チョコマフィンの恋
いつもと違う感じの小説が書きたくなりました。こっそり投稿です。お笑い要素はありません。
「紗英。あんた、栄斗君の事、死ぬほど嫌いなんだって?」
パートから帰って来たお母さんが、したたり落ちる汗をしきりにハンカチタオルでぬぐいながら、疲れた口調で言った。
あたしは、その時食べていたチョコマフィンを床に落とした。
「こら、紗英! 落とすなんて縁起が悪いじゃないの!」
私が落としたチョコマフィンを拾いながら、高校生のお姉ちゃんが目を吊り上げる。このチョコマフィンは、お姉ちゃんが彼氏の誕生日にプレゼントするために作った試作品だ。
「これで振られたら、紗英のせいだからね」
お姉ちゃんは目を吊り上げる。でもお母さんに「あら、おいしそう」なんて言われると、すぐに機嫌を直した。
「お母さんも、私の作ったチョコマフィン食べてよ。で、感想を聞かせて!」
「あら、じゃあアイスコーヒーも入れてくれる? 冷蔵庫にまだあったでしょ? ガムシロはいらないから氷と牛乳を多めでお願いね。ふう、暑い暑い……」
「りょうか~い」
お姉ちゃんは、弾むような足取りでキッチンに向かった。
お母さんはダイニングテーブルのいつもの席に座る。そしてお姉ちゃんが、アイスコーヒーを入れる前だというのに、皿に並べられたチョコマフィンをちぎって食べ始めた。
「あら、こんな暑い時期にわざわざチョコマフィンだなんてって思ったけど、食べてみると案外美味しいわね」
「お母さん、なんで……」
「え? 何のことだっけ?」
「お母さんがさっき言ったことだよ!」
お母さんは、またチョコマフィンをちぎって口に入れた。
「栄斗君のこと?」
「……うん」
「ほら、お母さんのパート先、悠馬君のお母さんがいるでしょ。悠馬君のお母さん、栄斗君のお母さんと友達なんだって。だから悠馬君のお母さんが言ってたのよ。栄斗君が紗英のせいでひどく落ち込んでいるって」
「栄斗君が!?」
お母さんは、疲れたようにため息をついた。
「紗英……、どんなに栄斗君のこと嫌いか知らないけど、『死ぬほど嫌い』なんて言い過ぎよ。もう六年生だっていうのに、もっと思いやりの……」
そこから先は、もう耳に入らなかった。口の中は、さっき食べたチョコマフィンの味が口の中でひどく……ひどく苦かった。
◇◇◇
「さ~えっ!」
ほっぺをぎゅっと引っ張られて、思わずうめき声を上げた。下校時間を過ぎて、クラスには半分位しか生徒は残っていない。中学二年生にもなると、部活だけでなく塾にも通う子が多くて、ゆっくりしていられないのだ。そのクラスメートが、ちらりとこちらを見て笑う。
「もう、人の話聞いてるの?」
「え? ああ、聞いてる聞いてる。で、何の話しだっけ?」
「ほら、やっぱり聞いてない」
目の前の親友、一花はぷうっと頬を膨らませる。
「ごめん」
「それだけ?」
「えっと?」
「許して欲しいなら、何をぼんやり考え込んでいたか教えてよ」
「そんなんでいいの?」
「うん」
良かった。もうすぐ夏休みが近い。宿題を代わりにやってと言われるのではないかと心配していたところだ。
「大したことじゃないの。その……嫌いな食べ物の事」
「『嫌いな食べ物』? たしか……チョコマフィンだっけ?」
「うん」
「でも、紗英はチョコもマフィンも好きだよね? なんでチョコマフィンだけ嫌いなの?」
紗英は、中学校に入ってからできた友達だ。うちの小学校からただ一人、公立の中高一貫校に行った栄斗の事を知らない。どう説明すればいいのか、考えながらゆっくり話す。
「それは……前に、お姉ちゃんがチョコマフィンを作った時に……」
「え? 待って、お姉さんが作ったチョコマフィンを食べて嫌いになっちゃったってこと?」
「まあ……」
「あの美人のお姉さんに、そんな欠点があったなんて……」
「欠点?」
「うん。お姉さんのチョコマフィンがマズすぎて、チョコマフィンを嫌いになっちゃたんでしょ?」
「え? そういうわけじゃ……」
その時、廊下の方から一花を呼ぶ声がした。とたんにクラスにいた生徒が、にやにやする。一花はぱあっと顔を輝かせた。そして頬をピンクに染める。
「紗英、私、おかしなところない?」
「ないない。いつも通り、かわいいよ」
実際、一花はとてもかわいかった。外国人のような大きな目、通った鼻筋に、ピンクの唇。うちの中学は髪型に厳しい方なのだが、ちゃんとした美容院で切ってもらっている一花は、エアリーなボブカットで素晴らしく可愛らしい。
