三女 ロッティ 強い魔物ならロッティが触っても死なないかもしれない
ここからは三人称視点です
イーノックたちが暮らすバーグマン侯爵領と帝都の間には二つの他貴族の領地がある。
そのうちの一つであるオロローム伯爵領で領内警護を担当している伯爵家私兵『黒鷹騎士団』の団長が忌々しそうに悪態を吐いていた。
「くそっ! やっと大雨が去ったと思ったら今度は大型害獣かよ。大地母神様は何が気に入らなくて我らにこんな試練をお与えになるのやら!」
ようやく晴れた夜空にかかる三日月が森の中で蠢く騎士団の団員達をうっすらと照らしている。
彼らの顔は総じて生気が薄く、連日の出動による疲労がその顔に色濃く浮かんでいた。
「まぁまぁ、そんなに怒らないで下さいよ。大地母神様はきっと長期休暇中なんです」
カリカリと苛立つ団長に向かって柔和な笑顔を絶やさない糸目の副団長が冗談めかした声でそう応じた。
「長期休暇だと? 神様がか? 俺だってここ数年間三日以上続く休暇なんて貰ってねぇのに! ったく何様のつもりだ!」
「いや、何様も何も『神様』なんですよ」
副団長の後ろに続いている団員たちからクスクスと忍び笑いが漏れて彼らの顔に少しだけ生気が戻った。
「う、うるせぇ、上げ足取るんじゃねぇ!」
団長が恥ずかしさを紛らわせるように槍を横薙ぎに振って前方の雑木の茂みを斬り払う。
すると細い枝葉が落ちた向こうに探索していた大型害獣の戦熊が、今にも襲い掛かろうとする体勢で待ち構えていた。
「あ……」
「ガ、ガウ!?」
まさかそんなところに熊が隠れているとは思っていなかった騎士団団員たちと、まさか奇襲が失敗するとは思っていなかったワーベアー。お互いに予期していなかった事態に陥って、瞬間的にこの場にいる全員が硬直したように動けなくなった。
「――ちょ、ちょっと、団長何てことしてくれるんですかぁー!?」
真っ先に硬直から立ち直った副団長が悲鳴のような声を上げた。
「馬鹿野郎! これ俺のせいかよ、ふざけ――」
全部言い切る前にワーベアーが前足を振り下ろして団長を攻撃。団長は両手で握りしめた槍の柄でその攻撃を受けたが、力を受け止めきれずに体が横にすっ飛ばされた。
「筋力強化!」
「防御強化!」
団員の中にいる二人の魔術師から支援魔法が送られてきた。副団長に。
「ばっ! 先に俺へよこせよ!」
隊列から強制的に外された団長が喚くが魔術師は無視。反論する間も惜しんで、
「筋力強化!」
「筋力強化!」
二人の射手へ支援魔法を送った。
「団長ならあと一、二撃は自力で避けられるでしょう! 団長が吹っ飛んだせいで最前に立たされることになった私を最優先して支援したのは最良手ですよ!」
団長に追撃をかけようとして意識をそちらに向けていたワーベアーの側面から副団長が槍を突き出した。
しっかりと力が入っている槍の穂先がワーベアーの脇腹に突き立つ。
しかし、槍を握る手に確かな手応えが返ってきたのは一瞬だけ。
「――え?」
次の瞬間には槍先がワーベアーの体表を滑って刺突の攻撃力は完全に逸らされた。
「刺さらない? 支援魔法を受けているのに!?」
愕然とする副団長の頭上を二本の矢が飛ぶ。
矢はどちらもワーベアーの胸部に命中。けれど矢はワーベアーの体に食い込むことなくポトリと空しく地面に落ちた。
射手が続けて二射、三射と続けるが結果は同じ。
「ど畜生があああぁぁ!」
その間にようやく支援魔法を貰った団長が渾身の力を込めてワーベアーの腕を突いた。
が――、
「……おいおい嘘だろ? これでも俺は腕力に自信あるんだぜ?」
槍はまるで岩でも突いたかのように弾き返されてしまった。
「団長……コイツって、もしかして……」
団長の槍はワーベアーの体を傷つけることはできなかったが体毛を刈ることは出来た。三日月の仄かな明かりに照らされて、体毛が刈られた部分から硬そうな地肌が見える。
