえ! 商人に売れば高値がつく!」
「あの小僧、きれいな顔してんじゃねえか。奴隷商人に、うっぱらおうぜ!」
ニヤニヤ笑いながら、盗賊は矢を射る。俺は声も出せずに震えるばかりだったのに、牛は盗賊たちを威嚇した。
「モォォォオオオォオ!」
低音の叫びに盗賊がひるんだ隙に、牛は俺を背に乗せて走り出す。盗賊が逃がすまいと、矢を放ち、牛の後足に矢が刺さった。ぐらついた体にしがみつきながら、「止まって!」と俺は叫んだ。
「お前だけでも逃げて。お願い! 止まって!」
大声を出したというのに、牛は走り続けた。
俺を狙った矢がそれて、牛の背に刺さる。それなのに、牛は止まらない。全力で駆る。山を見つけ、木々に身を隠すように走る。
「もう、やめて……お前が死んじゃうよ……」
俺は泣きじゃくりながら、牛にしがみついていた。それしか、できなかった。
牛の歩みが止まる。
盗賊の姿はどこにもなく、俺たちは逃げきれていた。
崩れるように倒れた牛から降りて、体を支えようとした。でも、非力な俺では、牛の胴体を起こすことすら叶わない。抱きしめることしかできない。
牛は荒い息を吐いて、「モー……」とか細く鳴く。つぶらな瞳は優しかった。
――生きなさい。
そう言っているような気がした。はっと息のみ、牛を見ると、黒い目から光が消えていった。
それが悲しくて。心の中がぐちゃぐちゃに踏み荒らされたような気がして。俺は動かなくなった牛の体を揺らした。
「……嫌だよ……ねぇ……嫌だ嫌だ嫌だっ…… い や だ……」
どれほど呼びかけても、牛はもう動かない。モーと鳴いてくれない。体から熱がなくなっていく。俺はぼろぼろに泣いて、牛を抱きしめた。
「ちくしょう……」
力があったら、今も牛といられたかもしれないのに。俺は無力だ。
「ちっく……しょう……っ ちくしょうっ!……ちくしょおおおおおッ!」
無力な自分が、嫌いだった。
一族のやり方で牛を弔う。牛を殺そうとしたナイフで角を切り、お守り代わりに握りしめた。それから盗賊に復讐するため、ナイフを懐に忍ばせ、あいつらを追った。
他のことなんて、考えられなかった。
山の中を歩いて、探し回る。でも、見つからない。また、歩く。あいつらが道の先にいるのか、分からない。でも、歩く。
歩いて歩いて、俺は倒れた。
本当に、俺は、弱い。
力が欲しい。
全てをねじ伏せ、守るべきものを守れる力が。
悔しさで顔をわずかに、しかめた時だった。
バシャン!
頭から水をかぶった。
目だけを動かして上を見ると、片目に大きな傷がある壮年の男が、俺を覗き込んでいた。
「お? ボウズ、死んでねぇな。立てるか?」
男は何がそんなに楽しいのか、にやりと笑う。
「立てないか? なら、よいせっ」
男は軽々と俺を肩に担いだ。見たところ上等な服を着ている。盗賊には見えない。
「どこに……連れていくんだ……」
「ははは! しゃべれるのか。根性があるやつだなあ。俺の家だよ」
「あんたの……家……? っ」
「無理してしゃべんな。とってくいは、しねえよ」
隻眼の男は、自警団の詰め所に俺を運んだ。どうやら俺は、知らない国に来てしまっていたようだ。言葉が通じたから、分からなかった。
その国では、牛は神様の使いと呼ばれていて、王宮で管理されている。触ることすら叶わない。家畜といえば山羊だった。
詰所で介抱され、どこから来たのか、とか詳しい事情を聞かされた。食い物をちらつかされたら、嫌でも話す。盗賊に復讐するまで、俺は死ぬわけにはいかない。
隻眼の男は、固いパンにかじりついた俺を見て、にやっと笑った。
「お前、根性ありそうだな。俺の部隊に入れよ」
男は元・魔法騎士だった。魔法というのは不思議なもので、言葉を唱えると手から炎とか出せるらしい。その昔は、魔法騎士は戦に駆り出されていたが、今は模擬試合する程度のもの。貴族がたしなむものになっているそうだ。
男も、とある貴族の三男。魔法騎士職をしていた彼は、辺境のこの地に来て、女性に一目惚れしたらしい。
「すげー、いい女でな! 運命を感じて、魔法騎士、辞めたわ! ははは! 辞めるときは、すごい揉めたなあ。俺がいなくてもやれるだろって、喧嘩して勝ったわ! ははは!」
豪快に笑う男に、ぽかんとしていると、男の目が切なげに細められる。
「……結婚生活は短かったけどな。いい女だった。ユリの花が好きだったな」
そう言って、俺の頭を乱暴に撫でる。
「ルドラ。お前さんはきっと、神様に出会えたんだ」
「……神様?」
「この国じゃ、牛は神の使いって言われてんだよ。聖女が変幻したとか、牛にまつわる伝説は多いんだぞ?」
男は優しい目で、笑った。
「お前さんは神様に出会い、守られた。神様はお前の幸せを願ったんじゃねぇのか?」
それを聞いて、牛の優しい目を思い出した。生きなさいと言った声も。
心が苦しくなって、片方の目から涙が流れた。くしゃりと顔を歪ませて、次々とあふれる涙を手の甲でぬぐう。
「それでも、俺は強くなりたいっ……神様を守れる力が欲しいんだ!」
振り搾るように声を出すと、男は目をギラつかせ、声を張った。
「なら、強くなれ! 俺がお前に戦い方を教えてやる!」
驚いて目を見張ると、男は不敵に笑っていた。
「魔法に才能なんてもんはいらねえ。九割九分の努力で、なんとかなるんだよ。ま、俺の持論だけどな。根性だして、魔法を覚えろ! お前は強くなれる!」
口を引き結んでゆっくり頷くと、男は豪快に笑った。
「ははは! いい目するなあ! ――楽しみだ」
そう言われ、固いパンを手渡される。それにかじりついて、俺は強くなると誓った。
「都市じゃ、攻撃魔法は美しさと威力を競うものになっちまったが、くそくらえだな。魔法は人を守ってこそ、魔法だ」
そう言う男は、辺境一体の人たちに魔法を教えているそうだ。自警団を作り、盗賊などの悪漢から、市民を守っていた。
俺は自警団の洗濯やら料理を手伝う傍ら、男から魔法を習った。修行は厳しく、俺は何度も地面に叩き潰された。男は優しい言葉をかけずに、ニヤリと笑っていた。
「もう参ったか?」
「まだだッ!」
「ははは! そうこなくっちゃ、おもしろくない」