私はというと、「お姉ちゃんは美人なのに……」と残念な視線を向けられる地味顔だ。長く伸ばした髪をポニーテールにしている。これならうちの近くでおばちゃんがやってる美容院で月に一回、前髪カットだけすればいい。前髪カット代は、たった500円だ。
「ねえ、紗英、今日は彼の友達も一緒に来てるの。塾が始まるまででもいいから、みんなで少し話そうよ」
「いいってば。知らない人苦手だし。ほら、行ってきなよ」
「でも……」
「ほら、彼氏待ってるよ。バイバイ」
一花は残念そうに肩をすくめた後、弾むような足取りで、スカートの裾を翻して彼氏のもとに向かった。一花と合流した彼氏と、その友達は私に手を振る。私もつられて手を振り返した。
取り残された私は、少し寂しさを感じるものの、そんなものだと思うことにしている。まわりを見れば、恋愛に過剰反応をする小学生の頃と違いクラスの半分は好きな人がいて、そのうち何人かは彼氏彼女がいた。
ふうっとため息をつく。好きな人と一緒にいられる一花がうらやましい。
「おいおい、ため息なんかついちゃって。独り身が寂しいってか?」
後ろから声がかかった。この声とちゃかすような内容は、見なくても相手が誰だか分かる。でも睨みつけるために、ざわざわ後ろを向けば、案の定、野球部のユニフォームを着た坊主頭の猿がいた。
「ゆうまあああ!」
「そうこわい顔すんなよ。ホントのこと言われたからって」
炎天下で日々、ボールを追っている悠馬は真っ黒に日焼けしている。目と歯だけが白い顔はにニヤニヤと笑っていた。
「ホントのことですって? 誰が寂しいっていうの⁉」
「紗英に決まってるだろ。お前も姉ちゃん位美人か、一花ちゃん位かわいけりゃ引き取り手もあっただろうに、残念だなあ」
「猿顔のあんたにだけは言われたくない!」
「こわいこわい。こりゃ、逃げるが得だね」
悠馬は自分の机から、カバンをさっとひったくり野球部で鍛えたダッシュ力で逃げて行った。どうやら、部活に行ったものの、カバンを教室に忘れて戻って来ただけのようだ。
悠馬は小学校の時から同級生だ。いつもあんな風にちょっかいをかけてくる。お調子者で、口の悪い悠馬はいつも男子の友達に囲まれてはいたが、女子からの人気はない。あんな調子の悠馬だが、中学生活最後の試合に向けて真剣に練習している姿を塾へ行く途中で見かける。その時ばかりは少し見直すのだが、またこうしてからかわれると、やっぱり天敵だと思ってしまう。
そう……あの時も、悠馬にからかわれなかったら、チョコマフィンを嫌いにならなくて済んだのかもしれない。
◇◇◇
小学六年生の時、女の子にとてもモテる男の子がクラスにいた。栄斗君。優しくて、頭がすごく良くて、雑誌のモデルさんみたいにカッコいい男の子。面白い男の子や足の速い男の子がモテるなんていうのは一昔前の話だ。今は、優しくてカッコいい男の子がモテる。女子同士で「誰が好き?」って話しになったら、栄斗君の名前が一番多く挙がる。そして、好きな男の子の話で盛り上がるのだ。
でも私は、そういう話になるといつも輪から外れてしまった。まだ「好き」っていう気持ちを分からなかったから……。その頃の私といったら、髪型もショートカットで痩せていて、少しも女の子らしくなかった。
夏がいよいよ本格的になってきたという土曜日の午後、私は近くのコンビニで買ったアイスを食べながら歩いていた。帰ったら、また家でゴロゴロするのがその日の予定だった。
「あれ……?」
角を曲がると、深く帽子をかぶった男の子の背中が見えた。この時期、帽子をかぶっているのはそんなにおかしなことじゃない。でもその態度が不審だった。チラリチラリと周りを見て進んでは、電柱の陰に隠れて、すぐにうつむく。
「栄斗君?」
栄斗君は後ろから話しかけられて、ぎょっとしたように飛び跳ね、帽子を落としてしまった。慌てて帽子を拾い上げて、かぶり直すが、もう遅い。私は、しっかり見てしまった。
「紗英ちゃん!」
「……どうしたの? その髪型……」
「……」
確か昨日まではちょっと前髪長めだけど、普通の髪型だったはず。今は、その帽子の下の髪型は前髪が大きく円形を描くようにジグザグ斜めになっていて、……正直、変だ。
「さっき、姉ちゃんにやられた。俺、親にもらったヘアカット代でマンガの最新刊を買っちゃって……。そしたら、俺の姉ちゃんがシャイニーズJr.みたいにしてやるからって言って……」