「な、なんだと。黒じゃない。青色の肌! 熊型で青色の肌ってこたぁ……」
「団長、コイツは戦熊じゃない! 上位種の闘士熊だ!」
「ガオオオオオオオォォォ!」
団員たちの波状攻撃がようやく止んで『次はオイラのターンだ!』と言わんばかりにウォーリアーベアーが雄叫びを上げて団員たちに攻撃を仕掛けてきた。
「逃げろ! 後衛四人を先頭にとにかく逃げまくれ!」
一撃一撃がやたらに重い前足の攻撃を槍で受け捌きながら団長が団員たちに向かって撤退命令を出す。
「しかし団長! ここで私たちが逃げたら近隣の村人が!」
団長の横で同じように防御に徹している副団長が反論。
「馬鹿野郎! 勝てる見込みがミジンコほどでもあればそうするがよ、俺たちじゃ死なないように防御するだけで精いっぱいだ! それも長くは続かねぇ! 俺たちがここで戦って死んでも、戦わずに逃げても、最終的にコイツは村に行く! 結果が同じなら逃げたほうがいいに決まってるだろうが!」
「確かに!」
「煙幕弾を使う、合図と同時に全員後ろに下がれ! そして全力逃走だ!」
「了解!」
「ん?」
豪華な箱形馬車の中で退屈そうに外を眺めていたバーグマン侯爵妃パネー・バーグマンは妙な気配を感じてそちらの方に注意を向けた。
「パネー様、どうされました?」
専属メイドのエミリーが問いかけるとパネーは夜の闇に沈んだ森の一角を扇の先で指した。
「あの辺から害獣の気配がするわ」
エミリーは示された方角に目を向けたが、森はかなり遠くて馬車でこのまま進んでも五分はかかりそうなくらいに距離が開いていた。
「……何も見えませんが?」
「そのうち見えてくるわよ。ロッティ、起きてる?」
パネーは自分の隣の席に据え付けてある棺型の寝台の蓋を扇の先でノックすると、
「起きてる」
仄かに青白く光っている棺の中から幼い声で返事があった。
「あれ、何かわかる?」
返事の代わりに棺の中から薄い魔力の波が放たれた。
「この感じ、たぶんクマさん」
「クマさん? ワーベアーかしら」
「もうちょっと強いっぽい」
「じゃあウォーリアーベアー?」
「名前は知らない。……お母様、見て来ていい? 強い魔物ならロッティが触っても死なないかもしれない。ね、見て来ていい?」
棺の中の声がちょっとワクワクしてる声色に変わった。
「そうね、道中ずっとその中で大人しく良い子にしてたし、これくらいはいいでしょう」
「パネー様、それは危険なのでは?」
エミリーが顔を引きつらせながら翻意を促してみたが、パネーは意地悪な顔で微笑みを返した。
「いいじゃない。どうせここは私の領地じゃないし、もし何かあって数ヘクタールくらいの農地が消し飛んだとしても私は痛くも痒くもないわ」
「オロローム伯爵様が痛そうに顔を歪めているのが簡単に想像できますよ。後で文句を言われませんかね?」
「大丈夫、言われないわ。ウォーリアーベアーをこのまま放置しておけば農村の三つ四つがあっという間に壊滅よ。それに比べたら農地の消滅なんて些細なものでしょ、だって村人が無事なら農地はまた作れるんだから。ほら、馬車を止めて。ロッティを外に出すわよ」
パネーの説得を諦めたエミリーは御者に声を掛けて馬車を止めさせると、御者と一緒に馬車から二十メートルほど離れた。
「あれくらい離れればいいかしら。ロッティ、出て来ていいわよ」
翌日。
黒鷹騎士団の団長が総勢三十二名の団員を全員招集し、ウォーリアーベアーの出現を知らされた伯爵から緊急派遣された上級魔術師三人と共に害獣の出現地点を再捜索していると、焼け焦げた農地の真ん中でサボテンのよう形で炭化しているウォーリアーベアーを発見した。
「い、いったい誰がこんな凄まじい殺し方を!?」
団長は墨になった熊を見上げてガクガクと膝を震わせた。