俺は男を師とした。師匠は越えられない壁だった。強靭な壁。月日がたち、魔法を習得して、教えることはないと言われても、俺は納得しなかった。
「師匠、手合わせしてくれ」
「なんだ、またかあ。ルドラあ。お前さん、もう充分、強いだろ?」
「……まだ足りない。あなたに勝てない」
「ははは! 俺が死ぬまでやる気かあ? いいよ。付き合ってやる」
師匠との日々は、牛を失い、俺の心にできた穴を埋めてくれるものだった。
あらゆる魔法を習得していくと、俺の目が見えにくくなってきた。狙いが定まらなくなり、診療所にいる聖女に見てもらうと、「魔法の使いすぎによる近視」と言われた。
「魔法を使うとき、目と腹に力を込めるでしょ? 目の前に魔法を発現させようと、近くでものを見ることと同じになるの。それで、目がやられて視力が落ちるの。魔法使いの職業病ね」
「治す方法はありますか?」
「ないわ。眼鏡と呼ばれる魔道具を使うしかないわね。あれ、ものすごく高いし、都市部でしか売ってないわ」
「……そうですか」
視界が悪いと、狙いも定まらない。参ったなと、師匠に話したら。
「あ。そうなのか? ちょっと出かけくるわ。留守頼んだぞ」と、行って、出て行ってしまった。
師匠は、ふらっと出かけては半年ぐらい行方をくらます。自由人だ。
いつもの放浪ぐせか、思っていたら、二ヶ月後に師匠が戻ってきた。師匠は、ぽいっと丸いレンズが二つ付いた道具を俺に投げてきた。
「師匠……これは?」
「眼鏡だ。かけてみろ」
「眼鏡って……都市に行ってたんですか? 貴重なものだって聞きました。金はどうしたんですか?」
飲み屋にツケを溜めて、おかみさんに叱られている師匠に、金はない。師匠は気まずそうに頬をかいた。
「あー、金なかったから、都市に行って働こうと思ってさ。そしたら偶然、昔、ぶん殴った同僚と再会してよ。また喧嘩してきた! ははは!」
は?
「手紙ぐらい寄越せってー! 泣かれて、ぶん殴られたわ。まあ、あいつ、年取ってたから、ヘロヘロパンチだったけどな!」
呆れながらも師匠から詳しい話を聞くと、魔法騎士を辞めた時、喧嘩別れした仲間と再会したらしい。
その人に金が貸してくれと師匠が頼んだら、魔法騎士を辞めるときに受け取らずにいた給料を渡されたそうだ。その人は、魔法騎士団をまとめていて、かなりの資産家になっていた。
「こんな高価なもの……稼げるようになったら、金は払います」
「ははは! じゃあ、上等な酒とつまみにしてくれ! そんで、貸し借りなしだ!」
師匠は笑って、軽く手をふった。
その後、俺は師匠が作った自警団に入り、村を守るために働いた。
しかし、自警団の稼ぎは、ほんのわずか。上等な酒は、いつまでたっても買えなかった。
村は貧しく、しょっちゅう盗賊が現れ、金品や女性を奪われていた。
荒くれ者どもに怯えた民は、自警団が頼りだ。これでも、師匠が来てから、マシになったらしい。
盗賊は俺にとっても許せない奴らだ。
俺は師匠に、盗賊団のアジトを突き止め一網打尽にしようと提案した。
「奪われるだけの日々を終わりにしたい」
そう言うと、師匠は豪快に笑い。
「いい面構えになったなあ! いっちょ、やってやるか!」と賛同してくれた。
魔法で盗賊に襲われやすい場所に結界を張る。罠をしかけ、奴らが来るのを待つ。
太った商人が協力してくれ、わざと着飾ってウロウロさせり、金目のものを道端に広げた。商人は脂汗をかきながら、俺に何度も尋ねた。
「ル、ルドラしゃんっ。ほ、 ほほほんとうに守ってくれますよねっ!」
「任せておけ」
「ほ、ほんとうに任せましたよっ! って、うぎゃあぁあ! でたー! 盗賊ぅ~! いぎゃああああ! こわひー!!!」
半泣きの商人を背に隠して、師匠が盗賊に突進。
「紅蓮の炎で焼き祓え! メラルガ!」
師匠が炎の魔法を繰り出し、盗賊を足止めする。その隙に、俺も魔法を詠唱。
「いかなる者も 押し流し 救いの道は 与えるな!」
俺の手の平から怒りの水龍が飛び出す。
「ベアアァァ・オブ・ティアアァァズッ!」
龍は盗賊に食らいつく。あっという間に、盗賊たちの体が水没していく。生き残った盗賊は捕縛し、アジトを吐かせた。
自警団で突入し、ボスを捕まえると、俺は復讐心を燃やした。忘れもしない。牛に矢をいった相手だ。
思わず、首から下げていた牛の角を握りしめる。
相手に助けを懇願されても、心は動かない。こいつは、遊びのように牛に矢を射ったんだ。許せるものか。
ボスに向かって、ナイフを振り下ろした。魔法ではなく、俺の手で亡骸にしたかった。
「貴様に与える慈悲はない」
端的に告げ、俺は復讐を遂げた。
壊滅させたアジトから、村の人が奪われた金品が出てきた。かなり古いものも混じっていて、持ち主が分からないものもある。俺は功労者として、金を渡された。その金でいい酒を飲もうと師匠に言ったのだが。
「あー。最近、聖女から酒を飲むなって言われてんだ。また、いつかな」
軽くあしらわれた。
そして、師匠は腰が痛いから、団長の座を譲ると言ってきた。
「俺の騎士服。お前にやる。団長服の代わりだ」
放り投げられた騎士服を両手で受け取る。
「師匠……? どうして急に……」
「あー、師匠も引退な。俺も、もう年だしなあ。妻の思い出に浸る時間が欲しいんだ。忙しいのは、おしまい。お前さんが、辺境を見てくれ」
そう言った一ヶ月後。
師匠は穏やかな顔で、最愛の元へ旅立っていった。
かなり前から、体が悪かったらしい。
「あなたには黙っておいてくれって、言われていたのよ」と、聖女から告げられた。
「……心配されると恥ずかしいんだって。バカな人ね」と、鼻をすすりながら言う彼女のことを、責められなかった。
ただ、信じられなくて。
あまりに急で。
寝ているような穏やかな顔を呆然と見ていた。師匠にかける言葉は、見つからなかった。
棺桶が土に埋まり、さよならの花束にユリをたむけても、俺はまだ墓の前に立っていた。
土の上に師匠の名前を掘った墓標がある。それをただ、見つめる。
涙は、出てこない。
「ルドラ」
ぽん、と肩を叩かれ、振り返ると、自警団の男がいた。
彼は墓標に祈りを捧げると、ぽつりと言った。
「こいつ。ルドラのこと、息子みたいだって言っていたよ」
息子……?