シャイニーズJr.は、小学生の女の子憧れのアイドルグループだ。そこから何人もグループを巣立って、独り立ちして歌手に俳優にと実力を発揮している。
確かに、シャイニーズJr.の中には前髪を大きく円形を描くように斜めにカットした子がいる。次に巣立つんじゃないかって噂の人気者だ。
栄斗君もシャイニーズJr.なんて気にするんだと思うと、親近感を覚えた。つい同情的な言葉が口をつく。
「ああ……分かるよ、それ。うちにも悪魔みたいな姉がいるから」
「紗英ちゃんちにも姉ちゃん、いるの?」
「うん」
お姉ちゃんという種族は、恐ろしいものである。雑誌のヘア特集なんて読んだら、実験をせずにはいられない。断ろうとしても、取引あり、脅しあり、賄賂ありで、結局お姉ちゃんのしたいようにしてしまうのだ。うちのお姉ちゃんは、まだ髪を編んだり結んだりなの、引っ張られて痛い思いをするだけですむけれど。栄斗君のお姉ちゃんは、ハサミを持ち出したのだろう。ご愁傷様なことだ。
「それで、こんなところでどうしたの?」
「姉ちゃんは、このままで大丈夫なんて言うけど、ちゃんとカットしなおしたいんだ。でも小遣いは残ってないし、親にマンガを買ったことはれたくないんだ。受験だなんだって、うるさいから」
「栄斗君、中学受験するの⁉」
「親が乗り気なんだよ。隣の市に公立の中高一貫校ができるだろ? 今なら、そこまで倍率が激しくないからって……」
「そうなんだ……大変だね」
「だから、なおさらマンガのことなんてばれたくないんだよ」
「怒られちゃうもんね」
「それでいろんなところを探して、やっとこれがカバンの底から出て来たんだ」
そう言って見せてくれたのは500円玉だった。
「500円? もしかして前髪500円カットのお店を探しているの? それなら知ってるよ。うちのすぐそばだよ」
「ホント? 案内してくれよ」
お店まで、マンガの話や、「姉」という種族の恐ろしさを語り合った。栄斗君が買ったマンガが私も読みたい本だと言うと、シリーズの1巻から貸してくれるという約束をしてくれた。学校では優しそうな雰囲気の栄斗君が、こんな風に話すなんて意外だった。栄斗君を好きだって言っている子たちは、こんな栄斗君のことを知っているのかな? そんな風に考えると、得意気になり、思わず胸がドキドキした。
そして美容院に到着した。
昔ながらのカランコロンと音の鳴る扉を開けると、エアコンの冷たい風が当たって気持ちがいい。お店に、お店にお客さんは誰もいなくて、鏡の前の美容台にふくよかなお店のおばちゃんが女性雑誌を読みふけっていた。
「いらっしゃ~い。あら、紗英ちゃん。今日は彼氏も一緒?」
おばさんが、陽気な声を掛けてくる。私は、胸のドキドキを見透かされたようで、思わず焦りから声を荒げた。
「おばちゃん、彼氏じゃないってば! ただのクラスメイト!」
「そんなこと言っちゃって」
「もう! それよりおばちゃん、栄斗君の髪をなんとかしてくれない? 前髪カットで」
「前髪?」
栄斗君は恥ずかしそうに、帽子を脱いだ。
「ありゃあ、こりゃやっちゃったね~。ここまで切っちゃうと、とても前髪カットだけじゃどうにもならないよ」
おばちゃんは、栄斗君の短くなった髪を小さな束にして持ち上げながら、首を振った。
「でも全体をカットするお金を持ってないんです。なんとか、前髪カットだけで直してもらえませんか?」
栄斗君も、手を組み合わせて必死におばちゃんにお願いしている。
「うう~ん。でも、これじゃあねえ……。こっちも客商売だから、君を特別扱いにするわけにもいかないし……。あ、そうだ!」
おばちゃんは、急にお店と自宅をつなぐ扉を開けて、「たかふみ~」と名前を呼んだ。
「ちょっと待っててね。息子が来るから」
「『息子』さん?」
「あれあれ、紗英ちゃんは隆文と会うのは初めてかい?」
「はい。娘さんには切ってもらったことありますけれど」
「ああ、隆文は弟さ」
おばちゃんにどうして隆文さんを呼んだのか聞こうとしたときに、バタバタっと階段を下りてくる音がした。
「来た来た。お~い、たかふみ~、お客さんだよ~」
「お客さん?」
扉から現れたのは、ふっくらとして美容師さんでありながらあまり化粧もしていないおばちゃんの息子さんとは思えないような、髪型も服装もカッコよくキメた長身で細身の男の人だった。なんだかカッコいい猫のように動く。
おばちゃんは、隆文さんの腕をひっぱって私達の前に連れて来た。
