表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ワールズエンド外伝

作者: くらむ

さあ、起きて! 悲しんでいる暇なんてないよ!

楽しもうじゃないか、この一瞬をさあ。

「生きるとは何か?」 そんなこと考えてちゃ、

死ぬぜ。


                      ーーUmar Khaiyam『Rubaiyat』



 芽衣子は無意味に笑った。

 そしてまたもとの真顔に戻った。

 ぼくがまた無意味に笑わないだろうかと見ていると、芽衣子は無意味に顔をしかめた。

 芽衣子はアランの『幸福論』を手に持っている、指であるページを挟んで。

 それはぼくも読んだことがあった。それには確か、「楽しいから笑うのではない、笑うから楽しいのだ」といったことが書かれていた覚えがある。

 もちろんアランはフランス語で書いているのだから、翻訳による誤差はあるだろうけれど。

 アランの顔写真がその本には載っていたのを思いだす。

 その顔が、何かをぐにゃぐにゃ言っているところをぼくは想像する。

 もちろん「楽しいから笑うのではない、笑うから楽しいのだ」と言っているのだ。

 ぼくは笑う。

 芽衣子が、ぼくの方を向く。

 そして二人で微笑みあった。

 遠くの席で(というのも、ここはパン屋の外にある、買ったものを食べるためのスペースだった)、二人組の女性が、

「待って、何あれ」

「やばー」

 とぼくたちの方を向いて言っている。いや、正確には、たぶんそう言っているような気がするだけだ。それぐらい席は離れていたのだから。

 それでもなんだかそう言われているような気がする。

 これは被害妄想だろうか?

 ぼくはどちらでも同じことだと思う。

 ドストエフスキーが、

「尊敬されるより、尊敬されるに値する人間でありたい」

 と書いていたような気がする(ひょっとしたら、書いてなかったかもしれない)。

 それで言えば、今のぼくたちは

「待って、何あれ」

「やばー」

 と引かれてしまうに値するのだから。

 ぼくは顔を元に戻した。

 芽衣子は笑ったままだった。

 確かに、少しだけ楽しい気持ちになれたと思う。

 ぼくはコーヒーを見た。

 コーヒーは、眠気を覚ますために飲む場合と、ただただ味わうために飲む場合とがあって、もちろん後者の場合の方が優雅だと言える。

 前者の場合は、もはや味なんかどうでもよいことになっていて、ぼくは以前、どうしても起きていたいときがあって、コーヒー豆をそのままぼりぼりと噛んで、舌がもげそうになった。

 それで、起きていても舌が変になっているので、大してしようと思っていた勉強がはかどらず、だらだらしているうちに寝てしまった。だからなんにも意味がなかった。

 なので極端はよくないなと思う。

 ここにただ普通のコーヒーがあることの喜びを意識する。

 コーヒーを飲んだ。

 その熱が体の中を下っていく感覚がとても心地いい。

 それじゃあお湯でもいいのかと言われるかもしれないが、それではダメで、この香りがあるからこそ心地よくなれる。

 体の表面もまた太陽にぽかぽか照らされていた。

 眠ってしまいそうだ。

 眠くなるためのコーヒーが一番美味しい。 

 さらにゆったりと座り直すと、椅子が小さく泣いた。

 芽衣子が弱くぼくの頰をはたいた。

 すると今度は目が冴えてまんまるになった。

 目が満月のようになった。

 そうか、月が欠けていくのは、まばたきをしているからなのかもしれないな。

「ずいぶん美味しそうに飲むわね」

 と芽衣子が顔をしかめる。

 この表情もまた無意味なのか、それとも本当なのか、一瞬迷った。

 ぼくは言った。

「コーヒーに嫉妬しているのかい?」

「気持ち悪い」

 と芽衣子が顔をプイとさせた。

 もうこれでいいよ、とぼくは思った。

 それはどういうことかと言うと、もう時間は流れなくていい。

 時間が流れたら、生老病死からは逃れられない。

 この瞬間、そっと世界が終わればいい。 

 あくまでも、この「そっと」が大事で、たとえばギロチンで処刑される人は、一瞬のことだから痛みを感じないらしい。

 だからと言って、囚人にとってギロチンというものは恐ろしいのだ。

 ギロチンが落ちるまでの瞬間まで、その恐ろしさはずっとあるわけなので、その間の時間の苦しみは味わわなければならない。

 だから前言撤回をする、結局ギロチンで処刑されることは痛い。

 知らない間に殺されるならば別だけど。

 ぼくは、世界が終わるというシチュエーションも同じことだと思っていて、知らない間に、そっと終わって欲しい。

 そのタイミングは今だ!

 だけど時間は流れている。それはコーヒーの湯気が揺れているのを見ればわかる。

 それからぼくは、ギロチンは本当は痛くないが、みんな痛いと思っていて、それがいつの間にか本当の痛みになるが、痛まなくていいようにすればいいんじゃないだろうか……といったことをぐるぐる思った。

 芽衣子は、いつの間にか目をつむってこくんこくんとしている。

「あんたを見ていると、眠たくなってくる」

 と芽衣子が言ったことがあった。ぼくが、間抜けに見えるから、つられて気が抜ける、ということかな。

「だから隣の席になって最悪ね」

 と続けて言われた。

 ぼくは聞いた。

「どうしてわざわざ見る必要があるんですか」

 すると芽衣子はハッとして、顔を赤らめて

「うるさいっ! ばか!」

 と言うところをぼくは期待したが、実際は、

「うーん……怖いもの見たさ?」

 と芽衣子が言ったのには参った。

 ええっ、ぼくって怖いのか、がーん! となって、その声がぼくの頭の中に反響した。 

 怖いもの見たさ? 怖いもの見たさ? 怖いもの見たさ?

「あんた、今のは冗談だって。真に受けないの」 

 と傷つけた芽衣子に今度は慰められた。

 気がつくと、目の前の芽衣子はもう目を覚ましている。

 今のは寝たふりだったのだろうか。

 それとも本当にものすごく短く眠ったのだろうか。

「おはよう」

「別に寝てないわ」

 と芽衣子が言う。

「じゃあ」

「ただ目を閉じていただけ。それだけ」

 ただ生きているだけ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 日常の気づきや思考が丁寧に描かれていて、自然と引き込まれていました。現在形といいますか、今現在を体験できる不思議な作品でした。どこか哲学的で面白かったです。 [一言] 読ませていただきあり…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