師匠には、確か子供はいなかったはずだ。
言葉を失っていると、彼は立ち上がり、俺を見て言った。
「ルドラを見ていると、親の気持ちがわかるって言ってた。……酔わないと本音を言えないなんてな。……不器用な奴だったよ」
彼はまた俺の肩を叩いて、去ってしまった。去り行く足跡を聞いていたら、泣きたい気持ちになった。
目頭が熱くなり、はっと熱い息を吐き出す。墓標を見つめると、例えようのない思いが込み上げた。
俺は震える手で、いつか一緒と飲もうと思っていた小さな酒瓶を懐から取り出す。
ラベルをじっと見つめ、一度、家に戻った。
家からグラスを二つ持ってきて、ひとつは墓標の前に置く。なみなみと酒を注ぎ、もう一つのグラスも同じようにした。
グラスを持って軽くあげ、一気に煽る。
上等な酒のはずなのに、味はわからなかった。
「……酒の飲み方も教えてほしかったです。義父さん、逝くのが早すぎです……」
グラスを地面に置き、手を合わせる。義父が最愛の人と再会できるように、祈りを捧げた。
*
盗賊に襲われることがなくなった村は、平穏を取り戻していった。山羊がのんびり歩く光景も見られたほどだ。
だが、師匠が亡くなって二年と経たずに、次は食糧不足に陥った。遠い大国が戦争をしているとかで、商人はげんなりしながら物が高いと告げた。
「もう、嫌ですぅ~! どれもこれも仕入れが高いですぅ~! その金額では、これっぽっちしかお渡しできませんっ! うおーーーん!」
脂汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにする商人は、盗賊に罠をしかけたときの協力者だ。皆、何もいえずに黙って、少ない食糧を分ける。でも、気弱な彼に冷たいことをいう奴もいて、商人の足は辺境から遠ざかっていった。
ますます収入がなくなる。
「こんな日々が続いちまったら、子供が腹をすかせちまう……」
嘆息する男に同意見だ。だが。
「山羊のミルクでしのぐしかないだろ」
「そうだな……山羊のミルクかぁ。俺、苦手なんだよ」
「そう言うな。食えるだけ、ましだろ」
村の唯一の特産である山羊が売れない。金が手に入らない。暗雲が立ち込めた時、追い討ちをかけるように聖女がいなくなった。
辺境の医療を支えていた聖女が、本部に呼び戻されたらしい。誰にも知られないようにひっそりと姿を消した彼女の置き手紙には、沈痛な思いが綴られていた。
『戻ってこないと、聖女職を剥奪すると脅されました。ごめんなさい。私の故郷に山羊のミルクを固めて、保存する方法があります。レシピを置いておきます』
彼女は紙にチーズの作り方を書き残した。しかし、チーズとはなんだ?
俺も知らない食べ物だし、ここでは、古くなった山羊のミルクは麦を入れて粥にするだけだ。
「こんな紙切れ一枚で、どうしろってんだよ!」
誰が叫び、聖女の残したレシピを破り捨てた。
「おい、やめろ!」
「離せ! ルドラ!」
男を取り押さえていると、女性が声を震わせていった。
「聖女までいなくなって、私たち、どうなるのかしら……誰が病気を見てくれるの……?」
「都市に行くしかねぇだろ……」
「そんな……都市へは馬を飛ばしても三日はかかるのよ?……病人を担いで、一体、どうやって移動するの?!」
「落ち着けよ……気持ちはわかるけどさ……」
「教会は私たちを見捨てたのよ! そんなのってないわ……あんまりよ。……あんまりだわ……神様に祈っても、守ってくれないじゃない……」
彼女の悲痛な泣き声に、沈黙が落ちた。俺は回復系の魔法は使えない。それでも。
「皆で乗り切るしかないだろ。こんなことは長くは続かない」
そう言ったが、頷くものは誰もいなかった。
二ヶ月が経った。
大きな怪我人はいないが、不安で皆は暗い顔をしている。
揉め事が絶えなくなり、俺は仲裁をする日々。狩りに行っても、獲物が捕れずに皆の腹をすかせ、目の色を変えている。
人の持ち物を奪う者が出てきた。悪党はどうして、居なくならないのだろう。
最近、人の笑顔を見ていない。
疲れた……
癒しがほしい。
そう思ったら、牛乳を飲みたくなった。
幼いころ、腹を満たしてくれた牛乳。
亡き牛が飲ませてくれた牛乳。
芳醇な匂いを吸い込み、杯に注がれた白色の液体を喉に流し込むあの瞬間。
俺の心は、幸せで満ちた。
牛乳は、うまいんだ。
山羊のミルクとは違う豊かさがある。
あの滑らかなものを舌で、味わいたい。
今なら一滴残らず、すすれる。
そう切望しても、この国では牛乳は俺が手を出せる代物ではない。
でも、牛乳が飲みたい。牛乳が無理なら、牛に触れたい。あの柔肌を手で感じたい。
牛が、恋しい。
そう渇望しすぎたせいだろうか。
俺の目の前に、神々しい光をまとった牛が現れた。
なんだこの牛は……オーラが違う。
黒い肌に描かれた白い模様が、芸術的に美しい。肌のはり、艶に見惚れる。体格も無駄がない。スレンダーだ。
つぶらな瞳は俺をじっと見つめ、何かを語りかけているよう。草を食べる姿すら品がある。
牛は雌だろう。乳の大きさが、そう物語っている。
何より目を奪われたのは乳の形。
完璧な造形をしていた。
「牛の乳は手前にある方がよい。搾りやすい乳房は、最高の牛の証。スーパーカウだ」と、父は熱く語っていた。
目の前の乳は、まさにスーパーカウ。今まで見たどの曲線より、なまめかしく、俺を誘う。
あの乳の大きさなら、どれほどミルクが搾り取れるのか。彼女を見て、ごくっと喉が鳴った。
「モォォォ……」
あまりに粘着質に見つめたせいか。牛が俺を見て鳴いた。か細く不安げな声。しかし、低い声は懐かしいものだ。可愛いな。
思わず口に笑みを浮かべると、牛はカッと目を見張った。
つぶらな瞳は血走り、興奮しているように見えるが、口は開きっぱなしだ。よだれの分泌も激しい。
どうしたのだろう。
美味しそうだと、見ていたのがバレたのだろうか。
じっと見つめていると、牛は声を荒げ、走り出してしまった。
しまった。
警戒された。
必死になって牛を追いかける。これだけの美乳を持つ牛だ。すぐ誰かに見つかり捕まってしまう。
盗賊に見つかったら、狩られる。
それはダメだ。絶対に、阻止せねば。
牛が死ぬのを見るのは、耐えられない。
捕獲を試みた。
牛は腰が弱点だ。大人しくさせるには、腰を崩せが鉄則。体当たりすると、美牛は足腰が立たなくなった。すかさず、ロープで縛り上げる。
牛は、大人しくなった。
しゅんとしているように項垂れ、俺にされるがままになっている。
ほっとして、安堵の息を吐く。このまま連れて帰ろうと、思ったとき牛が鳴いた。
「モォォォ……(捕まってしまったよ)」
耳を疑った。
話していることが、分かるのだ。
ハッキリと聞こえる。
牛と心を通じ合わせていたことはあるが、その時よりも、鮮明に言葉が聞こえる。
な ぜ だ
動揺を隠して、話しかけてみた。
やはり、牛の言葉は人と話しているように聞こえる。
な ぜ だ
じっと観察しながら、会話を重ねると、彼女の声から魔力の波動みたいなものを感じた。
眼鏡をなおし、目を凝らすと、彼女の口から黄金の光が、わずかながら見える。
これは――なんだ?