「隆文はね、東京の有名な美容院でアシスタントをしているんだよ。あ、アシスタントっていうのは美容師の資格はもっているけど、まだ修行中でお客さんの髪を切れない人のことをいうのさ。まあ、髪を洗ったり、パーマのロッドを巻く手伝いとかしてるんだよ」
「へえええ……」
私だけじゃなくて栄斗君も隆文さんのことをカッコいいと思ったみたいで、隆文さんを見つめる目がきらきらしている。
そんな私達の視線をうけて、隆文さんは少し照れたような顔をした。
「それで母ちゃん、何の用? お客さんって何さ?」
「ああ、実はねこの男の子の髪の毛を、あんたがカットし直してくれないかと思って。ほら、あんたカットモデルを探してるって言っていただろ。別に自分のお店じゃなくて、うちの店でもカットすればいいじゃないか?」
「はああ?」
隆文さんは、素っ頓狂な声を上げたが、栄斗君の髪型を見るとすぐに真面目な顔になった。
「君、どうしたの、それ? まさか自分で切ったの?」
「違います! ……姉ちゃんに」
「そうか……。分かるよ。『姉』の酷さは」
ここでも「姉」という種族の恐ろしさは魂に染み込んだ者がいるようだった。
「それにしてもひどい髪型になったもんだね」
隆文さんは、栄斗君の毛先がばらばらになった髪の毛をツンツンと引っ張った。
「あの、カットモデルって何ですか?」
私は思い切って声を上げた。それに隆文さんが答えてくれた。
「ああ、カットモデルって言うのはね、俺みたいな新人美容師のカットの練習台になってもらう人のことだよ」
「練習台⁉」
栄斗君は、ぎょっとしたように首を引っ込めた。それを見ておばちゃんはクスリと笑った。
「おやおや、心配しなくていいよ。隆文の腕は、母親の私が言うのもなんだけど、まあまあだからさ。それでカット代はタダなんだから、君にはちょうどいいだろ?」
栄斗君は「タダ」という言葉を聞いて、心が揺らいだようだった。
「どうする? その髪型のまま帰ってもいいんだよ」
隆文さんが言うと、栄斗君は思い出したように頭を手で押さえて、「うーん」と一回だけ呟いた。そして起立、礼のポーズを取り、頭を下げたまま大きな声で言った。
「お願いします。髪を切って下さい!」
「任しときな!」
隆文さんは、あっという間に美容台に栄斗君を載せてケープを着せた。そして鏡に映った栄斗君の髪をクシで撫でつけている。
「そっちの彼女ちゃんは、彼氏君にはどんな髪型にして欲しい?」
隆文さんは、鏡から目を離さずに私に聞いた。私の胸はまたもやざわついた。
「か、彼女なんかじゃありません!」
「え? 彼女じゃないの? それじゃあ、ただの友達?」
隆文さんは、私の方を振り返った。おばちゃんは、隆文さんの後ろでにやにや笑っている。とたんに、からかわれた時のような恥ずかしさと苛立ちが襲ってきた。
「栄斗君は友達どころか、ただのクラスメートです!」
「あ、そう。それならそれでもいいや。で、栄斗君が名前でいい? そう。じゃあ、栄斗君はどんな髪型が似合うと思う?」
「え……?」
てっきり、さらにからかわれるのかと思っていたのに、あっさりと流されたことに肩透かしをくらって、どう返事をしていいか分からなくなった。なんだか腹立たしくなって、口をもごもごさせていると、私の肩におばちゃんの手がポンと置かれた。
「笑ったりしてすまなかったね」
「……私、帰ります! 道案内しただけだし!」
「えっ? ちょっと……」
私はおばちゃんの声を振り切って、カランコロンと鳴る扉を叩くように開けて走って逃げた。夏の突き刺すような日差しが痛い。何に腹を立てて逃げ出したのか、自分でもよく分からなかった。
月曜日、気が重いまま登校した。すると、すぐに優香が駆け寄ってきた。いつも「一番栄斗君を好きなのは、この私」と言っている友達だ。
「紗英ちゃん、おはよー! ねえ、見た? 栄斗君の髪型。すっごくカッコいいよ!」
「へえ」
「なによ紗英ちゃん、その気の抜けた返事は!」
「うん……」
ノリの悪い私に愛想をつかして、優香は別の友達のところへ行き、栄斗君の髪型の話をし始めた。私はランドセルを自分のロッカーに放り込んで、どかりと自分の席に座り込む。そして机に突っ伏した。
(今日、栄斗君とどうやって話したらいいんだろう……)
目を閉じていると、私の髪をツンツンと引っ張る人がいる。無視しても、しつこく引っ張られる。
……こんなことをするのは、悠馬しかいない。まったく、あいつときたらチビのくせに態度がでかくて、お調子者で悪ふざけが好きなんだから! そう思ったら、悩みの代わりにふつふつと怒りがわいてきた。
