神様のカメラ
短い間ですが、お付き合いください。
生まれ持った加虐心、純粋な悪意、僕は性善説を否定するために生まれてきたのかもしれない。
二歳の時、僕はいたずらを覚えた。家族にかまって欲しいだとか、好奇心だとかそういった感情からではなく、ただ人の嫌がる姿、困る姿が見たいがためだけに、僕はいたずらを遂行した。母親が大切にしていた結婚指輪をトイレに流したのだ。その日の晩、「仕方ないわ、子供がやったことだから」と、父親に嘆く母親の表情は印象的で、十年以上たった今でも、脳裏に焼き付いている。とても忘れることはできない、傷つき嘆く母親の姿は、美しかったから。
午後の授業は憂鬱だ。憂鬱で退屈で面倒だ。しかし、そういった低俗な感情は友達のようなもので、僕のすぐそばにずっと付き纏っている。こんな時は、人が苦しんだり、泣きわめいたり、困惑している姿を思い浮かべる。それだけで、僕の心は洗われていく。ただ、汚物を泥水で流しているだけなのだが。しかし、今日はいつになく朗らかな午後だった。その理由はこれ、昨日の放課後、僕のマンションのゴミ捨て場から拾ってきた古いポラロイドカメラ。この不思議なカメラは、神様が僕にくれたプレゼントだ。
僕は昼休みの喧騒に紛れながらカメラのストロボを開き、教室に入ろうとする教師へピントを合わせた。教師が教壇に立ち、生徒の話し声が収まる前にシャッターを切った。号令が終わり全員が着席した後、カメラから出てきたフィルムを手に取る。普通のカメラであれば、現像が完了するまでは真っ黒なままなはずのフィルムに模様が浮かび上がってくる。
長細い廊下、林立するドア、薄暗い照明。どうやらここはどこかのホテルのようだ。一つのドアへ視点が移る。ゆっくりと開いたドアの向こう側には、ベッドの上で裸で抱き合う男女の姿。男の方は、今授業をしている数学の林先生。女の方は、古文の中山先生だ。林先生は二年前に結婚しているが、その相手は中山先生ではない。つまり、これは不倫現場だ。数秒ほどして、フィルムには先ほど撮った林先生の本来の写真が浮かび上がってきた。
僕は先ほど見た光景を反芻しながら、クラスの誰にも見えないように、口元に卑しい笑みを浮かべた。握った弱みにどうやってつけこもうか、想像するだけでワクワクが止まらなかった。
気が付けば授業の終わりを告げるチャイムが鳴っていた。
授業後の号令の後、遠くの席に座っていたヒナが近づいてきて、
「ねぇ、裕太、授業が始まる前、下の方を見てニヤニヤしていたでしょ、何見てたの?」
といった。しまった、まさか見られているとは思わなかった。
「なんでもないよ、思い出し笑いしてただけ」
内心、焦っていたが仮に写真を見られたとしても、今となってはただの写真なのだ。問題はない。
「それはそれで、気持ち悪いんですけど」
そう言って、ヒナは笑っていた。
僕とヒナは幼馴染で、家が近く小さいころからよく遊んでいた。そして、物心ついたころからずっと、僕はヒナに片思いをしている。子供は好きな人に対して、相手に気を引くためわざと相手を傷つけると言うが、僕に関しては全く逆で、ヒナにだけはいたずらも、悪巧みもできず、暴言どころか嘘さえ吐いたことが無かった。それ故に、巡り合った誰からもすぐに嫌われてしまう僕と、唯一まともに会話をしてくれる相手だった。
話は変わるが、ドアは内部空間と外部空間を遮断し、望まない人や物の侵入を阻む機能を持つ。誰にだって周りに知られたくない隠し事の一つや二つは抱えているだろう。このカメラはそのレンズに写した人間の心の扉を開き、その人が抱えた秘密を写真に写し出す。