彼女は魔力を持っているのだろうか。
師匠が言っていた聖女の牛変幻を疑ったが、すぐに頭から消した。
なぜなら、辺境にいた聖女が顔を青ざめて言っていたからだ。
「聖女の牛変幻ですか?! あのひどくダサい!」
「ダサい?」
「はっ……い、いえ。詠唱が難解なので、今、使う聖女はいません。おほほほ。禁じられた魔法です。おほほほほ」
彼女は顔をひきつらせ、牛変幻について語らなかった。禁じられているのなら、言えないことも多いだろう。
では、彼女は――本当に神の使いか?
これだけの美しさだ。そう言われても、納得してしまう。
彼女の方も俺と会話できるのが不思議なのか、モウモウ言っている。聖女に詳しい話をききたくなったが、彼女はいない。まいったな。
俺は美牛の頬を掴み、じっと見つめた。
神様ではありませんか?と尋ねたら、逃げ出すだろうか。手放すのは、惜しいな。これほどの美牛は、お目にかかれるものではない。
俺は考えた後「君の瞳を見れば、考えていることがわかる」と誤魔化した。
美牛は俺のことを牛飼いだと勘違いしてくれた。牛飼いというか、牛は家族だが、俺の境遇を話、納得してもらうことにした。盗賊に牛の命を奪われたと語ると、彼女は瞳をうるませ、急に吼えた。
「モオオオオ! (盗賊め! 天罰が下ればいいっ!)」
黒い瞳から、ぽろりと涙をこぼし、彼女は自分のことのように怒り、泣いてくれた。
驚きながらも、涙に魅入る。
誰かの為に流した雫は、きれいだった。
「君は優しいな……」
呟くように言うと、美牛は小声でモウモウ鳴く。照れるのか、愛らしい声だ。
辺境の事情を話したら、彼女は納得したようで、家に付いていってくれた。
家に着いた。
子供の頃は、牛と添い寝していた俺は、牛は家に入れるものだ。家族だからな。
なのに、美牛はなかなか家に入らない。
な ぜ だ
あぁ、そうか。家が快適そうじゃないからか。人が暮らす家だものな。後で干し草を敷いてやるからと思いつつ、牛の尻を握りしめる。
「モォ?!」
ほどよく筋肉質ないい尻だ。鷲掴みしやすく、押しやすいな。
「モォォォ?!」
それにしても。後ろ姿が、たまらないな。黒い斑模様の尻から、ほっそりとした足のラインにぐっとくる。
やはり垂れ下がる乳の大きさがいい。いかほどのミルクが取れるのか。想像するだけで喉が鳴る。
「モォォォオオオ?!?!?!」
美牛は少し暴れたが、観念したのか家に入ってくれた。
外にベッドに使っている干し草があるはずだ。取りに行こう。その前に家具が邪魔だな。角が鋭利なテーブルがあっては、彼女の肌を傷つけてしまうな。どかすか。
スペースを開けて、彼女の寝床を作る。
ポタポタとよだれを口から垂らしながら彼女は黙って俺のすることを見ていた。間の抜けた顔も、可愛らしい。
しかし、彼女は匂うな。
牛はこんなにも臭かったか?
しばらく牛と共に暮らしていなかったから、鼻が牛の匂いを忘れているのだろう。
それに、美牛はかゆいのか片耳を動かして、もぞもぞしている。
「風呂に入るか?」と、尋ねたら、ブフンッと鼻息で返事をされた。嬉しいのだろう。
綺麗にしてやろう。
俺は風呂の準備に取りかかった。
牛を洗う。
かゆそうなところを慎重に見極め、気持ちよくさせてやる。
「モォォォ……(はー……最高)」
うっとりとした声で鳴かれ、俺も気分がいい。綺麗にすると、彼女の肌はよりいっそう輝いた。最高だ。
上機嫌で彼女の乳房も洗おうとしたら、激しく抵抗された。
「モオォォォッ! (お乳は結構です! なんか嫌です!)」
な ぜ だ
体の裏側もしっかり洗わないとダメだろう。
病気になるぞ?
必要なことだからと、説得したが、彼女は暴れるばかり。
「モオオオオ!(お嫁にいけなくなります!)」
そう涙目で叫ぶ姿に動揺する。
……彼女は発情期、なのか?
そういえば、部屋に入れるとき、後ろからマウントを取っても、少し暴れる程度で、俺にされるがままだったな……
彼女は俺を雄牛と勘違いしているのだろうか? 神の使いだから、人間を夫とみなすのか。
神様の考えることは分からないな……
だが、洗わねば彼女は病気になる。
俺は考えを巡らせ、言葉をかけた。
「じゃあ、俺がもらう。俺と家族になろう」
言いきった瞬間、祝福のベルが頭に鳴り響いた。
リンゴーン♪
おめでとう! おめでとう!
