第103話「 "サンライズ" 」
ラズィはナイフを両手で持ち、巨大な背中に迫る。
トムは振り返りながら立ち上がると、爪を振ってラズィを牽制した。小型のナイフしか持っておらず、まともな防具も身につけていないため防げない。ラズィはバックステップで距離を取り、間合いが生じる。
手綱を離さなければならなかったため、ワイバーンが暴れるかもしれないとトムは思ったが、杞憂だった。ワイバーンは騎手のことなど気にせず、優雅に前だけを見て飛んでいる。
トムは視線を下に向ける。サフィリア宝城都市の上を旋回していた。明確な指示を出さない限り、ワイバーンは上空待機するよう調教されているらしい。
グズグズしていると追っ手がきてしまう。短期決戦を覚悟し、トムは靴を脱いだ。毛むくじゃらの巨大な足に加え、鋭く大きな爪が曝け出される。靴を履いている際は、いつも仕舞っている天然の刃物。
次いで左腕を隠すように半身になって構える。自然とこの構えになっていた。トムは無意識のうちに、防御体勢をとっていた。
片腕の暗殺者に隻眼の暗殺者。
どちらも怪我が多く、魔力も少ない。残された武器も、時間も少ない。
ラズィの脳裏にレミィの言葉が横切る。
★★★
「無茶だ!!」
廃墟と化した酒場にレミィの声が木霊した。
「その傷で追って、おまけに戦うなんて無理だ。死んでしまうぞ!」
悲痛な声に対し、ラズィは頭を振った。聞く気はないという意思表示だった。
トムがどうやってサフィリア宝城都市から逃げるのかは容易に想像がついていた。長年連れ添っていたゆえの勘だが、どこか確信めいたものもあった。
話を聞かない相手から視線を切り、レミィが「止めるように言え」とゾディアックに視線を向ける。
ゾディアックは膝をついて、アンバーシェルを渡した。
「……戦えるなら、行けばいい」
「お、おい! ゾディアック!!」
ゾディアックはラズィを見ながら、レミィの前に手の平をかざした。
「何かあればすぐに飛んでいく。お姉さんことは、任せてくれ」
「……ありがとう」
ラズィはアンバーシェルを受け取る。
「だから、死んじゃダメだ。必ず助けに行くから」
そう言ってラズィの手を握った。
「だから負けるな」
力強い言葉だった。
不思議だった。今までどんな励ましの言葉も誉め言葉も聞き流していたのに、何故かゾディアックの言葉は、心にストンと落ちるような気がする。
ラズィは大きく頷きを返した。
★★★
両者睨み合う。防護壁がないため常に吹いている激しい風が、両者を揺らそうと襲い掛かる。
しかし体幹が鍛え上げられてる暗殺者同士、この程度の風圧などものともしない。
ラズィはトムの構えを見て、両腕を上げ、顔の前で止める。拳闘で使われるブロッキングに近い構えを取ると、ナイフを逆手に持つ。
片腕の筋力では筋肉で覆われた分厚い体を切り裂いたり、致命的な箇所を突くことができない。ゆえに体重をかけて押し切れるよう、そして小回りが利くよう逆手持ちに切り替えた。
ワイバーンの背中は広いとはいえ、落ちたら助からない高さでの、決められたスペース内での”空中戦”。
先に仕掛けたのはラズィだった。腰を落とし落下の恐怖など感じさせない動きで距離を詰める。
リーチの長さを活かし、トムは左腕を動かすと見せかけて横蹴りを放つ。ラズィは蹴りのモーションに入った瞬間、横に飛んで回避し、体を入れてナイフを振ろうとする。
トムの左腕がピクリと動いた。カウンターで打ち込む気らしい。
それを見て、ナイフの動作を止める。
狙うは顔面。ラズィは跳躍した。
飛び膝蹴りがトムの眼前に迫る。間一髪顔を仰け反らせ、その一撃を避ける。
ラズィの攻撃はこれで終わりではなかった。ラズィは空いた手でトムの鬣を掴み、ナイフを振った。
閃く銀色の光が放たれると、獅子の顔が引き裂かれた。
歪な一文字は、トムの片目を潰した。
「しっ!!」
ラズィは歯の隙間から空気を出すと追撃を仕掛けようとする。
が、視界の隅に鋭い爪が見えたため、トムの胸元を蹴って後方に飛ぶ。
さきほどまでラズィがいた場所に、トムの爪が走った。空を切ったトムは、足の指で手綱を掴むと踵を上げた。
ワイバーンが吠え、上に行けという伝達に従うように、首を上げて急上昇した。
浮いていたラズィは急な床の変化に受け身が間に合わず、背中をつけてしまう。さらにバランスを崩し、ゴロゴロと転がっていく。
一瞬の浮遊感に襲われ下を見る。床が終わりを告げようとしていた。
ラズィは慌ててナイフを振りかぶり、ワイバーンの背にそれを突き刺した。
暴れる心配があったが、ワイバーンの皮は大きくそして厚かった。刺されたというのに何も気にせず飛んでいる。
