イーノックがどんなにダメな子でもお姉ちゃんは一生愛し続けられるって自信があるわ
十年前の三月三日。
イーノックとの蜜月生活を失ったこの日は妹のロッティが生まれた日でもある。
その日の昼下がり。
春の訪れがまだ遠い冬空には鉛色の薄雲がかかり、びゅうぼぉと強い風が吹いていた。
暖炉の火はいつもより多めに焚いていたのだけれど本を持つ指先が冷えて痛いくらいだった。
いつもなら御用伺いのメイドがさりげなく部屋に来て暖炉に追加の薪をくべていくのだろうけれど、もうすぐ弟か妹が生まれるので屋敷全体がそわそわとして落ち着きがなく、メイドがこの部屋を訪れる回数が少ないのでさっき自分で暖炉の薪を足しておいた。
母さんが籠っている寝室の横の部屋には現在簡易祭壇が組まれている。
そこでお父さんが昨日の夜からずっと祈りを捧げていた。
お母さんと結婚させられるまでは神殿騎士だったお父さんは司祭級の神聖魔法が使えるのでお母さんの陣痛が始まってからずっと祝福魔法をずっと張り続けているのだ。
ウチみたいな貴族の家で子供が生まれるとき、人の出入りの多さに乗じてコソ泥が入り込んだり、最悪の場合だと政敵が放った暗殺者が忍び込んで来る場合もあるので、出産予定日が近くなった二日前から特別な警備態勢が敷かれている。
臨時で雇われた警備員たちの指揮を執っているのは騎士団で隊長格にまで出世しているメルセデス姉さん。生真面目な姉さんは朝日が昇る前から屋敷の周辺を巡回警備している。
そんな中、特にやることも役目もない私は自分の部屋で算数の教科書を開いたまま頬杖をついて窓に目をやり、遠くに霞む山々をぼーっと眺めていた。
歴史、文学、魔術学、それぞれの先生から山のように宿題を出されているので本当はやるべきことはいくつもあるのに何もやる気が起きない。
原因ははっきりしている。
イーノックが私の側にいないからだ。
私がイーノックをお気に入りのヌイグルミのように連れ回すようになっておよそ二年が経過している。
イーノックは六歳になった。
当然イーノックは二年分成長して体がけっこう大きくなったけれど同じくらい私も成長しているので体格の差はそれほど変わっていない。
これまでと同じように後ろから抱きつくと、これまでと同じようなフィット感でいつまで抱き合っていられる。
……けれど、最近のイーノックは私が抱きつくとイヤイヤと首を振って私から離れようとするようになった。
もしかして私嫌われてる?
否定。
断じて否定する。
この私がイーノックに嫌われてしまうなんて有り得ない。
そんな事態なんてあってはならないし、もしそうなら世界が狂っているということなので、そんな世界は滅んだほうが良い。むしろ滅べ。
考えるまでも無く私に非が無いのは明らかなので、残る可能性としては何かしらの行き違いが生じていているケースだ。
イーノックに距離を置かれるようになる前にイーノックとの会話で変わったことがなかったかと記憶を手繰り寄せてみた。
私が最後にイーノックを抱きしめていたのはおよそ四十六時間前のことだ。
四十六時間前……あ、ダメ。イーノックに触れられないまま二日が経ってしまう。
胸が苦しい。涙出そう。
……いけない。今は悲しみに打ちのめされている場合じゃない。ちゃんと考えなきゃ。
最後にイーノックを抱きしめていた時はどうだった?
私はイーノックを背後ろから抱きしめてあの子の銀灰色の髪に鼻先を突っ込んでつむじの匂いをクンクンと堪能していた。
イーノックはいつものように私のされるがままになっていて大人しく本を読んでいた。
イーノックがまだ覚えていない綴りの単語が出てくると私に質問して私が優しく答える。
いつも通りの日常で何の変わりもなく私たちは平穏な時間を過ごしていた。
……ん? そういえば他にも何か話してたわね。
「ねぇシャズナ姉ちゃん」
「なぁに? 読めない単語があるの?」
「そうじゃなくてさ、僕……もう六歳なんだけどね」
「そうね、六歳ね。イーノックがお姉ちゃんと結婚できるようになるまであと九年と百五四日。待ち遠しいわね」
「えっと、そういうことでもなくてね?」
「あ、ごめんなさい。そんな大切な事はイーノックも当然覚えているよね。魂のカレンダーに刻まれてるよね。お姉ちゃん分かってるよ。で、何か他にお姉ちゃんに伝えたい事があるの? お姉ちゃんが大好きって気持ちなら言われなくてもビンビン伝わってきているから大丈夫だけど、ちゃんと言葉にして言ってくれるならそれはそれで大歓迎よ」
「えっと、そういう事でもなくてね……僕、魔術がまだ使えないんだけどさ……もう六歳なのに。シャズナ姉ちゃんもメルセデス姉ちゃんも僕と同じ年にはもう魔法使えてたんでしょ? 聞いたら同じ歳の子も全員使えてて……僕だけまだ一回も使えてなくて……」
「なぁんだ、そんな事で悩んでたの?」
「そんな事って……僕けっこう真剣に困ってるんだよ?」
「大丈夫よイーノック。もしこのままイーノックが全く魔術を使えなくったってお姉ちゃんがいつも側にいるから何も問題はないわ。魔術が必要ならお姉ちゃんが代わりに使うから。イーノックはぜーんぶお姉ちゃんに任せてくれればいいのよ」
「でも、それじゃあ僕、何もできないダメな子になっちゃうよ」
「大丈夫。イーノックがどんなにダメな子でもお姉ちゃんは一生愛し続けられるって自信があるわ。だから何も心配しないで。ねっ☆」
「……そっか、僕がどれだけダメでもシャズナお姉ちゃんは平気なんだね」
「そうよ~。難しく考える必要なんてないの。イーノックはそのままでいいの。お姉ちゃんはありのままのイーノックのぜ~んぶ受け止められるわ。だってこんなに愛しているんだもの」
私はイーノックを包み込むように手足を絡めてイーノックを抱きしめ直すと、イーノックは少し体を硬くさせて黙り込んだ。
……うん。記憶を手繰ってみても、どこにもおかしなことなんて無い。
あの時のイーノックは魔術が使えない事を悩んでいたようだったけれど、私が全力の愛を説いて安心させたので悩みは完全に払拭されたはず。
それなのに、なぜか次の日からイーノックは私に抱っこされるのを嫌がるようになった。
わかんない。
なぜイーノックが私の抱っこを嫌がるのか全然わかんない。
わかんな過ぎて胸が苦しい。
きっとイーノックをギュッと抱きしめればすぐに治っちゃうんだろうけれど肝心のイーノックが抱っこさせてくれない。
「あー、もぉー……」
自分でもなんて言えばいいのか分からない感情を持て余してベッドにダイブ。
うつ伏せになって足をバタバタさせながら意味の無い呻き声をあげていると――、
「ギャアァアブブブブブブブブブブブッ!」
お母さんの寝室のほうから今まで聞いたことの無い珍妙な悲鳴があがった。
え? なに今の!?
部屋の外がにわかに騒がしくなったのでドアを開けると、何人ものメイドたちが小走りで廊下を行き来している。
「ねぇ、今の声はなに? もしかして赤ちゃん生まれたの?」
耳に残る奇声が赤ちゃんの産声だとは思えなかったので目の前を通るメイドの一人に訊いてみたら、そのメイドはオロオロと目を泳がせながら教えてくれた。
「お嬢様の妹様が生まれたので出産の補助をしていたシスターが黒焦げになったんです!」
「……はい?」




