第209話「過去-暗黒、海と雲-」
「いいのか、黒江。お前まで一緒に逃げて」
朽ちた寺の中に紅葉の声が響く。ふたりはあれから街には戻らず山を移動しながら逃亡していた。
紅葉の手には虚現刀が握られている。消えていたのが嘘のように存在感を放っている。
できることなら放り捨てたかったが、本能かそれとも呪詛か。手が離せなかった。
「私は構いませんよ」
壁に空いた穴から外を警戒していた黒江は声だけを向けた。明るい声だった。無理をしていることは明白だった。
「本音を言うと、私は紅葉様に惹かれてここにいるので。私の主は善乃様よりも紅葉様です」
「……黒江。今すぐこの刀持って行け。それか俺の首ごと持って行ってもいい」
黒江は驚いた表情で紅葉を見た。
「なぜですか!?」
「突然のことだったから逃げちまったが、冷静になってみると生きている意味が俺にはない。だからさ、お前だけでも生きて優雅に生きてくれれば」
黒江は立ち上がって紅葉に近づく。
「嫌です」
「黒江」
「嫌です。私が生きている意味は、紅葉様を守ることだと思っているので」
強い瞳だった。夢を語っている時の善乃と同等か、それ以上の輝きを見て、紅葉は視線を切った。
「……ここにいても見つかるな」
「ですね。華々しく散りますか?」
「……悪くねぇけど、黒江。お前異国に興味あるか?」
「は?」
「海を渡った先の地だよ」
黒江は目を丸くした。
「それは」
「書斎で見た。神々が作り出した大地が海の先にあるらしい。そこまで逃げてみるか?」
「でも船が……」
「運が良ければ、乗せてもらえるかもしれないだろ?」
何の計画性もない、終わりの見えている逃亡を始めようとしていた。それは黒江にも伝わっていた。
なのに、黒江は頷きを返した。
「異国の料理、食べられるといいですね! 塩辛い物ばかりじゃないといいですけど!」
こんな時でも明るさを失わない黒江に勇気づけられ、紅葉は立ち上がった時だった。
「行かせないわ」
上から声が聞こえた。
紅葉は瞬間的に黒江を突き飛ばし虚現刀の刃を鞘から解き放つと上に掲げた。
直後、衝撃。重圧と金属音の隙間から捉えたのは善乃だった。
刀を振って弾き返す。受け身を取った善乃は爪先で床を突き飛ばし、一気に間合いを詰めてくる。
峰打ちにするため刃を自分の方に向けつつ紅葉は迎え撃った。両者の刀が交わう。鍔迫り合いになり、視線が重なる。
明らかな怒りと、悲しみが見えた。
「紅葉……! お願い、抵抗しないで……!」
「うるせぇ、勝手に動くんだよ、体が。この刀が私から離れてくれないんだ」
「それは、自慢?」
「馬鹿言うなよ。渡せるもんなら渡している……! 俺は、お前を担ぐって決めてんだよ!」
「矛盾しているじゃない!!」
善乃が腰に力を入れ、体ごと押してきた。踏ん張れず、紅葉は尻もちをつく。
善乃の刀が向けられる。
「どうして!? 王族でも人間でもない亜人を選んだの! 私が無能だと言うなら話はわかるわ! 亜人を救ってきたのが罪なの!? 力無き者たちのために戦ったのが罪なの!? どうして選んだのが紅葉なんだ! 答えろ「嵐」!!」
嵐、というのがこの刀の名であるらしい。紅葉は息を切らして嵐を見た。
力強く刃を噛み、柳眉を逆立てる善乃。歯の隙間から激しい息が漏れている。
「……その思いが、あったからじゃ、ないでしょうか」
戦いを見ていた黒江が小さく呟いた。善乃が視線を向ける。
「何?」
「善乃様の言葉に、感化されたのではないでしょうか。虚現刀は善乃様の心に応えるために、力無き者である紅葉様を守ろうと……」
善乃は体を黒江に向け、一気に距離を詰めた。身構える黒江だったが主に対して刃を向ける度胸はなかった。
善乃の刃が閃き、鮮血が舞った。
黒江は自分が斬られたと思った。善乃も黒江を斬ったと思い込んでいた。
だが、実際に切ったのは、間に割って入った紅葉だった。
「紅葉……」
「紅葉様!!」
袈裟斬りに見舞われ血が床を染めてゆく。外に降り注ぐ雨水のように、血が垂れ落ちていく。
それでも目は死んでいなかった。鋭い視線で前を見ると、善乃は口を開けて固まっていた。ただ一瞬驚いたという様子だった。