「ゆうまあああ! ……え?」
「え?」
がバッと頭を上げると、目の前にいたのは悠馬ではなく栄斗君だった。栄斗君は私のことを見て目を丸くしている。
「あの……紗英ちゃん、おはよう」
「……」
「紗英ちゃん?」
「あ! お、おはよう栄斗君! ど、どうしたの?」
「ああ、一昨日の隆文さんのカット……」
「ストップ!」
「え?」
私は周りをキョロキョロと見回した。みんな自分の友達と話をしているふりをしているけれど、私と栄斗君の話に聞き耳を立てているのはまる分かりだった。特に、栄斗君のことを好きな子の目が怖い。こんなところで、土曜日に一緒に美容院に行った話なんてできない。
「栄斗君、その話はまた後で! ね! ね! お願い!」
手を合わせてお願いすれば、栄斗君は不思議そうな顔をしながらも頷いてくれた。そして掃除の時間、本当に人目がないところで、隆文さんの話をしてくれた。私がいなくなってから聞いた、東京の有名カットサロンの裏話など、カットの腕がいいだけじゃなくて話もおもしろく、栄斗君はすっかり隆文さんに憧れたそうだ。それに、こっそりマンガを貸してくれた。
その日から、人目を避けて、お互いのマンガを貸し借りしたり、好きな食べ物、飲み物の話をしたり、怖い『姉』の話をしたりした。栄斗君と一緒にいる時は、いつも楽しくて、胸がドキドキした。
でもそんな二人だけの小さな世界が他人に見つからないわけはなかった。
「おい、紗英。お前、栄斗が好きなんだろう?」
坊主頭に猿のような顔でニヤニヤと笑う悠馬が言った。一学期の終業式を終えた教室は、もう夏休みに入っているかのような浮ついた雰囲気があって、栄斗君はいなかったけれど、クラスの半分くらいの人がこっちを見た。
「ち、違うよ~。もう、何を言っているの、悠馬ったら」
頬が熱くなるのを感じながらも、否定する。
「だって、お前ら、よくコソコソと二人でしゃべってるじゃん。好きなら好きって言えよ~」
「だから、違うって!!」
すると、思わぬ方向から横やりが入った。
「え? 紗英ちゃん、栄斗君を好きなの? なんで! 好きになっちゃダメって言ったじゃない」
「優香ちゃん……」
それは、「一番栄斗君を好きなのは、この私」といつも言っている友達だった。いつも冗談のように、他の子に「栄斗君を好きになっちゃダメ」って言っていた。ただ面白がっている悠馬とは違う。今までに見たこともないくらい冷たい優香ちゃんの視線に、私の心臓はバクバクと音を立てる。
悠馬は、優香ちゃんの様子に気付かなかったのか、猿顔をさらにだらしなくゆるめた。
「何だよお、さーえ! 好きなら、付き合っちゃえよ」
悠馬は調子にのって「紗英は栄斗をアイラブユー」と半ば歌うように繰り返しながら、教室中をぴょんぴょん飛び跳ね始めた。
「そうじゃ……ちが……」
悠馬にからかわれて、恥ずかしさと苛立ちがつのる。一方、優香ちゃんに睨まれて、怖くて、どうしたらいいのか分からない。一生懸命「違う」って言おうとしているのに、声にならない。美容院でしたように、逃げ出そうにも教室の前後にある二つの扉の前には、たくさんの人がいて私を見てこそニヤニヤしながら、こそこそ話をしている。
「紗英は栄斗をアイラブユー」という悠馬の声が頭にガンガン響いた。
「や、やめててば! 私は栄斗君なんか好きじゃない! 栄斗君なんて『死ぬほど嫌い』なんだから!」
私の絶叫に、教室の中はシーンと静まり返った。悠馬でさえ、目を真ん丸にして、変なものを飲み込んだような顔をしている。
その時に、教室の前の扉がガラガラと音を立てて開いた。
「おーい、通知表返すぞ~」
担任の先生が、入ってくる。その後ろには栄斗君が返却物を両手に抱えて立っていた。いつも通りの優しそうな顔からは、さっきの騒ぎが聞こえていたかどうか分からない。私は、その後ずっと、栄斗君の顔を見ることができなかった。
それから、夏休みに突入して、何事もなく数日が過ぎた。
栄斗君は何も言わなかった。だから、栄斗君は私の言葉なんて聞いていないんだって思い込んでいた。お姉ちゃんのチョコマフィンを食べている時に、お母さんから栄斗君が『死ぬほど嫌い』って言葉を聞いて落ち込んでいるって知るまでは。
その時からだ。チョコマフィンが私の嫌いな食べ物になったのは。その時、初めて私は栄斗君を好きなんだって気が付いた。
そしてそのまま二学期、三学期を迎え、特に栄斗君と話すこともなく、栄斗君は中高一貫校へ、私は地元の公立中学に入学した。