――あなたに家族ができるのね。おめでとう。
と、亡き牛の声が聞こえる。
――ははは! 牛を嫁にするとは、お前らしいな! 家族はいいぞ!
と、亡き義父の声が聞こえる。
なんだこれは。幻聴か?
はっと意識を戻すと、目を点にして、ぽたぽたとヨダレを垂らす彼女が見えた。ぽかんと口を開いた姿を見たら、フッと笑みがこぼれた。
牛が嫁なんて、あり得ない。
結婚証明書の記載はどうするんだ?
彼女のヒヅメで捺印すればよいのか?
……あり得ないだろう。
分かっているのに、リンゴーン♪ リンゴーン♪と、鐘の音が頭で鳴り響く。幻聴は鳴りやまない。
その音につられ、彼女に似合いそうなウェディングドレスを夢想してしまった。
派手な色は似合わないだろうな。
可愛らしい色は、彼女の白と黒のコントラストを引き立てない。
では、妖艶な紫か?
模様が透けるように、ドレスの裾をあしらえば、彼女に似合いそうだ。
――と、真剣に考えている自分に気づき、我に返った。
な ぜ そ う な る
リンゴーンの幻聴を聞いてから、どうもおかしい。彼女が理想の女性に見えてきた。
俺は軽く頭をふるい集中して、彼女を洗った。
彼女を洗い一息つく間もなく、彼女からとんでもない告白をされた。彼女は牛変幻の魔法を使った聖女だという。酔った勢いで、牛に変幻するなんて、彼女は義父みたいな人なのか?
彼女は一方的に解雇されて、今は聖女ではないと話をしてくれた。あまりに不愉快な話だったから、そいつを殺しに行こうか?と言ったが、彼女はそこまでしなくてよいと言う。
そんなクズ、庇う必要はないのな。
不満だったが、それ以上は何も言わなかった。
すると、彼女は突然、人間に戻ると宣言した。
「モオォォォ……(ルドラさん、私、人間に戻ります。そしたら、聖女の力を使えるようになります)」
驚いて、眼鏡が鼻先までずれた。眼鏡を直すことを忘れるほどの衝撃だ。
動揺で言葉を失っている間に、彼女は聖女不在を憂い、元に戻ると言い出した。
……彼女の牛乳を飲むことは、叶わないのか。
切ない思いが、胸をよぎる。
だが、彼女も牛より人が良いだろう。牛乳への渇望は胸に留め、彼女の変幻を見守った。彼女は目に闘志を宿し、詠唱する。
「モオォォォッ!(うしうしうっしっしー。モーモー★イリュージョン!)」
……聖女が言っていた通りだ。
確かに、詠唱は難解だな。
だが、美牛のままだ。
彼女も変化しないことが不思議なのか、きょとんとしている。
しかし、急に鼻息を荒くし、前足を踏ん張り、突進しそうな体勢になった。
「ブモッ! ブモオオオオオオオオオ!ブッ! ブモッ! ブッッ……!」
荒ぶりが酷い。興奮しているな。
一部の牛の発情期に見られる兆候だ。
それに、美牛のままだ。
「モオォォ……(戻りません……)」
そう悲しげに彼女は鳴いたが、牛変幻は禁呪。元に戻れなくても、しかたないものでは?
俺はひとまず彼女の発情を落ち着かせようと、あの言葉を口にした。
「元に戻れないなら、今のままでいい。家族になろう」
彼女の目が点になる。
あんぐりと口を開いて、落ち着いたようだ。ほっと胸を撫で下ろす反面、妙に心がざわついた。
――楽しい。
俺の言葉ひとつで、くるくる表情を変えるのが、新鮮だ。快感ですら、ある。
俺は心がうずくままに、彼女から名前を聞き出す。
「名前を聞いていなかった。君の名は?」
「モォォ?! (えっっ?!)」
「名前を教えて」
粘り強く尋ねると、観念したように彼女が鳴く。
「モォォォ……(アーシャ……です)」
「アーシャ……か。いい名前だ」
「モォォォ! (あ、あんまり呼ばないでください! なんか! こっぱずかしいです!)」
照れる彼女に、ゾクゾクした。もっと、可愛い声が聞きたい。
「なぜだ? 君はアーシャ、なんだろ?」
口の端を持ち上げて言うと、彼女は顎が外れそうなほど、口を開いた。ぽたぽたよだれが垂れる顔を見て、俺は喉を震わせて笑った。
こんなに笑ったのは、久しぶりだ。
楽しい。
元に戻れないのならば、俺のそばにいればいい。
もう、非力な俺ではない。
今なら彼女を守れるのだから。
アーシャのいる日々は、疲れた俺の心を癒すものだった。彼女も俺に心を許してくれたのか、撫でても嫌がられなくなった。くしでブラッシングしてやると、目がとろけてくれるまでになった。
「モォォォ……(はぁぁ……気持ちいいです……)」
可愛いことを言う。
「アーシャ、そんなにいいのか?」
「ブフンッ! (ちょっ! 耳元で囁かないでください!)」
そう言われると、ますます照れさせたくなるんだけどな。まぁ……やめておくか。警戒されて、触れさせてくれなかったら、寂しい。
アーシャに微笑みを返し、食事の時間にする。干し草は彼女のお気に入りだ。
「モォォォ! (この草、美味しい!)」
目を輝かせてムシャムシャ食べる姿は、愛くるしい。もっと、いいものを食べさせてやりたくなった。
熱心に彼女の世話をしながら、俺は自警団にも顔を出していた。
最近は、揉め事の愚痴を聞いてやるのが多いが、家に彼女がいると思うと、長く怨念のような不満を言われても、仕事だと割りきれた。前より、疲れも感じない。そんな俺を見て、自警団の仲間が驚愕の顔をした。
「ルドラ……お前、大丈夫か? ずっと微笑んでいるぞ?」
「そうか? いつも通りだが」
「いや、おかしい! お前が笑うなんて、団長が亡くなってから、見たことがない! 絶対におかしい!」
愛想がない方だとは思うが、そんな言い方はないだろう。
「別に普通だ」
そっけなく言ったのが、まずかったのか。家にアーシャがいることが、他の住民に知られてしまった。
俺の家に押しかけてきた男たちは、彼女は動物だから、食わせろと言う。おなかをすかせた子供たちの為だ、とも。気持ちは分かる。分かるが、俺にとって、牛は家族。愛し、慈しむべき存在だ。
最悪、魔法で脅して追い払おうかと考えていると、アーシャが家から出てしまった。
なぜだ。なんで、出てきた……!