カメラをゴミ捨て場で見つけた時、物珍しさについ手を伸ばしていた。年季が入っていたが、外見上は故障どころか傷一つないように思えた。僕は、部屋に持ち帰り、試しにカメラで写真を撮ってみることにした。特に理由はなかったが、他に取るようなものを思いつかなかったので、鏡に映った自分の姿を撮ることにした。捨てられていたのだから、どこか故障していて使えないだろう、そう思っていた。しかし、僕の考えとは裏腹に、シャッターを押したカメラは動き出し、一枚のフィルムを吐き出した。現像まで時間がかかるはずのフィルムに、すでに何かが写っていた。
しかし、それは自分の姿ではなく、見慣れた自室のドアだった。なぜ、僕ではなくドアの写真が写ったのだろう。と、恐怖を感じたが次の瞬間にはさらなる衝撃で恐怖は吹き飛んだ。眺めていた写真の中のドアが動き出し、ゆっくりと開いていたのだ。驚愕する僕をよそめに、視点は部屋の中へ移動していった。それから、さらに写真は移り変わり、最終的に僕の机の引き出しの中にあった一枚の写真に辿り着いた。
その写真は中学の卒業式の日にヒナと二人で撮った写真で、僕が高校三年生になった今でも大切にしている宝物だった。
それから数秒後、写真には鏡に映った僕がいた。
一体どうして、写真は僕に先ほどの光景を顕示したのだろうか。僕は、これまでに夥しい悪事を働いてきたので、人に話すことを憚られる事件も多数ある。だけど、どの事件よりも心の内に秘めていたのはヒナへの思いだった。いや、だからこそなのか。雷に打たれたように僕の頭に突拍子もない考えが浮かんできた。
僕は、カメラを片手にマンションから出て、しばらく住宅街を彷徨った。そして、いかにも怪しい雰囲気を醸し出した一人の成人男性を見つけた。丁度いい被写体が見つかったと、勢いよくシャッターを押した。
すると、カメラが吐き出すフィルムに写ったのは、とあるマンションのベランダへ繋がる窓だった。そして、男がベランダに干してある下着を盗んでいる様子を一部始終確認することができた。僕はすぐさま交番へ駆け込み、怪しい人物を見かけたと警官を男のもとへと連れて行った、警官が男のリュックを点検すると、中からは女性ものの下着が出てきたのだ。そして、僕は確信した。このカメラは人の秘密を写し出すカメラなのだと。
二週間後、林先生と中山先生は学校を辞めていった。周りの皆が、駆け落ちだの、不倫だの騒いでいる中、僕は一人心の中で歓声を上げていた。
僕はこの二週間ずっと、クラスメイト、先生、同じマンションの住人、コンビニの店員、すれ違う人々と、誰彼構わず写真を撮りまくっていた。目に映るあらゆる人間を、嵌めて、脅して、貶めて、騙して、唆して、誑かした。その過程で、僕は世界が思っていたよりも粘着質で不清潔で悪質で不平等なものだと知った。
それは、僕のような生まれつきの悪党が存在していても不思議ではないと確信するほどに。自分こそが本当の正義なのだと勘違いするほどに。
ただ一つだけ、これだけ大勢の人物をカメラに写してきたというのに、フィルムが尽きる気配が感じられないのは疑問だったが、疑問を解消する暇もないほどにこの日々は充実感に包まれていた。
その日の帰り道だった。僕はヒナと一緒に帰宅していた。
「林先生と中山先生の事なんだけどさ、みんな駆け落ちしたんだって噂してるよ」
僕は、必死に笑いを抑えていたが、どうやら隠しきれていなかったようで、
「何笑ってんの?もしかして、裕太。この件に関わってるんじゃないでしょうね?」
とヒナがいった。
「さぁね、どうして僕が林先生と中山先生が不倫していただなんて分かるんだい?不倫現場を見たわけでもないんだし?」
と、誤魔化したがこれ以上ヒナの追及を逃れられそうにはなかった。僕は、ヒナに嘘をつこうとすると、どこかしどろもどろになってしまうのだった。
「まぁ、いいけど。いたずらばっかりしていたら、大人になれないよ」
「そうだよな」
