第142話「Voltage:79%」
生まれてからずっと、下の世界と呼ばれる場所で育ってきた。
彼の産まれた場所は、民家の地下にある小さな部屋であった。元々戦争中の牢屋として使われていた部屋で、産声を上げることになった。
そこから彼の人生は決まっていたのだ。日陰者として生きていくという人生が。
小学校に上がると同時に、家が貧乏で毎日同じ服を着ているということを同級生にからかわれた。
彼はその声を無視した。事実だったからだ。怒っても、新しい服が手に入るわけではない。裕福になるわけではない。
しかし、その選択は間違いだった。からかいはエスカレートしていき、やがて暴力になった。
「ごめんね……」
喧嘩になってボロボロになった彼を抱きしめながら、母親は謝罪の言葉を口にした。髪を濡らす涙が生暖かかったことを、彼は今でも覚えている。
中学生になると、父親の仕事の関係で日本へ訪れることになった。まったく違う世界が広がり、彼は新しい人生をやり直せると思っていた。
日本の中学校に編入し、すぐに言語の壁にぶつかったが、それでも彼は熱心に勉強をした。がむしゃらに、ひたすらに。それこそノートが黒く塗りつぶされ、参考書がヨレるほどに。
彼はクラスメイトたちから隠れて勉強をしていた。いきなり日本語が喋れるように見せかけ、驚かそうとしたのが理由だ。子供らしい、単純な理由だった。
だが、日本語を勉強すればするほど、後悔の念しか湧いてこなかった。
「あいつガイジンのくせに、全然かっこよくねぇじゃん」
「イタリア人でもあんなブサイクいるんだね」
「つうかあいつ臭くね? ガイジンって香水臭いんだっけ?」
クラスメイトたちからは、ずっとずっと、暴言を吐かれていたのだ。
クラスメイトは彼が日本語を理解できることを知らない。だからずっと心ないことを言い続けた。
友達と呼べる存在は何もいない。父親は仕事漬けで、唯一の味方である母親も働きすぎで家に帰ってこない。
ひとりぼっちになった彼が荒んで行くのは至極当然で、自然なことであった。ゲームやアニメといった妄想と空想の世界に逃げるようになり、醜いと呼ばれる容姿はさらに醜く、思考回路は幼稚のまま、無駄に年月が過ぎていった。
★★★
引きこもり続けて19歳になった彼は、とうとう父親に部屋から引っ張り出された。
「いい加減にしろ!! お前も働きに出るんだ!!」
スーツを着た父親の鉄拳が、頬を打ち抜いた。家の廊下に転がる彼の姿は、餌を食って眠りに入る家畜の豚そのものであった。
彼はスーツの袖口から覗いている毛むくじゃらの腕を睨みつけた。
「……どこが雇ってくれんだよ。高校中退した奴なんて」
「うちの職場に来い! 中卒で立派に稼いでいる日本人の社会人がいるぞ」
イタリア人だった父親はすっかり日本語が流暢になっていた。父親はため息をつくと、拳を下ろして彼の前に跪いた。
「なぁ。お前の日本語は本当に上手い。日本人の英語力は非常に低いんだ。だから、通訳としてなら能力を活かせる。好きな漫画もゲームも、自分の稼いだ金で買えるんだぞ?」
「……ふざけんなよ」
「なに?」
「ふざけんな。なんで俺が、今までずっと辛い思いをしてきた俺が、また辛い思いをしながら働かなきゃいけねぇんだ?」
「それは……」
「何もかも親父が悪いんだろ!? 俺がガキの頃に有り金全部騙し取られて、やっと見つけた仕事先で失敗しまくって日本に飛ばされてよぉ! くそ! 俺だってなぁもっと金持ちの家に産まれたかったよ! こんな貧乏くせぇ所に生まれたから、俺はひとりで……」
そこまで言って、また殴られた。彼は父親の顔を睨みつけた。
