第189話「灰銀の死線」
交通事故で父が死んだ。店を飛び出し帰国したマルコを出迎えたのは、冷たくなった愛する両親の姿だった。
母親を若い頃から亡くしていたマルコにとって、父は最後の家族だった。男手一つで、パティシエを目指すという息子のことを支え続けてくれた。
一度も馬鹿にせず、ただ応援してくれた父はもういない。
審査員からボロボロに言われたデザートですら「美味しい。相手の見る目がなかったんだな」と励ましてくれた父は、もういない。
マルコは深い悲しみに包まれた。自分が活躍したせいで、このような不幸が降りかかったのだろうかと、おかしな考えが頭の中を渦巻いたほどだ。
しかし、ここで挫けていたら、それこそ死んでしまった父の顔に泥を塗ることになる。
それから無理やり自分を奮い立たせたマルコは、思いをすべて、料理にぶつけた。鬼気迫るような活動は店の売り上げを後押しする結果になった。
オーバーワークと言われ他の従業員や恋人から休むよう言われても、ずっと動き続けた。
皆が心配する中、橘だけは、その動きを称賛し、喜んだ。
今になって考えれば、あまりにも不自然な喜びようだった。その感情の裏に隠されていたものを、どうして見つけることができなかったのだろう。
知っている。自分が有名になっていく、偉くなっていくにつれて、周囲の視線を気にし始めていたからだ。最初は橘だけに喜んで欲しくて頑張っていた。
だが今は、周りの評価を気にし始めている。大切な一人の評価よりも、何百何千何万という周囲の人々からの評価の方が大事だ。
いつしか、テレビの取材もグルメの特集も、橘ではなくマルコの名と顔が大きく乗るようになっていた。
客からのチップを受け取るのも、マルコが中心になっていた。
従業員の信頼も橘よりマルコに寄せられるようになっていた。
マルコはそれに気づけなかった。
だから痛ましい事件が起こったのだ。
★★★
その日は12月の中旬だった。クリスマスを間近に控えた今日、マルコは新しいデザートの試作品を作っていた。クリスマスは1年で1、2を争うほどの稼ぎ時であるため手を抜くことなどできない。毎年客を喜ばせなければいけないのだ。
「お疲れ様、マルコ」
キッチンで作業をしていると声がかけられた。顔を上げると橘が扉を開けて入ってきていた。薄い笑みを浮かべている。
調理器具を置いて軽く頭を下げる。
「お疲れ様です。すいません、いつから……」
「5分くらい前。お前ずっと作業に集中してるからさ」
「ああ、すいません」
ポリエチレン手袋を外す。
「もう少しで新作のケーキが出来上がります。皆さんに試食してもらおうと思って」
「早いなぁ、仕事が」
「いえいえ。勝手にやっているだけなので」
こめかみを掻いて苦笑いを浮かべた。
「今回のは、自信があるんです。来週行われる高校生の洋菓子コンテスト大会で審査員として参加するのですが、そこで私が料理を振る舞うように指示されていて」
「その時に出すデザートが、それか」
「はい。見た目はザッハトルテに近いのですが、飾り付けをテーマに今回は行こうかと」
「飾り付けの担当は? 全部ひとりか?」
「まさか」
鼻で笑って右手を台の上に置く。
「彼女に作ってもらいます」
「相変わらず……仲がいいな」
「ええ。そろそろプロポーズしようかなと思っていて」
照れくさそうに笑いながら橘を見る。そこで気づく。
「橘さん? どうしたんですか、その隈」
「ん……? ああ」
「寝てないんですか?」
「最近眠りが浅くてな」
「ゆっくり休んでくださいよ。取材とかも店の切り盛りも全部私がやれるんで」
ピクリと、橘の頬が吊り上がった気がした。
「橘さん?」
小首を傾げると、相手は苦笑いを浮かべ近づいてくる。視線は作業台に置かれているケーキを一点に見つめていた。
「見事だよ。まったくお前は凄い奴だ」
「どうしたんですかいきなり。そんな褒めても美味しい料理しか振舞えませんよ」
「そうだな。お前はそうやって、自分の腕を振るってきた。この店に来る連中は、ここで働く連中は、みんなお前の作る香りに引き寄せられてきたんだ」
語気が強まっている気がした。気のせいかと思いつつ、怪訝な表情を浮かべる。
「いつの間にかここは、俺の店じゃなくてマルコの店になっていた。ここを訪れる奴はこぞってこう言うんだ。「マルコさんと会えませんか」ってな」
「あ、あの? 橘さん?」
「テレビの取材の時もお前がいないと露骨にガッカリされる。従業員に至ってはお前じゃないと相談しないとまで来ている。いっそ、俺がやめればいいと陰口すら叩かれてんだ」
もはや気のせいではない。かけられる言葉はいつも通りの優しさなど微塵も感じられないほど、怒りに満ちていた。
「ちょっと、どうしたんですか本当に。そんなの気のせいですよ。前の雑誌でインタビューの時、信頼する店長のことを喋って――」
