第105話「クック・"ラヴァー"・デザート」
今になって、ようやく空っぽの頭の中が充実してきた。何もなかった家に、家具が揃うような、そんな感覚だ。
綺麗な家具が揃い、生活に事欠かないようになってきた。そう思っていた。
お前は世界の敵なんだよ。
その言葉はまるで、赤黒いペンキのようであった。綺麗な家の中に、それがぶちまけられる。
綺麗だったものが一瞬で汚い物に変わった。そんな気がした。
「ゾディアック様」
それでも、汚れていても綺麗だと思える物があった。
眩しくて、見えない。
「ゾディアック様?」
誰かが読んでいる。光に視線を向ける。
「むぅ~……ゾディアック様!!」
パチン、という音と共に、世界が明滅した。
★★★
ゾディアックは目を見開く。次の瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
「いった!!?」
何が起こったのか状況を理解する。目の前に頬を膨らませたロゼがいた。腕を伸ばしている。両頬の衝撃からして、どうやらロゼが両手で頬を叩いたらしい。
強制的に唇をすぼめられるゾディアック。整った顔立ちが間抜けな顔に変わった。だが、目元の美しさなどはそのままであるため、非常にアンバランスな印象を与える。
「ふふふ。変な顔~」
語尾に音符マークが付きそうな声で、ロゼは両手を円運動させゾディアックの頬をこねくり回す。
ソファに座っていたゾディアックは、向かい合いながら膝の上に座るロゼの笑顔を見つめる。
何て可愛らしい、そして愛しい笑顔なんだろう。
「ゾディアック様。記憶のことで、お悩みですか?」
ゾディアックは黙って頷いた。
トムが暴れた日から3日が経っていた。被害は軽微であり市民の犠牲者は出なかった。ただ、何人かのガーディアンは、帰らぬ人となった。
「ガーディアンのことも残念ですが、まずは事件を解決したことを喜びましょう!」
「……ああ、そうだな」
「ねぇ、ゾディアック様?」
「ん?」
「どんな記憶を持っていたとしても、あなたがどんな過去を背負っていたとしても、私はあなたについていきますよ」
ロゼは頬笑んだ。
「私はゾディアック様のお傍に、ずっといます。だから安心してください! 私がついていれば、大丈夫です!」
太陽のような笑みを浮かべる吸血鬼を見て、ゾディアックは胸が締め付けられた。たまらず抱きしめ、そのまま数秒硬直する。
会話も何もない。時計の針の音がよく聞こえた。
ふたりの幸せな空間を邪魔する物は、それだけだった。
★★★
ボウルに入れたバターとグラニュー糖を混ぜる。白っぽくなった。ゾディアックはそこに溶き卵を少しずつ加えながら混ぜ合わせていく。
粉っぽさが残る程度で、ゴムベラで切るように混ぜる。牛乳を入れて混ぜ、さらにグラニュー糖と牛乳を混ぜる。
分量は間違っていない。やや粉っぽいが、全体がいい感じに馴染んだ。
非常に手慣れた動作だった。ロゼが思わず感心するような声を上げる程であった。
スプーンを手に取り紙カップに生地を入れていく。ロゼが、入れ終わった生地にブルーベリーを均等に乗せていき、準備が整った。
ゾディアックは生地が入った型を170℃に余熱済みのオーヴァンに入れた。あとは21分待つだけである。
順調であり、ゾディアックは思わず拳を握った。完璧だった。何も間違っていない。
それを証明するかのように、生地は徐々に膨らみ、指定の時間が経過した。アンバーシェルのタイマーが鳴るのとほぼ同時に取り出すと、見事に膨らんでいたブルーベリーマフィンが姿を見せた。
「「やったー!!」」
ふたりの声が重なる。
「あ、まだ喜べない! ロゼ、味見しよう!」
「そうですね! 味が実はしょっぱいとかブルーベリーじゃなくてチョコチップ入れたとかだったら洒落になりませんし!」
ゾディアックはひとつだけカップを手に取り、半分に切るとロゼに手渡す。それから口に運ぶ。
甘い生地とブルーベリーの酸味が口内に広がり、至福の一時を演出してくれた。口の中の水分がかなり持っていかれたが、こんなものなのだろう。
ゾディアックはマフィンを飲み込みロゼを見る。
「おいふぃでふ」
物を入れたまま幸せそうに微笑んでいた。片頬に手を当てながら、その美味しさに酔いしれている。
ゾディアックはロゼに顔を近づける。
「?」
意図がわからなかったロゼは小首を傾げる。ゾディアックは、ロゼの口元についていた欠片を、唇を押し付けてすくった。
顔を少し離す。赤面しながら目を見開いているロゼの表情が、眼前に広がる。
「ロゼ」
ロゼは口の中の物をゴクリと飲み込んだ。
「は、はい」
「可愛い」
「うっ」
ロゼは恥ずかしさと嬉しさを誤魔化すように視線を逸らす。
「大好きだよ」
「……~~~~!!」
今度は顔全体を腕で隠した。いつも笑顔で、少し悪戯っぽい笑みを浮かべているロゼからは想像もつかないほど、顔が赤くなっている。
