第58話「勇気」
頬に、ざらついた冷たい何かが当たっている。氷ではない。
ビオレはゆっくりと目を開けた。
世界が傾いている。うつ伏せになって寝ていたらしい。
意識が覚醒していくにつれ、記憶が呼び覚まされる。
そして牡牛の叫び声を思い出した瞬間、目を見開き、立ち上がろうと両手を動かした。
「っ!!?」
鋭い痛みが全身に走った。明らかに異常な痛みが、右肩から来ていた。
押さえると、肩の位置がずれていることに気づく。
肩を上げることができない。辛うじて指先が動く、といった具合だ。
脱臼している。
これでは弓が使えない。回復魔法など使えないし、脱臼の治し方など知らない。
考えうる限り、最悪の状態に陥っていることを、ビオレは理解した。
絶望していたその時、隣にカルミンが倒れていることに気づく。腹部が動いているのを見る限り、生きているらしい。
「……ちょっと、起きて」
動く左手で相手の肩を揺する。
相手は唸り、薄目を開けてビオレを見た。
寝ぼけ眼だったのが、徐々に怯えに染まりながら見開かれていく。
「ひぃっ!!!」
カルミンは悲鳴を上げて飛びのいた。
「待って!」
「あぁあ!! ごめんなさい! ごめんなさいぃ!!」
「落ち着いて! 大丈夫だから、誰もあなたを傷つけないから!」
カルミンは荒い呼吸を繰り返しながらも、悲鳴を上げず、潤んだ瞳をかっと見開いている。
「落ち着いた?」
聞くと、カルミンはゆっくりと領きを返した。心なしか、呼吸も穏やかになっている。
一息ついて、ビオレは肩を押さえながら立ち上がり、周囲を見渡す。
「出口探したいけど……明かりが欲しいな」
肩の痛みが増している。痛みで顔を歪ませながらも、脳味噌を働かせる。
薄暗い。広さや内装がわからない。どこかの部屋だろうか。夜目が多少きくビオレ
でさえ、ほとんど周囲が見えない。
それに、さきほどからずっと漂っている、この臭いはなんだ。
とりあえず明かりを探そうとして、あることに気づく。
「カルミン」
「ふえ……?」
茫然自失といった状態で座り込んでいたカルミンは顔を上げる。
「ランタンに火をつけて。そしたら、一緒に出口をさがそ? ね?」
「あ……う……」
カルミンは言われるがまま、震える手で腰にあったランタンに火を点けた。どうやら壊れていなかったらしい。
ランタンの芯に明かりが灯る。優しい橙色の光を見て、ふたりはほっとした。
そしてビオレは周囲を見渡し、驚愕の表情を浮かべた。
カルミンも周囲の景色を見て、恐れるように歯を鳴らした。
「ひっ! あ、あああ……!!」
カルミンの悲鳴と共にランタンが落ちる音が反響する。
周囲には無数の骨と血肉が散らばっていた。人骨やモンスタ一の骨が散乱し、全部がぬらぬらとした液体で濡れていた。肉が付着した状態で放置されている骨もある。
さきほどから感じていた臭いは、この死肉とべたつく液体の臭いだった。
液体の正体は涎だと、ビオレは勘づいた。
ここは、あの雄牛の食糧庫だ。
カルミンは絶望に染まった悲鳴を上げ、頭を抱えて蹲る。
ビオレは、痛みと恐怖で、気を失いかけていた。
★★★
大剣がリビングデッドの体を貫く。魔力によって補強された大剣は、死者をも屠れる威力を誇る。
道が狭いため、大剣の攻撃範囲は限られているが、ベルクートの炎がゾディアックを援護する。
斬られ、燃やされ、灰となったリビングデッドを蹴飛ばし、ふたりはダンジョンの中を駆けていく。
「どんだけこのダンジョンで死んでんだよ!!」
ベルクートが苛立ちを隠さない声で言った。
リビングデッドの数が多いということは、それだけここで命を落としたものが多いということだ。
まさかこれほどまでに危険なダンジョンが、駆け出し(ランク・パール)に与えられていたとは。
ゾディアックは歯嚙みし、死者たちを一掃しながら走り続ける。
そして、地下へと続く階段を見つけた。
「地下か? さっさと行こうぜ」
進言するも、ゾディアックは立ち止まったままだった。
「どうしたよ」
「マズいな」
「あ?」
「ベル、階段の先に何が見える?」
ベルクートは首を傾げて階段を覗き込む。
薄暗かったが、紫色の床が見えた。
「趣味悪いタイルだな。これがどう……」
ベルクートは言葉を止め、眼球に魔力を流し、もう一度階段の先を見る。
床が黄色に変わり、膨大な魔力が、床一面に流れているのが見えた。
「うぉ!」
たまらず後ずさりし、目をこすってしまう。
「気持り悪ぃ。これ、内部構造が変化するダンジョンでよく使われてる魔法じゃねぇか」
「ディアブロ族……たしか、"ドワーフ”という種族が作った、古の建物だな」
ベルクートは頷きを返した。
「ああ、俺も昔、攻略したことがあるからよく知ってるよ。仲間が遭難して大勢死んだ」
「……ビオレも、この先にいるのか」
ゾディアックは階段を睨む。
むやみに下がれば迷路に閉ざされる。
運よく先に進めても、ビオレがいる場所にたどりつけないかもしれない。
「……ベル」
「どした」
「上か下か、どっちだと思う?」