「「喋らせた」。それが世間の声だよ」
「何を――」
瞬間。橘の拳が、マルコの作っていたデザートに叩き込まれた。精巧に作られていた菓子は無残に潰れた。
怒りよりも先に恐れがマルコを襲った。冷静に話し合おうと口を開いた時だった。
橘は、背中からゆっくりと何かを取り出した。それは鈍い銀色の光を放つ、包丁だった。
「た、たちば……」
言葉にならない声を出しながら後退りする。キッチンは広く入口も3箇所あるため、身を翻して逃げれば逃亡することは可能だろう。
だがマルコの足は動けずにいた。自分の信じる恩師が凶器を向けている、という現実を受け止めるための時間がかかっていた。
「お前と出会ったことが俺にとって一番の不幸だったよ。お前のせいで俺は全てを奪われた。店も、仲間も、女も、評判も!!」
今まで聞いたことのない憎悪に溢れた言葉に足が竦んでしまう。その隙に一歩ずつ橘は距離を詰めてくる。
「何が今度プロポーズする、だ。彼女とは、元々俺が婚約していたんだ!! なのに、横から来て全てをかっさらいやがって! なんで俺に試食させない! 俺の口には入れさせないつもりか!!?」
目を血走らせ歯を剥き出しにして、橘は包丁を振り上げた。
言いたいことは山ほどあった。止めようと優しい言葉を投げようともした。だがどれも、橘の神経を逆撫でする物ばかりにしかならない。
「うわぁあ!!」
マルコは悲鳴を上げて慌てて後ろに下がった。その際足がもつれてしまい、尻もちをついた。
さきほどまで顔があった部分に包丁が振り下ろされる。
マルコは震える右手を突き出し、制止を呼びかけた。
「た、橘さん! 落ち着いてください! 私はあなたの味方です! だって、ずっと憧れていたんだ!」
「うるせぇ!! 適当なこと言ってんじゃねぇ! どうせ心の中で、俺のことを馬鹿にしてんだろ! あの女みたいに、みんなみたいに! 俺はそんな駄目な人間じゃない! 俺は!
俺は!!!」
激昂した橘は覆い被さろうとした。マルコは悲鳴を上げ、暴れまわる。その際突き出した足が橘の腹に当たった。
力任せに蹴り飛ばし距離が離れる。隙ができあがったため、生まれたての馬のように震える足を奮い立たせ、マルコは出口へ向かった。
「おい!! 待て!! 待てよ!! 待ってくれ! 俺を、俺を捨てないで――」
扉が閉まり、かつての恩師の声はそこで途切れた。
戻るという選択肢はなかった。かといって、通報という手も考えなかった。
外に出てたどたどしい走り方である場所へ向かう。走っている間、橘のことを思い出す。
まさかあそこまで嫉妬していたなんて思っていなかった。
自分がメディアに露出して客の対応をすることで、橘の負担を減らそうとしていたのが、裏目に出てしまった。
「なんで、なんで、こんなことに」
悪いのは自分だったのだろうか。自問自答している内に自宅へ着いた。エレベーターに乗り込み自分の部屋へ向かう。
彼女がいるはずだ。とにかく心が通じ合った彼女に会いたかった。この恐怖心を薄くしたかった。
エレベーターが到着し部屋へと向かい扉を開ける。声を上げて室内に入る。
だが待っていたのは愛しい彼女の声ではなく。
何もない、家具もすべて無くなっていた、虚無の空間と化した自分の部屋だった。
★★★
愛する者は、結婚詐欺師だった。有名人と化したマルコの金だけが、彼女の目的だったのだ。
警察に相談したところ、まるで他人事のように処理されたことが非常に腹立たしかった。
だがそれよりも悲しみの方が勝っていた。
彼女に裏切られたことではない。
橘は、マルコを襲った後店に火を放って自殺したのだ。
今マルコの目の前に広がっている光景は、焼け焦げた夢の痕だった。店は黒い灰に包まれており、事業再開など到底無理な外観と化していた。
嫉妬で狂った恩師、金だけしか見ていなかった恋人、マルコの名声にしか興味のない仲間とメディア。
誰もがマルコのことを哀れみはした。
だが、誰もマルコのことを救おうとはしなかった。
マルコは空っぽになった自室でケーキを作ろうとした。橘に振る舞おうとした最高の一皿を。
だが、マルコの手は震え、もう何も作れなくなっていた。情熱も消え失せていた。
空っぽになっているのは部屋だけでなく、心もだった。
――何故こうなったのだろう。
最初は押しかけていたメディアも数ヶ月経ったら、いなくなっていた。
――夢を実現するために努力していたらこうなったのか。自分の作る物は、不幸を呼ぶ物なのか。
心配するような手紙も消え失せた。
――なら、もういい。
数年が経ち、世間がマルコの顔も名も興味を示さなくなったころ。
マルコは、なるべく人が少ない時間帯を狙って、線路に飛び込んだ。
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