そう言ったものの、この性格を治さなければ大人になれないというのなら、僕は一生大人になどなれないのだろう。生まれ持った性格を変えることなど無理な話なのだから。
その時ふと、僕に魔が差した。24時間ずっと魔が差しっぱなしで、魔を遮るカーテンなど持ち合わせていない僕が、その言葉を使うのは正しくないのかもしれないが、僕の頭には史上最低に素晴らしいアイデアが浮かんできたのだ。
それは、このカメラでヒナの写真を撮れば、秘密を武器にヒナを自分のものにできるかもしれないというものだった。そのどうしようもないアイデアには、自分でも呆れ気持ち悪いと感じるほどだったが、カメラの万能感に侵されていた僕は、その時の衝動を自制することができなかった。
僕たち二人は、帰り道にある高台の公園に行った。僕たちは、木でできた柵を隔てた先にある景色に二人して見入っていた。
「夕焼けが奇麗だね」
とヒナが呟いた。
「そうだ、せっかくだから、奇麗な景色をバックにヒナの写真を撮ってあげるよ」
と、僕はヒナにそういった。心の中で計画が順調に運んでいるとほくそ笑みながら、初めて行うヒナに対する悪だくみに、いつになく緊張していた。
「はい、チーズ」
僕は、手に汗握りながらシャッターを切った。そして、カメラはフィルムを吐き出した。
「どんな写真が撮れたか、みせてよ」
ヒナが写真を確認しようと近くに寄ってきた。
「ちょっと待って、この写真は現像までに少し時間がかかるから、そこのベンチで座って待ってなよ。柵のそばで乾かしてくるから」
そういって、僕は写真がヒナにばれないように、ヒナを近くのベンチに座らせた後、ヒナがついさっきまで立っていた柵を背もたれにして、フィルムを覗いた。
まず、フィルムに写ったのは、木製の見覚えのあるドアだった。それは、中学生のころに一度訪れたことのあるヒナの部屋のドアだと分かった。ドアはゆっくりと開き、視点は室内に移動していく。女の子らしいヒナの部屋で、壁際に位置する勉強机へと順に移り変わる。そして、最終的にフィルムが写したのは机の引き出しの中にあった一枚の写真。それは、僕とヒナが卒業式に撮った、あの写真だった。
まさか、まさかヒナも……。僕は衝撃のあまり後ろに身を引いていた。その時、僕が背中を預けていた木の柵がミシミシと嫌な音を立て、崩れていった。木の柵は老朽化してボロが来ていたのだ。僕は為す術もなく宙に飛び出した。柵の向こうは急な崖になっており、崖の二十メートル下方には道路が通っている。つまり、僕の行くところは一つだけだ。
そして、僕はすべてを悟った。ポラロイドカメラのフィルムは僕の命だった。永久機関などない、原因を伴わない結果など存在しない。永遠に使えるフィルムは幻想で、僕は図らずも対価を支払っていた。カメラで誰かを写し、秘密を知る度に僕自身の寿命は短くなっていたのだ。神様のカメラなんてお門違いで、それは悪魔のカメラと呼んだほうが相応しいだろう。
高台から落ちて行く中、僕はヒナの事を考えていた。目の前で人が死ぬ。そんな経験をすれば、純粋なヒナの心にひびが入るかもしれない。恥知らずにも程があるが、そう思うと僕の胸はキリキリと痛んだ。
だが、それでもいい、後悔などしていない。たとえ自分の命を削ってでも誰かを傷つける。それが僕の本懐であり、生き様だったのだから。
あぁ、だけど、死ぬ前に一つだけ戯言を言わせてほしい。
このカメラで最初に写すのが君であれば良かったと。
そして、僕はもう一度手元の写真を眺めた。遠くに青く茂る山々、山間からにじみ出る鮮やかな夕焼け。そして、そんな風景を背に屈託のない満面の笑みを浮かべる君の姿。それは、とても美しかった。
ありがとうございました。
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