悲痛で、それでいて心の底から怒れない、やるせない表情を浮かべた父の顔。
それが、彼が最後に見た両親の姿であった。
彼はその日の夜家から出た。
「死のう」
外は雪が降っていた。道行く人は幸せそうに街中のイルミネーションに照らされながら歩いている。
そして彼を見た者全員が、バケモノを見るような目を向けて体を避けた。
冬場に襟元が黄ばんだ半袖のシャツ、下はグレーのスウェットで、靴はスニーカー。上着も羽織っていない丸々と太った醜い体に顔。鼻息が荒く、厚ぼったい唇の端から時折涎を垂らしながら歩いてくる低身長の男。
豚と蛙が融合して二足歩行で歩いているような、そんな見た目であった。
「どいつもこいつも……」
彼は足元にあった雪を、歩行者に向かって蹴飛ばした。
「見てんじゃねぇ!! 俺を見るんじゃねぇよ!!」
こんなクソみたいな人生は違う。これは外れの世界なんだ。
雪を蹴飛ばすたびに少年は強く念じた。
死のう。死ねば”当たり”の世界に行ける。
最初は馬鹿にしていたが、もし死んだら本当に行けるかもしれない。
異世界に。
彼は狂ったような叫び声を上げ、大笑いしながら赤信号が灯る大通りに身を投げた。
★★★
腹から大きめの音が鳴った。
「腹減ったなぁ……」
アウトローとしてガーディアンを狩っていたウノは、木の陰で銃の手入れをしながら呟いた。
リボルバーのシリンダーにはひとつも弾丸が込められていない。6つの穴を覗き込みながらため息をついた。
まともな飯にありつけたのは2日前の昼が最後。いい街だったが酔っ払った勢いで店員の女性に体を擦り付けたのが間違いだった。だがもう反省してもしょうがない。早く街へ向かわなければ。もう野生の動物や虫を食うのは嫌だった。
ウノは荷物を纏め、再び森の中を歩き始めた。手入れもされていない獣道を、法学と地図を頼りに歩き続ける。馬もないため行進は鈍行であった。ただ森を抜ければ街があることは既に把握済みである。
「……ん?」
歩き続けてしばらくしたところで、豚が寝転がっていた。いや、岩か。
ウノは首を傾げてそれに近づく。そしてそれが人間であることに気づいた。腹が異常に出ている前進ぜい肉まみれの男だった。
「うっへぇ……なんだこれ」
何とも醜い姿に視線を背けそうになる。それでいて悪臭を放っている。正直このまま放置しておきたいが、見てしまったのはしょうがない。
「おい、起きろよ」
鼻を押さえながら男の足を蹴った。
すると男が唸り声をあげて、細目でウノを見た。
「よぉ、兄ちゃん。別の所で寝た方がいいぜ。ここら辺はグランドベアーも出没するぞ」
親指を背に聳え立つ森林に向けて指すと、男は目を見開いた。
「あ、あの」
「あん?」
「あなたは、人間、ですか?」
「そっくりそのまま返すわ。お前人間か? 豚の亜人じゃなくて?」
ウノが呆れ顔を向けると、男は黄ばんだ歯を向けた。
「お、俺、セロって言います」
「……ああ?」
「い、異世界に来たんだ……本当にあったんだ。異世界に来たんだ。俺は、やり直せる。ここで新しい人生が、チートを使って……」
ぶつぶつ独り言を呟き続けるセロを苦笑いで見つめる。
「なんだこいつ……?」
訝しみながら視線を向けていると、セロがゆっくりと上体を起こした。
「あ、あの。俺を街まで連れていってください」
「いやだよ。なんで俺がそんなことしなきゃ」
「お願いします!! なんでも、なんでも、しますから」
セロは首を垂れた。
「……参ったなぁ」
額が地面につくくらい必死に頭を下げるセロを見て、ウノは困り顔で襟足に手を伸ばした。
お読みいただきありがとうございます
次回もよろしくお願いします。