紅葉はそれを好機と判断した。
「悪いな、善乃」
下から掬い上げるように、嵐を振った。刃は向けていない。鋼鉄の峰が代わりに善乃の顎を強襲した。
衝撃が善乃の全身を駆ける。次いで脳内が揺れる感覚に襲われ、千鳥足で後ろに下がっていく。
「あ、が……」
顎が割れたのか口内に血が溜まる。そして血を吐き出しながら善乃は倒れた。
紅葉は胸元を押さえながら善乃に近づき、見下ろす。
「……もうすぐ、死ぬから。この子だけでも救ってくれよ」
善乃は何も言えない。しかし意識を朦朧とさせながらも、その言葉だけははっきりと聞こえていた。
「……」
紅葉と叫んだつもりだった。だが口から真っ赤な泡を吹き出すだけに終わった。
「俺を、友達だと言ってくれて、ありがとう……ごめん、ごめんなさい」
頭を下げ精一杯の謝罪をする。そして相手の顔を見ずに、紅葉は踵を返した。
背中に嗚咽に似た声がかかる。だが振り返らなかった。
「行くぞ、黒江」
言葉を失っている彼女を呼び、ふたりはその場を後にした。
静かな寺に、善乃の激しい呼吸音と雨の音だけが木霊した。
★★★
傷は、かなり深かった。
「紅葉様! 海が見えてきましたよ!」
肩を貸している黒江が声を張り上げた。精一杯の虚勢で紅葉に呼びかける。
だが、紅葉はぐったりとしていた。
体を斜めに斬られ血が止まらず、冷たい雨という悪天候に友を傷つけてしまったという精神的な傷害も相まって、紅葉は限界だった。
寺からどれほど歩いたかはわからないが、山から下りた時点で紅葉の記憶は曖昧になっていた。
「黒江……何で外にいるんだ? 今日は……」
「紅葉様、しっかりしてください!」
「今日は、善乃の……誕生、日じゃ……」
それが紅葉の最後の言葉だった。意識を手放し、がっくりと項垂れる。
黒江は必死の形相で砂浜まで紅葉を運ぶ。
船など当然出ていなかった。それどころか誰もいやしない。荒れる海と灰色の空が、黒江の不安心を煽っているようだ。
逃亡劇もここまでだった。黒江は横目で紅葉を見る。既に気を失っていた。瞼は開いているが、瞳は虚空を見つめている。
それでも左手に持った抜き身の「嵐」だけは手放していなかった。
「……最後まで、一緒にいます」
そう言って微笑み、歩を進めた。
水平線が広がる灰色の海に沈むため、その足には一片の迷いもない。
宝刀ごと海に沈んでしまおうと黒江は目論んでいた。これがあるから絆が断ち切られた。これは呪いの刀だ。
すべて自分が決着をつけると決心した時には、腰辺りまで海に浸かっていた。
やがてふたりの姿は波に飲まれ、後は静寂に包まれた。
海周辺の捜索が行われたのはそれから4日後だった。
★★★
「今日も日差しが眩いの~」
真円型のサングラスの位置を正し空を見上げる。
小型船から釣り糸を垂らし今か今かと魚を待って早1時間が経過していた。
「今日は快晴、波は穏やか、魚は寝ぼけ、ワシの体調すこぶる良し!! 今日こそ大漁旗を掲げて帰っちゃるわい!!」
沖へ出てひとりぼっちの釣りであるため、独り言はいつもの数倍大きかった。だが元気な方が魚は寄ってくると信じていた。
ここ最近は閑古鳥が鳴いているため、そろそろ釣らないとまた仲間に馬鹿にされてしまう。
闘志を燃やし集中すること約5分。
釣り糸がピクリと動いた。
「よし来たぁ!!」
が、重かった。それで何かに引っかかったことがわかった。
肩を落とし溜息を吐きながら釣り竿を置き、糸の先を手繰り寄せてみる。
予想以上に重かった。どうやら廃棄物か何かに引っかかったらしい。
「おいおい勘弁しとくれ……まったく。何に引っかかって――」
視線を向けた先には。
真っ赤な髪をした亜人と、黒髪の亜人がいた。
釣り針はふたりの間にある細長い何かに引っかかっていた。
「あ~りゃ~……まったく望んでない物が釣れちまったわい」
エミーリォ・カトレットは額を手で叩いた後、全身と糸に強化の魔法をかけ、ふたりを引き寄せた。
「待っとれぇ! 助けるからの!」
エミーリォが呼びかけた時、赤毛の亜人の口許から、微かに息が零れた。
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