第146話「Voltage:89%」
まったく使いどころのないグラスを拭いて、優しく棚の中に収納する。普段使用していないとはいえ、定期的に手入れをしないと、すぐに使い物にならなくなってしまう。
ブランドンは広い店内を見渡す。かつては大いに賑わっていた自分が経営していたバーだ。今では見る影もない。この店を訪れるのはブランドンの数少ない友人と、名前のないあの子だけ。
「ブランドン」
バーの入り口に目を向けると、まだ若々しい狐の顔をしたガネグ族の少年が立っていた。突然変異体とも呼ばれる、同種族では見られない希少な顔と体毛、骨格をした獣人の少年。変わっているのは姿形だけでなく、体内に流れている大量の魔力もだ。
「いらっしゃい」
ブランドンはなるべく、優しく笑みを浮かべてみた。
「あんたの笑顔、怖いからやめてくれよ」
少年は苦笑いを浮かべた。
「何か飲むか?」
言いながら身を屈めてグラスを手に取る。
「いや、いい。飲むよりも話したいことがあってさ」
少年はカウンター席に座ると、台の上に右腕を置いた。
「今日はいいのか? ここにいて」
「俺がここにいたらダメなのか」
「こんな状況だろ。なんか会議とかするんじゃないの」
ブランドンは鼻で笑った。
「そろそろ本気で暴れようかと進言したのだが止められてな。ルーが及び腰になっている」
「はぁ? あの暴力だけが生き甲斐みたいな野郎がなんで?」
「ゾディアックたちを襲った亜人たちがいただろう。あの後全員から話を聞いたが、一様に記憶が混濁していた。記憶や意識が操作されるとすると、迂問に飛び込めない。あいつは意外と暴れん坊に見えて頭は冷えている。馬鹿だが、愚か者ではない」
だからこの亜人街で上位3番目に位置しているのだろう。少年は妙に納得してしまった。ブランドンは腕を組む。
「しかしな、これ以上の被害、見て見ぬふりはできない。ジルガーが連れ去られているのだ
ろう」
「ああ」
「今回は俺も動く。そう決めた」
「そのことなんだけどさ、ブランドン。話聞いてくれよ」
ブランドンは首を傾げた。少年はセントラルで話していた作戦をブランドンに伝える。当然ながら、反応は芳しくない。ガーディアン側が立てた作戦ということもあり、ブランドンは冷ややかな目線を少年に向け続けた。
「ていう作戦なんだけどさ。どうよ」
「どうもこうも」
ブランドンは肩間をつまんで呆れたように首を振った。
「上手くいくと思っているのか。大勢の亜人が北地区に押し寄せてみろ。有無を言わさず兵士に八つ裂きにされるぞ。俺はまだしも悪戯に仲間を傷つけたくはない。そもそも主犯がハッキリしているのなら、ガーディアン側で手柄を立てればいい。それにその作戦は前提に問題がある。亜人たちが、ガーディアンと共闘などできるわけがない」
「そこでブランドンの出番じゃん。あんたが仲間を指揮してくれよ」
「こちらを抑えることができても」
「ガーディアン側はゾディアックが大将だから。大丈夫だよ」
「なにが大丈夫だ」
「大丈夫なんだ。あいつなら。ゾディアックは普通のガーディアンとは違うんだよ」
少年は力強い目でブランドンを見つめた。瞳が輝いており、それはまるで信頼の強さを表しているかのようであった。ブランドンとて、ゾディアックの異質さは理解している。普通のガーディアンではないといり雰囲気。
確かに彼が統率するのであれば、少しは安全性が高まるだろう。
少年は右頬を上げながら言った。
「それともブランドンは、自信ないのか。亜人を纏められる自信が」
「見え透いた挑発をするなよ小僧。俺が何十年ここを統治していると思っている」
ブランドンは鼻を鳴らした。
「亜人側はガーディアンを恨んでいるぞ」
「けど仲間のためなら我慢できるだろ」
そう言って少年は立ち上がりカウンターから離れた。
「待て。お前も行くつもりか?」
「そうだけど」
「思い上がるな。お前が行っても何もできん。ここで大人しく待っていろ」
「何もできない……か。そうかな?」
少年は口角を上げると、自分の首元を指した。黒いチョーカーが首輪のように巻き付いている。それには気づいていた。
しかしよく見ると、一部分が光っていた。真珠の宝石がはめ込まれている。
ブランドンは目を開いた。
「お前」
「そ。ガーディアンになった」
「馬鹿な。身寄りもないただの亜人であるお前が、いったいどうやって」
「一夜だけっていう、特別な条件を付けてくれたんだ。セントラルのトップ……エミーリォとかいうおじいちゃんがさ」
そう言って白い歯を見せる。鋭く失った犬歯をブランドンは見つめるしかなかった。
少年は笑みを崩し、真剣な表情を浮かべ、ブランドンを力強く見つめた。
「なぁブランドン。一夜限りなんだよ。これは、一夜の夢なんだ。ずっと憧れていた。俺はずっと夢に見ていたんだ。高い建物に登って下にいるガーディアンたちを見下ろして、いつかあの輸に入ってみたいと思っていた。それから同じ場所で正面を見たらさ、ずっと高く、そびえ立っている、北地区の外璧が映るんだぜ。あの中にはどんな世界が広がっているのか見てみたかった。それも、今、叶いそうなんだ」
多少の自虐が込められた少年の笑い声が、薄暗い室内に木霊した。
「憧れのガーディアンになれて北地区の中も見れて、最初で最後の任務が悪人から恩人を助け出す、だなんて……マジで夢物語みたいじゃん?」
意を決したように、真っ直ぐな瞳でブランドンを見つめ、胸元に手を置く。
「俺は、ジルガーを助け出す。何も持ってない、名前も誕生日すら持っていない捨て犬同然の俺が、初めて見つけたんだ。自分のできること。恩人を助ける。家族を、守れる」
すぐに終わる夢を、しかし必ず叶えられると信じている少年は熱く語った。その姿は暗い世界を照らす、十五夜に浮かぶ満月のようであった。
「だから頼むよ。ブランドン。俺はもう死んでもいい。けどジルガーだけは助けたいんだ。力を、かしてください」
少年は頭を下げた。自分よりも何百年も年下の頼みだ。
ブランドンは黙ったまま見つめ続け、ため息をつくと、少年の後方に目を向けた。
「ということだ。ここで断るような心ではないだろう」
少年は自分に向けられた言葉ではないことを理解し、後ろを振り向く。
そこには、鎧を身に纏い、完全武装したルーと、同じく刀身が湾曲した巨大な剣を持つクロエが立っていた。
「んなガキに言われるまでもねぇ。一応はあんたの言う通りに動くが……クソ野郎の顔面一発殴らせろよ。うちの隊は暴れたくてうずうずしてんだ」
「ジルガーさんには世話になっているからね。私の仲間も動かすよ。数は多い方がいいでしょう?」
ふたりの言葉を聞くと、ブランドンはカウンターから出た。
「全員を集めろ。もう一度作戦を説明する。その後は」
ブランドンは少年の肩に手を置いた。
「この子と一緒にゾディアックの元に行く。……それでいいか? ガーディアン」
強面な鬼の顔から、優し気な声が聞こえた。
少年はもう一度3人に頭を下げた。
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