「わ……」
ロゼは顔を隠しながら口を開いた。
「私も、大好き、です」
頭がクラっとしたゾディアックは、ロゼを抱きかかえた。恥ずかしがりながらも、ロゼは腕を降ろす。人形のような可憐な顔が露わになる。天使のような微笑みを浮かべていた。
ゾディアックはそれを見て、欲望のまま唇を押し付けた。
★★★
家で暴走しかけていたゾディアックだったが、あの後すぐにロゼに止められた。
「は、はやくマフィン持って、ラズィさんのお見舞いに行ってください!! 続きはあとにしましょう!」
どこかひどく恥ずかしい言葉を聞いたゾディアックは、言われるがままラッピングされた紙袋を持って、病院に訪れていた。
ゾディアックは受付に行った。茶髪の若い女性がいた。
「あ、あの、すいません」
「はい。どうされましたか……ガーディアンの方ですね。お見舞いですか?」
一瞬鎧姿のゾディアックを見て驚いた顔をしたが、すぐに営業用の笑顔に切り替えた。
「えっと、ら、ラズィ・キルベルさんの病室は……どこでしょうか」
「ああ、その患者さんなら、今朝方退院しましたよ」
「……え?」
ゾディアックは驚いたように目を開く。ラズィの傷は少なくとも一週間は安静しないといけないほど、危険なものであった。
暗殺者ゆえの行動なのか、それともディアブロ族ゆえに回復速度が速いのか。
どちらにせよ、病院からラズィがいなくなったのは事実らしい。
ゾディアックは礼を言って頭を少し下げると、踵を返した。
「あ、マスター!!」
足を止める。入口からビオレとベルクートが姿を見せた。見舞い品を一緒に探しに行くと言っていたため、ちょうど鉢合わせたらしい。
「どうしたんだよ、大将。はやくラズィちゃんのとこ行こうぜ」
「……それなんだが」
ゾディアックはふたりにさきほどのことを説明した。
★★★
「なるほど、いなくなっていたわけか」
ベルクートが腕を組んで頷く。
セントラルを訪れたゾディアックたちは、いつもの席に座っていた。ガーディアンたちの賑わいの声が響き渡っている。
任務中に殺害される者がいたり、獲物の横取りがなくなったため、いつもの明るさを取り戻していた。
「せっかくマーケット・ストリートでお買い物してきたのに」
「本当だよなぁ。お嬢ちゃんと俺大変だったんだぜ? もみくちゃにされてよぉ」
明るくなったのは街中も同じだったようで、キャラバンからの被害者がいなくなったおかげでマーケット・ストリートも賑わっていた。これまで休んでいた分の売上を取り戻そうとしているのだろう。ゾディアックは、病院に向かうまでの道のりが非常に大変だったことを思い出す。
「あれ、お前ら病院に行ったんじゃなかったのか?」
席にレミィが近づいてきた。いつも通りコーヒーが入ったマグカップを持っている。
「それがよぉ、レミィちゃん。ラズィちゃんのやつ、何も言わずに退院しててよ」
「ふ~ん」
レミィの視線がゾディアックに向けられる。「暗殺者であることは言ってないの?」と聞いていた。
ゾディアックは頷きを返した。
「まぁ、いいんじゃないの? 元気になったんなら、近々会えるだろ」
「つってもさぁ、今日から面会許可が出るはずだったのに、いきなり退院っておかしいだろ」
「ベルクートとは違って傷の治りが速いんだろ」
「ベルクート、おじさまだもんね」
「言うねぇ、ビオレちゃん。チビ助って明日から呼んでやろうか」
賑やかな仲間たちを見つめながら、ゾディアックはラズィがどこに行ったのか思案していた。
「ゾディアック」
レミィが隣に座った。
「少年は亜人街に帰ったよ。「手伝ったお礼になんか美味いもん食わせろ」だってさ」
「……そうか。なにか、持っていかないとな」
「……なぁ、ラズィのことは、放っておいていいんじゃないか?」
言いにくそうに、レミィは言葉を紡ぐ。
「彼女は一応、この事件の首謀者と関りがある。恐らくだが、この国にもう身も置けないだろう。今頃国外に出ているかもしれない。だからさ、黙って見送るのも、いいんじゃないか」
レミィは言い終えて、コーヒーを飲んだ。
ゾディアックは黙ってその言葉を聞いた。
わかっていた。レミィの言うことが正しいことも、理解できた。
★★★
帰り道をひとり、歩く。
あれから気晴らしに任務を行った。それから数時間後、ビオレはカルミンたちと別の任務へ、ベルクートはキャラバンの仕事をしに行った。
ひとりになったゾディアックは家に帰ろうと帰路に着いていた。
西地区の人通りの少ない寂れた通り。一本道であり、つきあたりを左に行けば家が見えてくる。
そのつきあたりの前に、ひとりの女性が立っていた。
「……ゾディアックさん」
「……ラズィ、さん」
魔術師の衣装に身を包んだラズィが、そこには立っていた。
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