思わず舌打ちしそうになる。彼女を睨むように見つめていると、彼女は毅然と、鳴いた。
「モオォォォッ (話は聞きました。私の乳を搾りなさい)」
信じられなくて、言葉を繰り返す。
「アーシャの、乳を、しぼるのか?」
ブフンッと、彼女が鼻息を出して荒ららぶる。
アーシャは肉になるよりも、牛乳を飲みなさいと言った。ブフンブフン。鼻息の荒らさから、彼女の必死さが伝わってくる。
聖女の牛乳は、回復効果が高いらしい。あの旨い飲み物に、回復までつくのか……それは、飲みたくなる。
俺は動揺したまま、男たちに説明した。
男たちは、ぽかーんと口を開いた。唖然とする気持ちは分かる。俺も驚いた。回復効果付きだものな。
しかし、彼女は照れ屋だ。
本当に乳を搾ってよいのかしつこく尋ねたが、彼女の意思は固い。
「モオオオオ! (ガッツリ搾ってください! 遠慮はいりません!)」
照れながらも乳を搾れと叫ぶ彼女に、ぞくり――と、心がざわめく。
タガが、外れた。
アーシャ。そんな無防備なことを言ってダメだ。
君は、どれほど俺が牛乳を欲していたのか、知らないだろう?
「わかった。鳴いても、やめないからな」
口を引き結んだ彼女から視線を外し、俺は桶を用意した。豊満な乳の下に桶を置く。樽も用意した。
はっと、息が漏れるほど、美しい乳房に手を伸ばした。今まで俺が洗い、磨きあげた薄桃色の乳頭を握ると、しっくりと手に馴染んだ。
な ん だ こ の 持 ち や す さ は
思わず強く握って、牛乳を搾り出してしまった。前搾りをして、乳の状態を見なければならないというのに、失態だ。
そんな俺の失敗すら彼女の乳は、寛容に受け入れる。勢いよく牛乳を出す。
くそっ。出がよすぎて、搾る手が止まらない。ジャバジャバ出る!
「モオオオ! (ル、ルドラさん! ちょっ! え? え? えぇ?! ストップ! 止まって~!)」
「……止められるわけないだろう」
「モオォ……! (なんですって……!)」
「アーシャ。……君は最高だ」
思わず微笑すると、彼女が鳴いた。
「モオォオオオォーーー!!!(目が笑っていませんよーーー!!!)」
つい、我を忘れて彼女に無理をさせてしまった。
魂が抜けた彼女の顔を見て、今更ながら罪悪感が込み上げてくる。
「アーシャ。大丈夫か?」
声をかけると、彼女は聖女らしく慈悲深い声で鳴いた。
「モォォォ……(えぇ、ガッツリ搾れと言ったのは私ですし……)…モォォォ……(へいき……なの……です……)」
「アーシャ……」
なんて健気なんだ。
「君の善意は、無駄にしない」
俺は樽いっぱいになった牛乳を皆に配った。牛乳の存在を知らない大人たちは、最初、訝しげに白色の飲み物を見ていた。警戒なく飲んだのは、子供たちだ。
「んくんくんく。すっごく美味しい!」
「おいちぃ……」
「もう、ないのー?」
「おかわりほしい!」
「右手に力がみなぎる……」
土色だった子供の顔色が、健康的になる。
それを見て、彼女を肉にしろと言った男がむせび泣いた。
「うぅっ……ルドラ、聖女様……ありがとう。ありがとうよ」
「お前も飲め。きっと、うまい」
牛乳が入ったカップを手渡すと、男は鼻水を垂らしながら飲みきった。
「うめえ。うめぇよお。こんなうめーの飲んだことねえ!……ありがてぇ……ありがてえな……」
男の肩をぽんと叩き、皆に牛乳を配り終えた。樽いっぱいの牛乳はあっという間になくなった。
俺の分の牛乳はない。樽の底にわずかな滴がある。もったいないな。俺は樽を持ち上げ、口を開いた。
一滴の牛乳が、舌の上に落ちる。
匂いはしない。
味もあまり感じない。
だが、最高の気分にさせてくれる雫だった。
「モォォォ?(ルドラさん……そんなにがっついて……牛乳が好きなんですか?)」
アーシャが鳴いたので、口元に笑みを浮かべた。
「好物だな……」
「モォォォ~…… (そう……だったんですか……) モォモォっ (なら、また搾っていいですよ?)」
な ん だ っ て
「アーシャ……いいのか?」
「モォォォ~! (ほ、ほら! 一回も百回も変わらないですし! 私、今、牛ですし!)」
なんて……健気な人なんだ。
牛でいるなんて、羞恥もあるだろうに。
いじらしい彼女の態度に、ふっと笑みが出た。
「なら、また搾らせてくれ。今度は、できうる限り、優しくする」
彼女はモォォと鳴きながら「……お、お手柔らかにお願いします」と言った。
次にいざ乳搾りをしようとしたとき、あまりに彼女が緊張していた。目が死んだ魚のようになっていて、俺を見ているようで見ていない。その姿を見て、前回は強く搾りすぎたと、反省した。
乳がジャバジャ出る快感を覚えた手がうずいたが、俺は彼女に微笑し「まずは食事にしよう」と話しかけた。
「モォォォ? (乳搾りをしなくていいんですか?)」
「今はしない。アーシャと食事をして、君にブラッシングしたい」
「モォモォ……(そうですか……ブラッシングは好きです……)」
「知っている。気持ち良さそうに鳴いているものな」
「ブフンっ!」
「君に触れられるから、俺も好きな時間だ」
「モォォォーー! (ごはん食べたいですーー!) モォオオオォーーー! ( モリモリ干し草を食べたいですーーー!)」
彼女が興奮して、鼻息を荒くする。照れているようだ。可愛いな。
俺は微笑し、彼女の好物の干し草を用意した。
照れ屋な彼女を気づかいながら、食事、風呂、ブラッシングをする。すると、彼女も俺に心を許してくれ、乳搾りをさせてくれるようになった。
緊張しないでいてくれるので、乳の出もよい。ジャバジャバ、ジャバジャバ出る。出の良さに、毎回、感動した。
アーシャがノッてくれると、牛乳の味はまろやさを増す。至福の一杯を喉に流すと、笑みがこぼれた。ささくれだった心が、癒される。
アーシャの牛乳を搾っていると、突如、ぼろぼろの神官がやってきた。彼を見た瞬間、今までジャバジャバ出ていたアーシャの乳が止まった。訝しく思いながら、神官を見ると、彼はアーシャを口汚く罵る。
唾を飛ばし、嘲笑う姿を見て、彼がアーシャを一方的に解雇した人物だと察した。
「ははは! それにしても牛になって乳搾りされているとはな! 傑作だ! 無様な姿だなぁ? あの臭い匂いの飲み物を作り出しているなんてな!」
何故、彼女のことが分かったのか不明だ。
しかし、俺たちの為に牛乳を出し、辺境を救おうとする彼女を貶める者は、何人たりとも許さない。
殺さなくても、息さえあれば、いいんだろ?
