私の心が安まる事、私の心の拠り所
私が突然ギャン泣きを始めたのでイーノックもびっくりしたように目を大きく見開いていた。
幻滅されただろうか?
今まで積み上げてきた『良いお姉ちゃん』としての威厳が土台から崩れたようなものだ。
呆れられてもしかたがない。もう「お姉ちゃん」と呼んでくれないかもしれないな。
けれど私が噛み締めた喪失感は全く意味の無いものだった。
事態は全く予期しない方向に転がったからだ。
「んんー? こんなに泣いて、どうしたんでしゅかー?」
イーノックが再びシャズナに背を向けて私の側に来ると、ベンチで仰向けになっている私と目線の高さを合わせるために膝を折って私の手を握ったのだ。
「何か不安になった? 怖い夢見た? だいじょうぶ、僕がそばにいるよ。ね、もう不安になせないよ」
「おぎゃあぁぁ……ぁ?」
今度は私が驚かされる番だった。
おままごとの演技のはずなのにイーノックの言葉や表情は息が詰まるほどに迫真で、育児をしている優しいお父さんがここに降り立ったかのようだった。
あ、そうだ!
イーノックは去年生まれたロッティをずっと一人で育ててきた実績があるんだった!
溢れる魔力のせいで他の人には触れることのできない状態で生まれてきたロッティは魔力無効化の体質を持つイーノックにしか育てることが出来なかった。
そのせいでイーノックはごっこ遊びじゃなくて本当の育児の経験がある。
泣く演技をする私の手をそっと両手で包み込むイーノックの優しさはどこまでも本物で、私は演技を忘れて「あ、ううぅ?」と呻きながら戸惑っていると……ポフッと頭に手を置かれた。
「もう泣かないの? 恥ずかしがらなくていいよ。だってメルセデス姉ちゃんは子供なんだから思いっきり泣いていいんだよ」
イーノックはそう言いながら私の頭を撫でた。
えっと、イーノック? それ、演技? 本当に演技?
たぶんイーノックは子供役をしている私にアドバイスみたいなことを言おうとしていたのだろうけれど、子供らしくない生活を強いられている私にはその言葉が別の意味に聞こえた。
「いつも大人のフリをして頑張っているから、子供に戻る方法を忘れちゃった?」
「――っ!」
思わず目を見開くと、イーノックは体全体を使って私の頭を抱きしめて、まるで子犬を撫で回すように私の頭を撫でた。
「ここには僕たちしかいないから大人のフリはしなくていいよ。僕が読んだ絵本に書いてあったよ。いっぱい食べて、いっぱい眠って、思いっきり泣いて、思いっきり笑って、思いっきり遊ぶのが子供なんだって」
「う、ううっ……」
「だからね、お姉ちゃんも今日くらいは思いっきり子供になっちゃおうよ」
その言葉がとどめだった。
「う、ふぇっ! ふえええええええええぇぇぇん!」
自分の中にずっと積み重なっていくばかりだったプレッシャーや日々のストレスがまるで堰を切ったように溢れて泣くのを抑えられなくなった。
「うえええええええぇぇぇぇん! ひぐっ、うえっ、ふいいいいぃぃぃん!」
姉たる私がこんなみっともない姿を妹や弟に見せるべきではない。
心のどこかでそんな声がしたけれど抑えるのは無理だった。
「ひぐっ! うっ、うえええええええぇぇぇぇん!」
泣けば泣くほど私は悲しくなった。泣けば泣くほど私は不安になった。
だから私は必死になってイーノックの細い腰に腕を回して縋りついた。
そんな私を意外にもイーノックはしっかりと両腕で抱きしめ返してくれた。
私のギャン泣きに狼狽したのはイーノックではなくシャズナの方だった。
「ね、姉さん?」
ままごとの演技も忘れて私の近くに来てオロオロしている。
私の泣き声はあまりに大きくて母屋のほうにも聞こえたらしく、家から何人もの使用人が走ってきた。けれど私はもう使用人たちの目など気にしていられる余裕なんて無かった。
「うえええええええぇぇぇぇん! ひいいいいいぃぃぃぃん!」
私がイーノックに縋りついたままいつまでも泣き止まない。
あまりに異常な様子だったので使用人たちが顔から血の気を引かせて父さんと母さんを呼びに行き、さらに大きな騒動になった。