◇◇◇
「来年の今頃は高校生か……」
高校なんて想像もつかない。志望校は特に決めていないれど、親に勧められるままに塾通いはしていた。地元では、評判のいい塾で、何人も偏差値の高い学校にも進学させている。とはいっても、それはその塾の中の特別進学クラスからだ。紗英が行っているような、普通の進学クラスとはレベルもスピードも違う。
そんな特別進学クラスの人たちが、授業が始まる前から机にしがみつき必死で問題を解いている姿を横目に、自分のクラスへ向かう。
「紗英ちゃん?」
「え?」
振り向くと、そこには……。
「栄斗君!」
懐かしそうな顔をして、栄斗君は私との距離を縮める。思わず、私は一歩後ろに下がってしまった。
「あ……」
栄斗君は、頭をポリッとかいて、困ったように微笑んだ。そして足の方向を変える。
「ごめんね。久しぶりだったから、つい……。バイバイ、紗英ちゃん」
「待って!」
私は思わず、栄斗君の制服のジャケットの背中の真ん中を握り締めていた。びっくりしたように栄斗君が振り返る。
「紗英ちゃん?」
「あ、あの……」
その時、塾のチャイムが鳴った。
「ごめんね、紗英ちゃん。今日、僕は体験授業で来てるんだ。だから授業には出なくちゃ……」
私は手を放した。栄斗君のジャケットにシワが残る。
「う……うん。こっちこそ、ごめんね」
「うん。またね」
「……またね」
私は栄斗君が特別進学クラスの扉をくぐるのを見送って、自分のクラスに行った。でも今日の授業は何一つ頭に入らない。特に熱血でもない講師の授業はたんたんと進み、その間私は、栄斗君のことを考え続けた。
授業が終わり、のろのろと片づけをして教室の外に出ると、壁に寄っかかって参考書を読んでいる栄斗君がいた。
「栄斗君……」
「あ、紗英ちゃん」
栄斗君は、参考書をパタリと閉じた。改めて見る栄斗君は、小学生の頃より当然だけど身長も伸びて、大人っぽくなっていた。髪だって一花みたいに、普通の髪型なのに、何故かきまっている。私が髪を見ていたのに気が付いたのか、栄斗君は照れたようにまた頭をポリッとかいた。
「隆文さんに切ってもらっているんだ」
「隆文さんに?」
「ああ、東京の有名カットサロンを辞めて、こっちに戻ってきてるんだよ。知らなかった?」
「うん、全然。おばちゃん、そんなこと言ってなかったし……」
「そっか。紗英ちゃんは、ずいぶん髪が伸びたね」
「うん……」
私はポニーテールの先っぽを手で撫でた。
なんでこんな、何もなかったように話しているんだろう? もう「死ぬほど嫌い」の件から三年も経ったからなのかな……。
「帰る?」
「……うん」
帰り道は栄斗君が主に話してくれた。なんでも、中高一貫校の勉強は一般の中学よりもずいぶん進んでいいるようだ。周りが優秀な子ばかりなので、塾通いもしなくてはいけない。今まで通っていた塾は、自宅から一時間近くかかる学校の近くで、通学時間と合わせると帰宅が夜の九時を過ぎてしまうから、地元の塾を探しているのだそうだ。
「あのさ、この塾に通うことにしたらまた会える?」
「え?」
「なんでもない。またね」
気付けば、もう私の家のすぐ近くだった。栄斗君のうちは方向が違うはずなのに……。
「送ってくれたんだ……」
なんだか、くすぐったい気持ちになった。でも、栄斗君は何を考えているんだろう。次の塾の日が待ち遠しくなった。
でも、次の塾の日も、その次の塾の日も栄斗君は現れなかった。やっぱり、栄斗君は私のことを許してくれていなかったのかな? それとも、新手の嫌がらせ? 仕返し? ううん、栄斗君はそんな人じゃない。
うつうつとした気持ちは学校でも続いた。
「紗英、どうしたの? 最近、元気ないよ。もうすぐ中学最後の夏休みだっていうのに」
「一花……」
今日も一花はとてもかわいい。透明なリップクリームを塗っているだけなのに、さくらんぼ色の唇はつやつや輝いている。
「分かった。恋わずらいってやつでしょ? 好きな人できた?」
「そんなんじゃ……」
そこで言葉がつまってしまった。「そんなんじゃない」とは言い切れなかった。私は再会してから、ずっと栄斗君の事ばかり考えていたから。
「え! 紗英、本当に好きな人できたの? 私の知ってる人? ねえ、誰?」
「知らない人」
「うわ……知らない人ってことは、この学校じゃないんだ。そっか……まいったなあ……」
一花は困ったように腕を組むが、何を困ることがあるのだろうか?
