好き。好き。大好きだよイーノック
イーノックは仕切り直すように一度咳払いをして説明をしてくれた。
「あの先頭にいるのは群れの中で一番力強く飛べるリーダーだって家庭教師の先生が言ってた。誰よりも強いから先頭で風を切りながら羽ばたいている。他の個体はリーダーの羽ばたきで少し風が弱くなったポジションを飛んで少しだけ楽が出来るんだ。だから渡り鳥はあんなふうにV字隊列を組んでいるらしいよ」
イーノックははるか遠くをゆっくりと移動する渡り鳥を眺めながら目を細めた。
「姉ちゃんは次期当主だけど、実務はとっくに姉ちゃんが取り仕切っているし、私兵騎士団の団長という立場でヒヨコ騎士団を率いている。メルセデス姉ちゃんがそんな重い立場にいるのは姉ちゃんが誰よりも優秀で誰よりも強いから、まるであの鳥の群れの先頭で羽ばたく鳥のように姉ちゃんは姉ちゃんに相応しいポジションに立たされているんだって思っている」
鳥たちから目を離して私に向き直ったイーノックの目には純粋に私の事を案じている気持ちが込められていて、今日の空のような薄青色の瞳にはどこか不安気な揺らぎがあった。
「あの鳥の群れを率いるリーダーは誰よりも強いのかもしれないけれど、決して疲れないわけじゃない。それはメルセデス姉ちゃんにも言えることだよ。メルセデス姉ちゃんにはね、ゆっくりと羽休めができる『癒しの泉』が必要だと俺は思っている」
イーノックは私が負担に感じないようにへらりと気の抜ける微笑みを浮かべて、まるで雛を守る親鳥のように私をじっと見つめた。
「メルセデス姉ちゃんが『癒しの日』を続けたいなら俺はそれでいいと思う。だって俺は姉ちゃんがこの家にいる誰よりもいっぱい我慢して、いっぱい頑張っているんだって分かっている。そんなメルセデス姉ちゃんの負担を少しでも軽くすることが出来るなら、俺は姉ちゃんが安心して羽休めできる『癒しの泉』になろうと思う」
それを聞いたとき、私は久しぶりにガチ泣きしそうになってヤバかった。
「あ……えっと、私、どうやってイーノックにお返しをしたらいいのかな? どれだけ感謝してもしきれないんだけど」
「お礼なんていらないって。だってこれはいつも頑張ってくれいるメルセデス姉ちゃんへのお礼なんだから」
「あ、うん。えぁ、私、その……」
「ん? なに?」
「と、とりあえずパンツ脱いでベッドで横になっていればいいかな? その後どうするかはイーノック任せで申し訳ないが」
「ははっ、メルセデス姉ちゃんも重い冗談を言うときがあるんだね。ちょっと意外。シャズナ姉ちゃんならいつものことだから意外性は無いけど」
私は本気だったのだけれどイーノックは苦笑いをして話を流した。
弟のスルースキルが高すぎてツライ。
きっと普段からシャズナの猛攻を躱しているせいでスルースキルの熟練度がカンストしているのだろう。
何はともあれ二年前にその会話をして以来、私は同じ質問をすることなくずっとイーノックに甘えっぱなしだ。
甘え過ぎて、ふとした弾みで幼児退行している時があるのを自覚しているけれど、月に一日だけならいいじゃないかなって自分に言い聞かせている。
そんな経緯があって私もイーノックも納得している事なのに、あえて私の楽園を壊そうとする者がいる。
それは誰か。言うまでもなくシャズナだ。
シャズナに「そろそろ『癒しの日』をなくしていい?」と訊かれたことがあるが、そう言われることを覚悟していた私は微塵も動揺することなく泰然として答えた。
「私が何よりも大切にしている『癒しの日』を無くすだと? そうなったら私は本気で泣くぞ。いいのか? バーグマン侯爵家次期当主である私がお前に抱きついた状態で身も世もなく全力で泣かせてもらうことになるが、それを覚悟しての発言だのだな?」
私がそう答えて以降シャズナは二度とこのような世迷い事を言わなくなった。
そもそもシャズナは贅沢過ぎるのだ。
イーノックを占有できる時間が最も少ないのが私で、ひと月に一日だけ。
次がロッティで、七日間のうちで約二日。これはロッティの生活サイクルが七日のうち起きているのは二日だけで残りの五日は眠りっぱなしになるからだ。
その他の時間は全部シャズナが握っている。
イーノック本人の自由な時間というものがほとんどないけれど、私たちがいつもそばにいる日常に慣れきっていて全く負担にはなっていないようだし、下手に自由に行動させると無自覚にとんでもない事を度々やらかすので監視する意味でも一人にしない方が良いのだ。
私の髪を指で梳くように撫で続けるイーノックの手の温かさに、私の瞼はどんどん重くなってゆく。
あ、このままだと眠ってしまう。
限られた時間の中でもっとイーノックを感じていたいのに眠ってしまうのは勿体ない。
そう思うのだけれど、この心地良さからは離れられなかった。
私はもうイーノックから離れられない。
イーノックは私の癒しだ。
イーノックは私の心の拠り所だ。
だから、どこにも行かないで欲しい。
眠さに堕ちそうになりながら私はイーノックの腰に回した腕の力を強めた。
鼻先をイーノックの体に押し付けて胸がいっぱいになるくらい息を吸い、頭がクラクラするほどイーノックの香りを堪能する。
好き。好き。大好きだよイーノック。
好き過ぎて胸が張り裂けそうなくらい大好きだ。
もしイーノックが勇者としての戦いの中で死んでしまったりしたら、私はきっと悲しみと寂しさで狂ってしまうことだろう。
嫌だ。そんなのは絶対に嫌だ。
だから私はイーノックに戦わせない。
勇者の称号なんて忘れて、戦いに行かずに平和に過ごしてほしい。
イーノックにはずっと実戦童貞のままでいてほしいんだ。
そのためならお姉ちゃんはこの身を挺してでも必ずイーノックを守るからな。
「イーノック……童貞……お姉ちゃん、守るから……」
眠さで朦朧としながらも私は決意を新たにしながら意識をゆっくりと夢の国へと沈めた。
寝落ち寸前の私の呟きを聞いたイーノックが「え? 姉ちゃんが俺の童貞守るってどういう意味!?」って滅茶苦茶焦っていたらしいのだけれど、そこは安心してほしい。
どっちの意味の童貞もお姉ちゃんがしっかり守ってあげるとも。
だから愛しい弟よ。そんなに焦らず、ずっとずっと私の側にいるがいい。
必ず守り通してみせるさ。
なにしろ私、メルセデス・バーグマンは『お姉ちゃん』なのだからな。
ブクマ100件超えてたクマ~。100人以上もの方が拙作を継続して読んでくれているなんて!
ありがてぇ……ありがてぇ……。
これからも頑張るクマ~。これからもよろしクマ~。
 




