第20話「安堵」
「使い方、わかりますか?」
シャワーの温度を確かめながら、ロゼは後ろにいるビオレに問う。
ビオレは初めて見る風呂場を、物珍しげに見ている。
「わからない、ですよね。森から出たことは、一度もなさそうですし」
唇をきゅっと結んで、ビオレはロゼを見つめる。
「わかるんですよ。自然の心地いい香りが漂っているので。穢れを知らない、グレイス族特有のいい匂いです」
ロゼはシャワーを止めるとビオレを見つめ、鼻頭を人差し指でトントンと叩く。
「あ、あなたも、グレイス族なの?」
問いかけてから、ロゼの耳元を見る。尖ってはいなかった。それはロゼが自分と違う種族である何よりの証拠だった。
グレイス族でさえも見劣りする可憐さを持つロゼだが、どうやらヒューダ族か、別の亜人種らしい。
「とりあえず、体を洗っちゃいましょう。汚れてますし、魔力が不安定です。休まないと死んでしまいます」
水が温まったため、出しっぱなしにしてロゼはビオレを手招きする。
「服は脱いでくださいね」
コクリと頷き、服を脱いでビオレは浴室に足を踏み入れる。
「ちょっと暑いですよ」
足元から頭にかけて熱湯を浴びる。
「ぷあっ」
変な声が出てしまう。顔を拭いながら目を開けると、柔らかな笑みを浮かべたロゼが映る。
「お風呂はいいですよ。体の汚れも落とせますし、涙も流せます」
ビオレの頬を撫でながら、ロゼは言った。
「ゆっくり暖まってください。ここにあなたを、ビオレを傷つける人はいませんから」
その優しい言葉は、ビオレの心にストン、と落ちた。
「……あ、あり……ありがとう、ございます……」
ビオレは恐怖や疑念から湧き出た涙ではなく、安堵からきた涙を流しながら、ロゼに礼を言った。
★★★
防具を脱ぎ、普段着に着替えたゾディアックは、材料をリビングの保冷室や棚の中に入れ、アンバーシェルのステーションを見て時間を潰していた。
ドラゴンの目撃情報は、今のところ見当たらない。
ソファーに横になりながら、画面上に指を滑らせていると、遠くから楽しそうな悲鳴が聞こえた。
ゾディアックは苦笑いを浮かべる。グレイス族は風呂など入らず、川の水や魔法で体を清める。ヒューダ族用の浴室では苦戦するだろう。
それからしばらくして、ロゼとビオレが姿を見せた。
「ただいま戻りました!!」
「おかえり」
ゾディアックはふたりを見ながら言った。ロゼはいつも通りのゴシックドレスになっていた。
ビオレはピンクのフリルスウェットに黒チェックのフリルスカートに着替え、少女らしい服を着ている。
「どうですか、ゾディアック様! 可愛いでしょ!」
「ああ。さっぱりしたようでなによりだ」
「可愛いでしょ!」
「あ、ああ。似合ってるんじゃないか?」
「なんですか、その返事」
ゾディアックは苦笑いを浮かべる。ビオレが、そんなゾディアックの顔を、ぼーっと見つめる。
「ん?」
「ふぇっ!? い、いや、あの……」
ビオレはスカートの裾を握りしめながら、赤らんだ顔を地面に向けた。
ロゼは「ははぁ」とわざとらしい声を上げ、ジト目でゾディアックを見つめ、口角を上げる。
「イケメンですものねぇ、ゾディアック様」
「は?」
「あ、あの……」
ビオレは話題を変えようと、焦り気味でロゼに視線を向ける。ロゼとビオレの身長は10cmほど離れているため、見上げる形になる。
スカートを履きなれていないせいか、手で生地を掴み、もじもじと動かしている。
「ふ、服のお金は」
「そんな心配しなくて大丈夫です! 私の古着ですから。やや大きいかもですけど……」
ロゼは両手をパンと叩いた。
「それじゃあ料理にしましょう。ゾディアック様、手伝ってください」
「ああ」
動き出すふたりを見て、ビオレは慌てた。
「あ、あの」
「すぐにできますので、椅子に座ってお待ちください」
「ち、ちがくて。依頼の話」
「お腹が減っていると難しい話はできませんよ」
ロゼはそう言って微笑み、キッチンに入ると、鍋に火をつけた。
ビオレは言われた通り、指定された椅子に座る。
何をすればいいのか、いつ話ができるのか。焦りのせいで胸が締め付けられる。
ビオレにできることは、太ももの上に乗せた手で握り拳を作ることだけだった。
それからものの数分で、テーブルの上が料理で埋め尽くされた。
ビーフシチューにシーザーサラダ、米粉パンに刺鮫のガーリックフライ。
食欲をそそる匂いに釣られ、ビオレは料理に顔を近づける。
涎が零れ落ちそうだった。ゴクリと音を鳴らしながら唾を飲み込む。ビオレの腹が悲鳴を上げる。
「……食べようか」
ビオレの正面に座ったゾディアックがスプーンを差し出すと、ビオレはふんだくるようにそれを取り、シチューを頬張り始めた。
一心不乱に料理を口に運んでいく。行儀がどうこうなどまったく意識せず、どんどんと、ただ夢中で。
「美味しいですか?」
隣に座るロゼが、微笑んで聞いてきた。
口の周りがベタベタに汚れ、テーブルも汚しているビオレは、ロゼに視線を向けながら頷きを返す。
温かい食事と、心優しい者達に囲まれ、ビオレは心の底から安堵する。
その瞬間、今まで我慢していた感情が溢れかえり、張り詰めていた緊張の糸が切れた。
ビオレの目が、じわりと潤んだ。
ゾディアックとロゼが驚いたのは同時だった。
「ふぁぁああああああー~」
ビオレは大口を開けて泣き叫んだ。瞑った目から涙が零れ落ち、頬を濡らし、テーブルを濡らしていく。
「あらあら、どうしましょうか」
「ティ、ティッシュか? いや、タオルか?」
ゾディアックはうろたえ、ロゼはティッシュを手に取り、ビオレの涙を拭き取る。
慰め続け、ビオレが泣き止んだのは、それから10分後だった。