東屋の周囲は多くの人が集まって騒がしくなった。
けれどその時の私には外野がどうなっているかなんて気にしていられる余裕なんてなく、ただただ泣き続けた。
そして泣き疲れて眠るまで私はイーノックに抱きついていた。
翌日、目を覚ました私の瞼は赤く腫れていたけれど体が軽くなったのかと錯覚するほど心の中にあったドロドロしたものがすっきり綺麗になくなっていた。
私の行動があまりにも異様だったことを心配した両親が医者を呼んでいたらしく、目覚めてすぐに問診を受けさせられた。
問診が終わってすぐに心配顔の両親とイーノックとシャズナが寝室に入ってきた。
昨日の状態を思うと家族と顔を合わせるのが少し気恥ずかしかったけれど、醜態をさらした昨日の自分も『自分の一部分』だったのだと自分で理解できていた。
「先生、娘の容体はいかがですか?」
不安そうに尋ねる父さんに医者は難しい顔をしながら所見を述べた。
「診察した限りお体に異常はありません。魔力の通り具合も不自然なところはありませんでした。ですから昨日の件は別の要因だと思われます」
「別の。ですか」
「おそらく過度なストレスによる精神不安によるものでしょう。聞けばお嬢様はまだ十になったばかり。いくら本人に高い能力があるといっても大人と同じ職務に就かせるには早すぎる時期です。子供に期待するのは分かりますが過度な負担は人格に歪みをもたせますよ」
いくら医者とはいえ侯爵相手にズケズケと説教を垂れるわけにはいかない。けれど今の話の内容ほとんど直言したのと同じくらい分かりやすかった。
要約すると「子供にそんなキツイ仕事をさせるな」と諫言しているのだ。
医者が言いたいことは父さんも母さんもすぐに理解したようだけれど、二人とも気まずそうに私から目を逸らすばかりで明確な返事はしない。
子供な私でも両親が「あ、それなら全部の役職から外そう」って簡単に私を罷免出来ないのは分かる。私が現在就いている役職は王家の認可が必要になるほど高位の職位で、一度認可が下りたら私的な理由での退任は事実上不可能なのだ。
両親の様子からこちらの都合を察した医者がふぅ~と溜息を吐く。
「お貴族様の都合というものもあるのでしょうが、負担を減らせないのならせめてプレッシャーを和らげる何らかの措置が必要です」
「具体的にはどのような措置をとればいいのでしょう先生」
父さんがその提案に飛びつくように食らいつくと先生はその問いに答えずに私に目を向けた。
「何をするのがお嬢様にとって心が軽くなる事ですか?」
「私の心が軽くなること……ですか?」
「楽しくなる事や、心が休まる事でもいいですよ。それが私の言う『必要な措置』なのです。お嬢様がしたいことを教えてください。お嬢様が抱えておられる仕事との関係性が少ないものほど良いのですが」
「メルセデス、なんでも良いから言ってくれ。お前の今の立場を変更することは王家との関係もあって無理だが、それ以外であれば父さんがその願いを全力で叶えると約束するぞ。さぁ、何でも言ってくれ。メルセデスは何を望む?」
急に問われて私は困った。
考えてみれば私のこれまでの人生の中で『これが楽しかった』『これが落ち着く』と断言できるような経験なんて無い。
父さんと母さんに褒めてもらいたいから、褒められると嬉しいから、私は『良いお姉さん』『良い娘』であるようにずっと頑張っていた。
そして、ずっと我慢してた。
そうして積み重ねてきた無理が私にのしかかり、毎日の息苦しさに繋がって、褒められる事さえも負担に感じてしまうほど私は疲れて……今に至った。
改めて考えると分からなくなってくる。
私は何を愉しみにして生きていたのか。私は何を拠り所にして生きてきたのか。と。
私は思考のきっかけを探して部屋の中を見回して……私を心配そうに見つめているイーノックと目が合った。
私の心が安まる事、私の心の拠り所、か……。
このあと、私は生まれて初めて両親にワガママを言った。