「紗英の好きな人って、どんな人?」
どんな風に一花に話たらいいんだろう。私が知っているのは三年前のまだ小学生だった栄斗君で、今の栄斗君の事なんか何も知らないのに。第一、私は栄斗君をまだ好きなの?
「……」
「いいよ。紗英がその気になったら、ちゃんと話してね」
一花は、片目をつぶった。一花のこういうところが大好きだ。無理に聞き出そうとしないで、こっちが話たくなるまで待っていてくれる。もう私達は自分の気持ちを押し付けるだけの子供じゃない。ちゃんと、相手の気持ちを思いやれるくらい大人になっていたんだ。
「うん。その時は、話を聞いてね」
一花と話して、少し心が軽くなった。その時、クラスの後ろの方で、男子の馬鹿笑いが聞こえた。その中心にいるのは悠馬だ。そうだ、悠馬なら今の栄斗君のことを知っているかもしれない。お母さんと同士が友達だって言っていたもの。
もしかしたら、また悠馬にからかわれるかもしれないけど、でも栄斗君のことを知りたい。私は、その日、悠馬に話しかけるタイミングを計っていた。
放課後、になってやっとそのタイミングが来た。またカバンを忘れて部室に行こうとした悠馬を廊下で呼び止めて、カバンを手渡してあげたのだ。
「おお! サンキュ、紗英!」
「ううん。ねえ、悠馬、ちょっと聞きたいことがあるんだけれど……」
「あん? 何だよ」
「その……栄斗君のことなんだけど……」
「栄斗!」
「うん……」
悠馬は気まずげに、目をあらぬ方向に向けた。
「今さら、なんだよ。お前、『あの件』以来、栄斗と話してなかっただろ。なんかあったのか?」
悠馬の言い方から、悠馬自身もあの「死ぬほど嫌い」と私が言った件をまだ覚えていることが分かった。
「うん……実は……」
廊下で話していたのが悪かった。思わぬ乱入者が現れたのだ。
「栄斗君⁉ 二人とも栄斗君の話してた?」
「え……?」
「懐かしいなあ、栄斗君。私、小学生の頃、栄斗君好きだったよね~。かっこよかったもんね~」
それは「あの件」で、私を責めた友達の優香だった。夏休みが終わり、栄斗君と私が話すことが無くなったので、特に私と優香の仲が険悪になることはなかったけれど、優香は私に栄斗君の話をしなくなった。栄斗君と中学が別になり、優香にとってっては栄斗君のこともすっかり思い出になったようだ。今では同じクラスの彼氏と仲良く下校している姿を時々見かける。
「あ、栄斗君と言えば、この前、ママが彼女と歩いているところを見たんだって~」
「栄斗に彼女なんかいないぞ!」
悠馬が、チラリと私を見て、優香に反論する。それを優香は、ひらりとかわす。
「最近できたんじゃない?」
遠くで優香を呼ぶ友達に気付くと、私達に「バイバイ」と言って走って行った。
「紗英……」
「あ、ごめんね。私も塾に行かなくちゃ。じゃあ、部活頑張って!」
私も悠馬を残して、廊下を走った。頭の中には「彼女」という言葉がガンガンと響いている。
そっか……、栄斗君、彼女いたんだ……。
同じ中高一貫校の制服を着た頭の良さそうな女子が、栄斗君と歩いている姿を想像してしまった。二人は互いに見つめあって笑いあっている。
胸が苦しくなった。……私、まだ栄斗君のことを好きだったんだ。
◇◇◇
その日は塾に向かう足取りが重かった。
「紗英ちゃん!」
こんな日に限って、栄斗君が現れる。笑顔が眩しかった。
「紗英ちゃん、俺、ここの塾の夏期講習に通うことにしたよ。で、二学期からこっちの塾のクラスに移るんだ。今日は手続きなんだ」
「夏期講習?」
「そう。あれ、言ってなかったっけ? 夏期講習からこっちの塾に移るって」
そうか、だからこの前以来、いくら探しても栄斗君いなかったんだ……。よく考えたら、一学期の終わりに塾を変わるとかってないよね。仕返しだなんて、変なこと考えちゃった。栄斗君、そんなことする人じゃないのに。
「もしかて、あれから俺と会うの期待していたとか?」
「え……?」
私、確かに栄斗君と会えるのを期待していた。また会って話をしたいって思っていた。栄斗君に見透かされている。恥ずかしい!
「え? 紗英ちゃん?」
私は逃げ出した。美容院で逃げ出したように……。そうか、あの時も私はからかわれて怒ったから逃げたんじゃない、恥ずかしかったから逃げたんだ……。
どのくらい走っただろう。私は息が切れて、近くの公園のベンチに体を投げ出した……。
栄斗君、あきれたかな……?
