次女 シャズナ イーノックもきっとお姉ちゃんの体温が恋しくて寂しがっているに違いないわ
バーグマン侯爵家の次女シャズナ・バーグマンは粛然とした教会の中をカツカツとヒールを鳴らしながら少し急いだ様子で歩いていた。
彼女が足音を響かせているコロッツオ大聖堂には王国西方教区を司る西方司教の席がある。
六世紀前にここを地域布教の拠点にしたばかりの頃はただの馬小屋でしかなかったという教会も今では権力を誇示するかの如く荘厳で重みのあるドワーフ様式の大聖堂が建てられている。
礼拝堂の床は足元が映るくらいに磨かれた暗褐色の大理石で、柱は天井までびっしりと細やかな彫刻が施されている。
正面の祭壇には色鉱石を溶かして作ったステンドグラスを通した光が降り注ぎ、全体の雰囲気はどこまでも重厚で、庶民には近づき難いほどの神聖さを匂わせていた。
しかし、侯爵家に生まれ育ったシャズナはそんな虚仮脅しになんか有難味など一切感じられなかった。
単純に好みだけで言うなら硬くて足に負担がかかる石の床よりも柔らかくて温かみのある木の床のほうがずっと好きだし、美を計算し尽して作られた大理石の彫像よりもイーノックのだらしない寝顔のほうが遥かに尊いと思っている。
『あぁ、早く家に帰ってイーノックを抱きしめたい。イーノックもきっとお姉ちゃんの体温が恋しくて寂しがっているに違いないわ』
そんな事を考えながらシャズナはカツカツと靴を鳴らし、ブルンブルンとたわわな胸を揺らし、すれ違う多くの神父たちを前屈みにさせながら礼拝堂をL字に囲む回廊を過ぎて、ようやく目的の部屋の前に立った。
「待祭、シャズナ・バーグマンです。入室してよろしいでしょうか」
部屋の中からの返事は無く、代わりに中からドアが開かれた。
「どうぞ、待祭シャズナ様」
ドアを開けたのは神父見習いと思われる十二、三歳ほどの少年。美少年と言って差し支えないほど綺羅綺羅しい顔立ちで、シャズナは初めて見る顔だった。
『あら、また寵愛する子を変えたのですね司教様は』
心の中で呆れながらもシャズナは表情を微笑みに固定したまま、部屋の主に向かって頭を下げた。
「よく来てくれたね、待祭シャズナ」
この部屋の主である司教トロントは応接用のソファにゆったりと腰掛けていて、優雅に紅茶を嗜みながらシャズナに笑いかける。
トロントの齢は六十を越えているらしいのだが、角張った分厚い体つきと生気に満ちた肌艶を堅持しているせいで四十歳くらいにしか見えないほど若々しい。
「聡明なる西方司教様が名指しでお呼びなのですから、三階位も下の待祭たる私は何を置いてでも駆けつけますわ。たとえ先日の大雨の事後処置で色々とやることが山積みであろうとも」
「いやぁあっはっは、参ったね。そんなふうに目の笑ってない笑顔で嫌味を言わないでくれるかい?」
全ての指に高価そうな指輪を嵌めた手で正面の席を勧めるトロント。
シャズナが勧められるままその席に腰を下ろすと、先ほどドアボーイをしていた神父見習いの少年がそつなく紅茶を給仕してくれた。
「それにしても、司祭様と助祭様の二人の上役を飛ばして直接私を呼び出したのはどういうことでしょう」
せっかく用意してくれた紅茶にシャズナは手もつけず、早速話の本題に切り込んだ。
「さて、何故だと思う?」
「……」
シャズナは作り笑いで沈黙したままピシリと額に青筋を立てた。
早く帰ってイーノックをハグしたいのに、無駄な問答をして会話を楽しもうとしている司教に心底腹が立った。
そもそも大好きな弟とのスキンシップを我慢してまで教区での救民活動に従事していたのだ。まだまだやる事が多くて人手も時間も足りない。こんな所で世間話を挟みながら会話を楽しむような暇はない。
けれど、どんなに腹が立ってもシャズナはまだ司教に向かって怒れる立場ではない。ここで感情的になって今後の出世に悪影響を残すのも嫌だ。
こうなったら無駄話な問答でもさっさと答えて話を先に進めたほうが効率的だと割り切ることにした。
「私を呼び出した理由として考えられるのは私がバーグマン侯爵家の娘だから、とか?」
「さすがシャズナ君だ、察しが良くて助かるよ」
どうせ『救民活動のために義援金をもっと出せ』という話なんでしょうね。とシャズナは考えたが、トロントの話は予想外の方に向いた。
「あぁそんな嫌そうな顔をしないでくれるかい。今回は金を出してくれって話じゃない」
シャズナは思わず目を瞬かせた。貴族に対して金をくれと言わない神父なんてワンと吠えない犬を見たような気分だった。
「シャズナ君に来て貰ったのはキミが領主の娘だからではなく、託宣で指名された『勇者』のいるバーグマン家の家族だから、だよ」
「……え? 今回の呼び出しは勇者に関係することなんですか?」
「あぁそうだ。キミのご家族である勇者に関係することで少しでも早く伝えておいた方が良い情報を掴んだのでね、難民救済で忙しい時分と分かってはいたが、時間の掛かる正規の手順も省いて直接呼び出させてもらった」
「詳しくお聞かせ願えますか」
勇者、つまりイーノックが関わる話だと知ったとたん、シャズナはテーブルの上に身を乗り出して話に食いついた。
トロントは予想以上の勢いで食いついてきたシャズナに驚いたが、すぐにいつもの柔和な笑顔に戻って話を続けた。
「ここにいるミッシェル君はね、この西方本部と王都の総本部の通信使をしてもらっているんだ」
シャズナが改めて少年に顔を向けると、華やかな顔立ちの美少年は薔薇の蕾のような赤い唇を綻ばせて微笑んだ。
「なるほど。司教様の通信使として働いてもらうにはこれ以上ないほど適役な子ですね」
通信使はその名称の通り雇用者のメッセンジャーとして仕事をする。
けれど、そういった通信使の中には雇用者の役に立つ情報を積極的に、時には非合法な方法で集めてくるスパイのような者もいる。
トロントの話しぶりからして、このミッシェル少年は彼が囲っているスパイの一人なのだろう。
「まぁ、彼のメインの仕事は通信使なんかよりも私と同じベッドに入って可愛い鳴き声を上げることなんだがね」
トロントの隣に控えていたミッシェル少年は赤くした顔を恥ずかしそうに伏せてしまった。
「余計の事は良いので早く本題を聞かせて下さい」