暗い思考に落ちかけたとき、彼女が吼えた。
「ブモオオオオ!!! (牛乳を馬鹿にするなぁぁ! 小さい子供が飲んでくれたんだよ! 美味しい美味しいって、笑顔になってくれた! そんな人の思いを、踏みにじるな! それに! 聖女の牛乳は、無臭だあああぁぁああ!!!)
突進する彼女を神官に防御魔法で防ぐ。俺は狙いを定め、詠唱した。
「紅蓮の炎で焼き祓え! メラルガ!」
赤き炎は防御壁に守られ、神官の頭を焼く。彼の頭部は、焼け野原となった。
「ちっ。ハゲにしただけか」
思わず舌打ちが出たが、神官は「私の毛がぁぁああ!!!」と叫び、パニックになる。ならばと、奴の毛を一本残らず消滅するため、火魔法を繰り返す、
「ブモォォォオー! (もう二度と、ここには来るなー!)」
彼女が神官に体当たりすると、神官はひーこら言いながら、去っていった。
正直言えば、毛を抜くだけでなく、もっとこらしめてやりたかった。
でも、彼女が「ルドラさんの一撃で、私はスカッとしました!」と鳴くので。
彼女の肌を優しく撫でながら、納得することにした。 俺の手に頭をこすりつけるアーシャに愛しさが込み上げる。
あたたかい。生きている。
その事実が胸をかきむしるほど、かけがえなく感じた。
神官が去って、数日後、突如、王妃殿下が村を視察にこられるという話が舞い込んできた。このような辺境にまで、足を運ばれるとは前代未聞だ!と、村長は発狂していたが、王妃殿下に挨拶をした時は、十歳くらい老けた顔になって微笑していた。
ハゲさせた神官には、罰が下されるそうだ。当然だ。牢獄で、もがき、苦しめばいい。
王妃殿下はアーシャに聖女の復帰を言い渡され、彼女もそれを望んだ。つまり、彼女は村に留まるということだ。
それを聞いた時、例えようのない喜びが胸に広がった。
王妃殿下は、牛変幻したまま戻れなくなったアーシャが人に戻れる魔石も置いていってくれた。それを彼女の代わりに手にした瞬間。
リンゴーン♪
鐘の音が頭で響いた。
彼女が人に戻れれば、結婚証明書が書ける。ヒヅメで捺印ではなくなる。公然と、俺は彼女のものだ!と言える。
――最高だ。
と、思った瞬間、理性なんてものは、吹き飛んだ。牛のままの方が食糧難に立ち向かえると、元に戻るのをしぶる彼女を説き伏せる。
たっぷり搾って、牛乳を保存しておけばいいだろ?
素直な彼女は、いい案ですねと賛同してくれた。その可愛い声を聞いたら、手が疼いた。乳がジャバジャバ出る快感をおぼえた手が言うことをきくわけない。あの快感をもう一度。
そう思いながら笑みを深めると、アーシャが後ずさった。――だが、逃がさない。搾り取らせてもらう。
「モォォォオオォ!(くぁwせdrftgyふじこlp!)」
鳴き声をあげる彼女に微笑みながら、俺は乳を搾れるだけ搾った。
彼女の乳を搾ることに熱中し、貯蔵の樽を増やしていくと、都市から牛を引き連れて、視察団がやってきた。
聖女が変幻しているのか?と、疑ったが、動物の牛だった。
王宮に飼われていた牛を解放する施策を行っているということだ。市民に牛を。牛と共に歩んできた俺にとっては、最上の策に見えた。牛がいれば、食べるものには困らない。
彼女は都市の聖女たちが、元気に過ごしているようで安堵していた。そういう優しいところも、好きだ。嫁にしたい。
牛が来て、彼女が牛でいる必要がなくなったのか、彼女は「人に戻ります!」とふいに宣言。唐突な言葉に、驚き、言葉を失った。
彼女は魔石を額にのせて「モー!」と鳴く。魔石は神々しく光り輝き、彼女の全身をつつむ。
白黒だった肌は、人の色へ。
つぶらな瞳は、睫にふちどられ、つぶらなまま。
ぽたぽたヨダレを垂らしていた口元は、あつぼったい唇が魅惑的だった。
彼女の胸元に視線を落とし、ふっと笑みが出た。俺好みの大きさだ。
「わっ わっ 戻った……」
一糸纏わぬ姿でいるのに、彼女は自分の姿を物珍しそうに眺める。長く服を着ていなかったからな。裸体でいるのに羞恥が薄いのだろう。そんな彼女も可愛く思える。
彼女は律儀に俺に対しての礼を言う。その控えな態度も、好きだ。
「可憐だ……」
上着を脱いで、彼女の肩にかける。
「やはり、君は美しい人だったんだな。人の姿も可愛らしい」
戸惑う彼女に視線を合わせ、顎をくいっと持ち上げる。
「もう、アーシャのいない生活は考えられないんだ。俺と家族になろう」
彼女は頬をピンク色に染めて、こくんと頷いてくれた。
リンゴーン♪
幻聴でしかなかった鐘の音も本物になるだろう。
俺は彼女の額にのったままだった魔石を指でつまみ取り、代わりにキスを捧げた。
結婚式は村をあげての大騒ぎだった。彼女はとても驚いていたようだが、育ての親と再会したときは、楽しそうだった。
ただ、誓いのキスのときは、化粧した彼女の唇に興奮してしまい
「教会が始まって以来の最長記録です」
と、言われ神父に祈りを捧げられるほど、長く彼女の息をむさぼっていた。
*
「義父さん……今年のチーズの出来はいいですよ。酒をまぶしたことで、また違う味わいになりました。酒のつまみにしてください」
俺は小さな酒瓶、グラスを二つと、チーズを二切れを墓標に添えた。
彼女と結婚して数年、村では牛が増えて、牛乳の他にチーズ作りが盛んになっている。
乳の出が悪いときは、妻が牛に変幻して、牛の気持ちを聞いてくれる。牛たちの体調管理がしやすく、極上のミルクがとれた。
飢えをしのぐために、保存食としてのチーズ作りも盛んになった。彼女の牛乳は魔力そのもので、液体が変化するものではなかったが、動物の牛ならばチーズを作れる。
俺は知らなかったが、チーズといえば山羊のミルクで作るものだったそうだ。それを牛乳で作るとまた違った味わいになり、都市の富裕層に好まれるようにまでなった。
俺は自警団に入りつつ、牛の世話をしている。義父がくれた騎士服に袖を通す機会は少なくなったが、きっと許してくれるだろう。
「最愛の人と、楽しい一時を」
墓標に呟き、立ち上がると、強い風が俺の頭を通りすぎた。ひとつに結っていた髪が、風にふかれ、乱れる。
――ははは! ルドラ! 今年もいい酒とつまみをありがとよ! ルーシャと飲むな!
