ワールズエンド外伝
さあ、起きて! 悲しんでいる暇なんてないよ!
楽しもうじゃないか、この一瞬をさあ。
「生きるとは何か?」 そんなこと考えてちゃ、
死ぬぜ。
ーーUmar Khaiyam『Rubaiyat』
芽衣子は無意味に笑った。
そしてまたもとの真顔に戻った。
ぼくがまた無意味に笑わないだろうかと見ていると、芽衣子は無意味に顔をしかめた。
芽衣子はアランの『幸福論』を手に持っている、指であるページを挟んで。
それはぼくも読んだことがあった。それには確か、「楽しいから笑うのではない、笑うから楽しいのだ」といったことが書かれていた覚えがある。
もちろんアランはフランス語で書いているのだから、翻訳による誤差はあるだろうけれど。
アランの顔写真がその本には載っていたのを思いだす。
その顔が、何かをぐにゃぐにゃ言っているところをぼくは想像する。
もちろん「楽しいから笑うのではない、笑うから楽しいのだ」と言っているのだ。
ぼくは笑う。
芽衣子が、ぼくの方を向く。
そして二人で微笑みあった。
遠くの席で(というのも、ここはパン屋の外にある、買ったものを食べるためのスペースだった)、二人組の女性が、
「待って、何あれ」
「やばー」
とぼくたちの方を向いて言っている。いや、正確には、たぶんそう言っているような気がするだけだ。それぐらい席は離れていたのだから。
それでもなんだかそう言われているような気がする。
これは被害妄想だろうか?
ぼくはどちらでも同じことだと思う。
ドストエフスキーが、
「尊敬されるより、尊敬されるに値する人間でありたい」
と書いていたような気がする(ひょっとしたら、書いてなかったかもしれない)。
それで言えば、今のぼくたちは
「待って、何あれ」
「やばー」
と引かれてしまうに値するのだから。
ぼくは顔を元に戻した。
芽衣子は笑ったままだった。
確かに、少しだけ楽しい気持ちになれたと思う。
ぼくはコーヒーを見た。
コーヒーは、眠気を覚ますために飲む場合と、ただただ味わうために飲む場合とがあって、もちろん後者の場合の方が優雅だと言える。
前者の場合は、もはや味なんかどうでもよいことになっていて、ぼくは以前、どうしても起きていたいときがあって、コーヒー豆をそのままぼりぼりと噛んで、舌がもげそうになった。
それで、起きていても舌が変になっているので、大してしようと思っていた勉強がはかどらず、だらだらしているうちに寝てしまった。だからなんにも意味がなかった。
なので極端はよくないなと思う。
ここにただ普通のコーヒーがあることの喜びを意識する。
コーヒーを飲んだ。
その熱が体の中を下っていく感覚がとても心地いい。
それじゃあお湯でもいいのかと言われるかもしれないが、それではダメで、この香りがあるからこそ心地よくなれる。
体の表面もまた太陽にぽかぽか照らされていた。
眠ってしまいそうだ。
眠くなるためのコーヒーが一番美味しい。
さらにゆったりと座り直すと、椅子が小さく泣いた。
芽衣子が弱くぼくの頰をはたいた。
すると今度は目が冴えてまんまるになった。
目が満月のようになった。
そうか、月が欠けていくのは、まばたきをしているからなのかもしれないな。
「ずいぶん美味しそうに飲むわね」
と芽衣子が顔をしかめる。
この表情もまた無意味なのか、それとも本当なのか、一瞬迷った。
ぼくは言った。
「コーヒーに嫉妬しているのかい?」
「気持ち悪い」
と芽衣子が顔をプイとさせた。
もうこれでいいよ、とぼくは思った。
それはどういうことかと言うと、もう時間は流れなくていい。
時間が流れたら、生老病死からは逃れられない。
この瞬間、そっと世界が終わればいい。
あくまでも、この「そっと」が大事で、たとえばギロチンで処刑される人は、一瞬のことだから痛みを感じないらしい。
だからと言って、囚人にとってギロチンというものは恐ろしいのだ。
ギロチンが落ちるまでの瞬間まで、その恐ろしさはずっとあるわけなので、その間の時間の苦しみは味わわなければならない。
だから前言撤回をする、結局ギロチンで処刑されることは痛い。
知らない間に殺されるならば別だけど。
ぼくは、世界が終わるというシチュエーションも同じことだと思っていて、知らない間に、そっと終わって欲しい。
そのタイミングは今だ!
だけど時間は流れている。それはコーヒーの湯気が揺れているのを見ればわかる。
それからぼくは、ギロチンは本当は痛くないが、みんな痛いと思っていて、それがいつの間にか本当の痛みになるが、痛まなくていいようにすればいいんじゃないだろうか……といったことをぐるぐる思った。
芽衣子は、いつの間にか目をつむってこくんこくんとしている。
「あんたを見ていると、眠たくなってくる」
と芽衣子が言ったことがあった。ぼくが、間抜けに見えるから、つられて気が抜ける、ということかな。
「だから隣の席になって最悪ね」
と続けて言われた。
ぼくは聞いた。
「どうしてわざわざ見る必要があるんですか」
すると芽衣子はハッとして、顔を赤らめて
「うるさいっ! ばか!」
と言うところをぼくは期待したが、実際は、
「うーん……怖いもの見たさ?」
と芽衣子が言ったのには参った。
ええっ、ぼくって怖いのか、がーん! となって、その声がぼくの頭の中に反響した。
怖いもの見たさ? 怖いもの見たさ? 怖いもの見たさ?
「あんた、今のは冗談だって。真に受けないの」
と傷つけた芽衣子に今度は慰められた。
気がつくと、目の前の芽衣子はもう目を覚ましている。
今のは寝たふりだったのだろうか。
それとも本当にものすごく短く眠ったのだろうか。
「おはよう」
「別に寝てないわ」
と芽衣子が言う。
「じゃあ」
「ただ目を閉じていただけ。それだけ」
ただ生きているだけ。