「はぁはぁ……紗英ちゃんって、案外、足が速いんだね」
「栄斗君!!」
栄斗君は、私の隣にドサッと座り込んだ。
「栄斗君、塾は?」
「今日は手続きだけだから大丈夫。紗英ちゃんはさぼりになっちゃうけどいいの?」
「……」
公園の時計を見ると、入室許可時間は過ぎていた。その時間を過ぎると、うちの塾は途中入室はできないのだ。
「あのさ……」
「栄斗君、彼女いるんだって? 同じ学校の子? いいな頭がいい同士のカップルなんて!」
「え? なんのこと?」
私は下を向いたまま、栄斗君の顔を見ずに、弾丸のようにしゃべりまくる。
「もう中学三年生だもんね、彼女くらいいるよね。きっとかわいいんだろうな。それとも美人タイプかな」
「ちょっと待って、待って! 紗英ちゃん、本当になんの話? 俺、よく分からないんだけど」
「やだなあ、優香のママが見ていたんだって、栄斗君が彼女と歩いているところを」
「俺、彼女なんていたことないよ。今まで一度も……」
「え?」
思わず、顔を上げれば、予想以上に近い距離に栄斗君の顔があった。
「俺、彼女なんていないよ」
「いないの?」
「うん。それどころか、女の子と二人で歩いたのだって紗英ちゃんとだけだもん」
「でも優香のママが女の子と歩いているところを見たって……」
「だから、それ紗英ちゃんなんじゃないの?」
「私?」
「うん。この前の塾の帰り」
「あ……」
あの日、優香のママに見られたのだろうか。
「ちょっと、待ってて、俺、腹減ったからコンビニで何か買ってくる。その間に考えを整理していてよ」
「うん……」
考えを整理してと言われても、何を整理したらいいんだろう……。栄斗君に聞きたかったこと? 栄斗君に話したかったこと? あ……、栄斗君に謝りたかったこと。
少しすると、栄斗君がコンビニの袋を手に戻ってきた。
「はい、これ」
差し出されたジュースは、三年前に二人で話していた時に私が好きだって言ったジュースだ。覚えてくれていたんだと思うと、嬉しくなった。
「あ、お金……」
「いいって。もう、月初めにマンガを買い込んでお小遣いがなくなった子供じゃないんだから」
「ぷっ! それって……」
「小学生の頃の俺さ」
栄斗君の一言で、緊張が取れた。そして私はがバッと頭を下げる。
「あの時『死ぬほど嫌い』なんて言ってごめんなさい」
下げた頭の上から、栄斗君のため息が聞こえた。
「分かってるって」
「え?」
思ってもいなかった言葉に、私は思わず顔を上げた。
「あの時のことは悠馬から聞いた。あいつ、あれで反省してんだよ」
「悠馬が?」
悠馬が反省していたなんて、いつものあの調子からすると全然想像もつかない。
「まあ、確かに落ち込んだ。でも夏休みから受験勉強が本格化してさ、それどころじゃなくなったんだよ。こっちこそごめんね。ちゃんと話せばよかったね」
「栄斗君は、謝る必要なんてないよ」
栄斗君は、少し緊張した顔をした。
「実はさ、悠馬に連絡をもらったんだ。紗英ちゃんを狙ってるやつがいるって」
「狙ってる? 何の事?」
「あ、知らなかったなら、今の聞かなかったことにして!」
「え……うん」
「ともかく悠馬の話を聞いて、俺、よく分からないけど慌てちゃってさ。それからは、塾を移りたいって親を説得するのが大変だったよ」
「何で、悠馬の話から塾を移る話になるの?」
「それは……その……、同じ塾になれば紗英ちゃんと会えると思ってさ……」
栄斗君の顔は真っ赤だ。多分、私の顔も赤いだろう。
「暑いね! ジュース、ぬるくなっちゃうから早く飲もう!」
栄斗君はビニール袋に、また手を突っ込む。
「あ、腹減ったから、俺の好物も買って来たんだ」
「チョコマフィン……」
「紗英ちゃんも好き? 夏だから、アイスとかゼリーもいいんだけど、それじゃ腹にたまらないんだよね。だから、俺、これが好きなんだ」
「……」
最後にチョコマフィンを食べてから三年も経っていた。私は、栄斗君にもらったチョコマフィンを口にほおばる。
「おいしい……」
「だろ?」
チョコマフィンを食べても、口の中は苦くなかった。
「栄斗君……」
「何?」
「今も、昔も栄斗君のことを好きです」
「!!」
栄斗君は顔を真っ赤にさせて、口をパクパクする。つい、ふふっと笑いがもれた。
今度、お姉ちゃんにチョコマフィンの作り方を教えてもらわなくちゃ!