癒しの日
「メルセデス姉さん、リンゴが剥けたよ」
私の私室でイーノックは私のためにフルーツを用意してくれた。
「ありがとー。ねぇ、イーノックぅ、お姉ちゃんに『あーん』って食べさせてー」
そんな優しいイーノックに私は思いっきり甘えてねだる。
「しょうがないなぁ。はい、あーん」
「えへへへ~。あーん」
イーノックに食べさせてもらったリンゴは少し酸味が強かったけれど私にはどんな果物よりも甘々なお菓子のように感じられる。
あぁ、癒されるぅ~。
あの日、私が両親に言ったワガママは『思いっきりイーノックに甘えてもいい日を作ってほしい』という願いだった。
イーノックに頭を抱えられて、優しい言葉を掛けられて、私が無意識に抱え込んでいた色々なストレスが暴発した。
きっと私がずっと求めていた『甘やかされ』をイーノックが無自覚に与えてくれたので『我慢』の防波堤が一気に崩れたのだろう。
私の要求に父さんは絶句していたけれど「昨日のように周囲が引くくらいの壊れっぷりになるくらいなら……」と苦虫を噛み潰したような顔で私とイーノックが二人きりで過ごせる特別な日を作るのを認めてくれた。
母さんも難しい顔をしていたものの「問題をさらに拗らせているような気がするけど、しょうがないわね」と認めてくれた。
シャズナだけが「嫌よ! 私のイーノックなのに!」って最後まで抵抗したけれど、母さんに「お姉ちゃんがまた昨日みたいになっていいの? あんなお姉ちゃんをまた見たいの?」と脅迫されて「ひ、ひと月に一日だけなら……」と渋々折れた。
あのシャズナが折れるくらいなのだからそれほど私の泣きっぷりはひどかったらしい。
ちなみに一番深く関係してくるイーノックは話の流れが全く分かっていない顔でずっとニコニコしていた。
ソファに身体を横たえてリンゴを堪能した私はゆったりとした眠気を感じて目を細めた。
「姉さん、眠いならお昼寝する?」
部屋の掃除をしていたイーノックは床に飛び散っている血痕(性懲りもなく私の部屋に侵入してきたロメオという名の変態を撃退したときの血)を丁寧に拭き取りながら私に訊く。
「ん~? せっかくイーノックが一緒にいてくれる日だからぁ、お姉ちゃん頑張って起きてるよぉ~」
「今日は『頑張らない日』だろ? 『頑張る』も『我慢』も今日は無しだよ」
この日ばかりは幼い子供に還って甘えたい放題になっている私をイーノックは少しも咎めようとはせず、それどころか丸ごと包み込むように微笑んでくれている。
んふふふ~、天国ってこういう場所なのかな?
「ううん、起きていたいから起きてる。イーノック、こっち来て。こっち来て抱っこさせてー」
「はいはい」
イーノックは掃除していた手を止めて私の横に座った。
私は倒れ込むようにイーノックの膝に頭を乗せて、イーノックの腰に腕を回してギュッと抱きしめる。
はああぁ~、落ち着くぅー。
幸せ過ぎて昇天してしまいそう……。
こうやって抱きしめるのはいつもの事なので、私がおねだりするまでもなくイーノックは慣れた手つきで私の頭を撫で始める。
なんだか室内犬を愛でるような撫で方なので「くぅ~ん♡」と声を上げるとイーノックはクスクス笑った。
あぁ、脳髄が蕩けてしまうくらいに心の中が喜びに満ちているのを実感する。
月に一度だけでなく毎日がこうだったらどんなに幸せだろうか。
そう考える度に、もし本当にそうなったら私はどこまでもダメな人間に堕ちていく自信がある。
そしてそういう状況を本気で望むとしたら妹たちと命の取り合いをするレベルで戦わなくてはいけなくなるのは明白だ。
だから今はこのままでいい。むしろこのままがいい。
家族公認で私が幼児退行する日『癒しの日』が設けられてから九年。
振り返れば随分と長い間この『特別』な日を続けている。
まだイーノックが自分で判断ができないくらい幼いときに決まったこの『癒しの日』がずっと続いていることについてイーノックに不満じゃないのかと訊いたことがあった。
あれは確か二年前、私が十七歳でイーノックが十三歳の時だ。
私からの唐突な質問にイーノックは真剣な顔で考えて、言葉を選びながら時間をかけて真摯に答えてくれた。
「俺、メルセデス姉ちゃんはあの鳥のような人だと思っている」
イーノックはそう言いながら私の背後にある窓の向こうを見やった。
目線を追うように振り返ると、ぐんと高くなった秋空の向こうに渡り鳥の一隊がV字隊列で飛んでいた。
「渡り鳥?」
「うん。渡り鳥だとどこかに行っちゃいそうで縁起が悪いからあまり良い例えじゃないかもだけど、俺は姉ちゃんはあの先頭にいる鳥のような人だと思っている」
意味が分からなくて首を傾げたらイーノックは「ごめん、分かりにくかったよね」って、困ったように苦笑いをして頬を掻いた。かわいい。