義父の笑い声が風にのって、聞こえたような気がした。それに目を細め、俺は、俺の最愛の人の元へ向かった。
家に近づくと、息子のはしゃぐ声と、妻のあたふたとした声が聞こえた。変わらぬ幸せな光景を横目に、ポストに目を向ける。手紙が入っていた。
差出人は、教会のせいで、なくなく去っていた聖女だ。都市に戻った彼女は、上司と揉めに揉めて、結局は聖女を引退したそうだ。
「話を聞かないクズの元にいたら、私が病む!」と、鼻息荒く言っていた。
それを俺が知っているのは、彼女は再び、辺境に来てくれたからだ。アーシャが牛になった噂を都市で聞きつけた彼女は、真っ黒なローブを目深にかぶり、いかにも怪しい格好で、辺境を訪れた。
木の影からじっと村を見ていたのを、俺が見つけたのだ。見つけやすかった。
「今さら、みなさんに合わせる顔がないから……」と言ったが、俺は彼女が残してくれたチーズのレシピが気になっていて、詳しい話を聞いた。
レシピがやぶり捨てられたことを言うと、彼女は悲しげに呟いた。
「……そうですか。無理もありません。私、突然、いなくなりましたからね」
「教会に脅されていたのだろう。あなたは辺境をずっと診てくれていた。責められない」
「くっ……美形が美形台詞を言うようになったわね……」
「それで、チーズとは一体、なんだ?」
「あぁ……あなたは知らなかったのね。チーズは牛乳から作られる保存食よ。おいしいのよ。酒のつまみにもなるし」
「酒のつまみ……」
彼女の故郷では祖母の代から、チーズ作りが盛んだったそうだ。家、それぞれに違うレシピのチーズがあり、食卓を彩っていたらしい。
牛乳に熱を加え、レモンの果汁を入れると固まるそうだ。
「不思議だな。魔法みたいだ」
「ふふ、そうね。チーズは食べ物が取れない冬には貴重なものだったわ。……この土地にも広めておけばよかった。聖女の回復魔法があるからって、過信した私はバカね……」
「そんなことはない。あなたは、よくやってくれていた。レシピを失くしたのは、俺の落ち度だ」
「くっっ……美形台詞を吐くスーパーダーリンになって……!」
「? 王妃殿下のはからいで、動物の牛が来たんだ。牛乳でチーズを作れば……さらに豊かになりそうだな……皆を説得する。付いてきてくれ」
「ちょっっ! 急に手首をつかんで引っ張るなんて、美形な上に強引キャラ属性付きなの?! わりと、好きよ! そういうの!」
喚く聖女の手を引いて、村の皆に合わせた。彼女が残したレシピを説明して、最後に付け加えた。
「彼女は聖女として勤めを果たしてくれた。今も尚、彼女はこの村を思っている。その献身に俺は報いたい。彼女に対して、文句がある奴は俺に言え」
きっぱり言うと、聖女が感極まって叫んだ。
「あなた、どんだけ美形台詞を吐き出すの! そろそろ、おばちゃん、倒れるわよ! 」
妻が聖女の言葉に酷く頷いていたのが、気になったが、彼女には対して嫌みを言う奴はいなくなった。
彼女は故郷のチーズ作りを伝授すると、出来たチーズを手に取り「ちょっと、売ってくる! 」と、言い残して、去っていった。
彼女は辺境から足が遠のいていた商人を捕まえて、牛のチーズ販売に尽力してくれた。
二人の力で、村のチーズは都市に広まったのだ。商人は「ルドラしゃん! チーズしゅごい! めっちゃ売れます!」と興奮していた。
村にも金が入り、学校もできた。聖女には感謝している。またチーズの販売の話しか? と、思っていたら、そうだった。彼女は故郷の山羊のチーズ販売も熱心にしているそうだ。
――家族で都市に遊びに来てね。
と、しめくられた手紙を読み終え、懐にしまう。手土産は、チーズがいいかな、と考えながら。
顔をあげると、牛のとき、彼女を洗っていた桶に入り、水浴びを楽しむ息子がいた。水がバシャバシャと跳ねるので、妻の服も濡れ、肌色が透けていた。それを見たら、欲が込み上げた。あの快感を、再び――と、思うのはしかたのないことだろう?
「ただいま、アーシャ」
「おかえりなさい」
まぶしい笑みを見つめ、腰をぐいっと引き寄せる。
「アーシャが恋しいんだ。そろそろ、俺も構ってくれ」
耳を甘噛みすると、妻は腰に力が入らなくなった。彼女、耳が弱いからな。
「もー、不意打ちでそんなこと言わないでくださいっ」
恥じらう妻を横抱きにする。息子の元へ近づきながら、そっと呟くように言う。
「……久しぶりに、アーシャを搾りたいな」
「ぶっっ?! ……それは……えっと、あの……どっちで?」
「君が許してくれる方で」
そう言うと、彼女は首まで真っ赤になった。魅惑的な唇が、プルプル震えている。
そんな愛しい姿を目に焼き付けながら。
今夜は彼女の期待に答えようと、心に決めた。
翌朝。
「もー! 寝坊したー! 」
あたふたする妻に朝食用のチーズをふるまった。そのチーズは、今年一番の出来と言われるものだ。
チーズを頬張る彼女は、干し草をうまいと言っているみたいに目が輝いていた。その顔が愛らしくて、目を細めた。
こんな日々が続けばいい。
長く、長く、年老いて。
死がふたりを分かつまで。
ずっと、共に。
彼女は俺の運命なのだから。
END
聖女視点の短編で、美形眼鏡のことを気にかけてくださった方に、この話を捧げます。ヤバいのができたような気がします。楽しんでもらえたら、嬉しいです。
楽しんで頂けた分だけ、★応援をしてもらえると嬉しいです。