「何がよ」
「ビオレがいる方だ」
ベルクートは考えずに、顎で階段を指した。
「そりゃ下だろうが。大仕掛けがあるのに、上にいたらおかしいだろ」
「だよな」
ゾディアックは階段に背を向け、剣を掲げる。
運が悪ければ、上手くいかない策だが、馬鹿正直に進んでいたのでは時間が足りない。
「何してんの、お前?」
問いかけに答えるように、剣に魔力を流す。
紫色の煙を纏う剣を見て、ベルクートは察した。
「ちょっと待」
「行くぞ」
ゾディアックは両手を握り絞め、剣を振り下ろした。
床に刀身がめりこみ、足場が崩壊する。
「このまま落ち続ける!」
「お前そういうのは一声かけてからやれやぁ!!」
怒気が混ざる叫び声を上げるベルクートを無視し、ゾディアックは落下しながら再び剣を振り上げ、床を砕いた。
★★★
出口らしきものは、あるにはある。
奥に、大きな扉が見えてはいる。
だが周囲の残骸と瓦礫のせいで、そこに行くことは叶わない。行けたとしても、開く保証がない。
最後の望みであったアンバーシェルは、魔力を流しても反応しなかった。どうやら壊れてしまったらしい。
「もう終わりよ……こんなことになるなんて……」
ランタンの光を見ながら、ブツブツと呟き、両膝を抱えているカルミンをよそに、ビオレは床に落ちていた弓を拾った。
友とも呼べる武器は、ビオレが持つと、朱色の光を放った。
諦めるなと言っているようだった。
その力強い光に、ビオレは領きを返す。
その時、ズズン、という音と共に部屋全体が揺れた。
ふたりは慌てて周囲を見波す。
「な、なに!?」
カルミンが悲鳴に近い声を発した。直後、部屋に轟音が鳴り響いた。
扉が開き、次いでさきほどの巨大な雄牛が姿を見せ、鋭い眼光がランタンの光を捉えた。
「明かりを消して!!」
ビオレはカルミンに言った。だが、もう遅かった。
雄牛が雄叫びを上げる。部屋が揺れ動くような錯覚に陥り、足がすくみそうになる。
両刃の斧を持った牡牛がゆっくりと迫り来る。餌を相手にしているような物であり、脅威など微塵も感じていない足取りだった。
チャンスだと、ビオレは思った。
歯を食いしばりカルミンの前に立つ。雄牛が残骸を退けながら近づいてくる。
「……ランタンの光を消したら出口に向かって走って」
ビオレは後ろを見ずに言った。カルミンが怯えた目で小さな背を見つめた。
「え?」
「わたしがちょっとだけでも囮になるから、走って逃げて」
「む、無理……無理だよ……」
「無理じゃない。だって私たちは、ガーディアンでしょ?」
不思議と恐れはなかった。
ビオレは口から長い息を吐き出す。
「な、なんで? なんで、私のために……? 私、あなたのこと、殺そうとしたんだよ?」
カルミンは自分を守ろうとしているビオレに問いかけた。
「知ってるよ」
サラッと答え、ため息をつく。
「本当最悪だよ。そんな感じはしてたけどさ。言っておくけど、あなたを許す気なんて全然ないから。本当は見捨てて逃げたいよ」
ビオレはカルミンを見る。
「けどさ、ここで見捨てて逃げたら、私、お父さんにもマスターにも怒られちゃう」
恐怖で泣き崩れそうな顔に無理やり笑みを浮かべ、言葉を続ける。
「それに、嫌な人も守ってこそ、ガーディアンでしょ」
視線をモンスターに向ける。弓はもう使えない。
ビオレは弓を肩にかけ、腰に装備していた護身用の銀のダガーを取り出し、切先を向ける。こんなものでは太刀打ちできないことはわかっていた。
それでも、立ち向かわなければならないのだ。
父の教えが脳裏をよぎった。
その言葉を、魔法の詠唱のように呟く。
「逃げるより、立ち向かう方が、怖くない」
ビオレの心に、蛍火ほどの、勇気という名の炎が灯った。
牡牛が気合を入れるような雄叫びを放ち、片手に持った斧を振り上げる。
ビオレは声を上げた。今まで上げたこともない絶叫に近い咆哮。
力の差は歴然である。それでも最後まで抵抗しようと、ビオレは敵を睨み続けた。
その時。
牡牛の真上にある天井が砕け、瓦礫が降り注いだ。
ビオレと牡牛は突然のことに顔を上げる。
瓦礫の中に、黒い影が紛れていることに、ビオレは気付く。
刹那、紫色の光が、牡牛の顔を引き裂いた。
痛みに苦しむ声を上げ、牡牛は斧を持っていない方の手を顔に押し付け、後ろに下がった。
間合いが生じ、ビオレの前にふたりの影が降り立つ。
漆黒の鎧に、緑髪のコート姿。
その後ろ姿を見て、ビオレは瞳から涙をこぼしながら、安堵の笑みを浮かべた。
「よぉ、嬢ちゃん。生きてたか」
ベルクートが白い歯を見せビオレを見た。
ゾディアックは何も言わず、ビオレに視線も向けない。
ただ黙って、顔から血を流している牡牛を睨み続けていた。
「よくも、俺の大切な仲間を傷つけてくれたな」
小さく呟き、大剣を構える。
「覚悟はいいな……!」
ゾディアックの怒りに満ちた声が、部屋に木霊した。
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