落ちるのは免れたが状況は最悪だった。体が宙に浮いている。ナイフを離したら真っ逆さまだ。
好機と見たか、トムがバランスを取りながらラズィに近づく。
「トム!! いつから!!?」
風にかき消されないよう大声を出す。回復魔法で治ったばかりの喉が痛む。
トムの足が止まった。これで追撃の心配はない。
「いつから霊体だったの! なんで、そんな姿になってまでゾディアックを追う!?」
「最初からだ。お前と出会った時から、俺はもうこの世のものではなくなっていた」
ラズィは両腕に力を込め、ナイフを支点にし体を持ち上げる。なんとかワイバーンの背中に復帰し、トムを睨む。
「この世のものでなくなっても、ゾディアックだけは殺したかった」
「……なら、霊体になって無敵になったのなら、私を弟子にする必要なんてなかったでしょう!?」
「いいや」
トムは頭を振った。ワイバーンは上昇を止め、雲の真下で再び旋回し始める。
「お前を弟子にすることが”運命”だったんだ」
「え?」
「お前を使い、姉のサンディを使い、この街を混乱に陥れる。そしてこの状況も”運命”だ!!」
「運命?」
ラズィは薄ら笑いを浮かべて頭を振った。
「そんなナリで、占いなんて信じているわけ!?」
「占いじゃあない! 真実であり真理であり、確定された未来だ!! サンディが敗れることも全部想定通りだった!! そしてこのワイバーンの上で、相対することも!!」
顔に浮かべた笑みを消した。トムの声色と目は真剣そのものだった。漠然とした物に縋る宗教の信者ではなく、明確な意思と自信を持って喋っていた。
「だが、違う! なぜお前が生きている!? 本来ここに来るのはゾディアックだった! 本来お前はサンディと共にあそこで死んでいた!!」
獅子の顔が怒りと困惑で染まる。
「ここで俺とあいつは、共に果てるはずだった。それが”運命”だったんだ。何がどうして狂った。なぜお前が来ている! 誤算が、積み重なった結果がこれか!?」
訳のわからないことを言い続ける相手を見て、不意に、ラズィは悲しい感覚に襲われた。
今、目の前にいるのは、師匠の皮を被った何かだった。
「……なぜ? あんたが、私の家族を道具扱いしたからだ」
どこか、トムは苦しんでいるように見えた。
もう、決着をつけよう。
ラズィは立ち上がり再び構える。
「何が、運命だ、下らない。そんなものがわかってたまるか。そんな下らないものに、何を見ているのよ」
「……」
「あなたは、私に技術を教えてくれて、ここまで育ててくれた師匠だ。正直に言うわ。どこか尊敬していた部分だってあった」
ラズィは奥歯を一度噛んだ。
「でも、もうだめだ。あんたは狂ってる。だから、恩返しのかわりに、私が殺してあげるわ!!」
力強いその言葉と殺意に、トムは微笑む。それは今までの狂ったトムの顔ではなかった。
雲の隙間から夕陽が姿を見せた。
ラズィはナイフに、体内の魔力すべてを注ぐ。髪色とそっくりの、桃色の光を纏う。
かと思えば、その光が黄昏色に染まった。
その魔力が、ナイフにかけられた魔法が、致命の一撃を与える代物だと知ったトムは構えを解き、体を開けた。
「……来い、ラズィ」
ラズィは駆け出し、距離を詰める。トムが目を細め、左腕を振る。
爪に毒など仕込まれていない。相手が毒を嫌うことを知っていたラズィは、切り裂かれる覚悟で前に進む。
頬に赤い線が走る。
その時だった。ワイバーンが急に旋回し、ふたりはバランスを崩した。
両者しゃがんで転がるのを避ける。
視界が上下反転し凄まじい風に襲われる。
完全に身動きが取れないと思ったその時、トムが吠え、ラズィに襲い掛かった。
ラズィは恐れず、逆手に持ったナイフの柄に、もう片方の手を添える。
放たれた腕の攻撃を避ける。それで相手の攻撃は終わりではなかった。
一度着地したトムは、下から爪先を突き上げた。
それでも恐れず、ラズィは体を入れた。
鳩尾に、トムの鋭い爪が突き刺さった。
同時に、ラズィのナイフが、トムの分厚い胸元に突き刺さった。
ラズィは口から血を吐き出しながら獣のような雄叫びを発し、全体重をかけた。
片足になっていたトムは体を支えきれず、後方に倒れる。
バランスを取れなくなった両者は、風に煽られるがまま浮き上がった。そして、完全にワイバーンから離れてしまう。
眼下にサフィリア宝城都市が映り、広大な自然の姿が姿を見せた。
夕陽に照らされながら、高い空から落ちていく、暗殺者たち。
意識を失いかけたラズィが見たのは。
漆黒の騎士がワイバーンの背中に降り立った瞬間だった。
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