長女 メルセデス B面 しょうがないにゃー、じゃあお姉ちゃんで童貞卒業する?
……と、まぁ、さっきまではカッコイイと思ってたんだよ。
「いーのっくぅ~。お姉ちゃんつーかーれーたー。つぅーかぁーれぇーたぁー。ずっとずっとお仕事してたからぁ~、すっっっごい疲れたよぉ~。優しくしてぇ~。労わって~。お姉ちゃんがダメになるほど甘々に甘やかして~」
二階と三階を繋ぐ階段前には公私の空間を明確に分けるための扉がついている。
その扉を抜けて、扉が閉まった途端にメルセデス姉ちゃんは背後から俺に覆いかぶさってきて我がまま甘えん坊状態にモードチェンジしたのだ。
さっきまでの姉ちゃんとギャップあり過ぎだろ。
「あ、うん。お疲れさま。自分お部屋でゆっくり休んでね」
俺の首に絡められた両腕を外そうとすると「えー、なにそれー、いーのっくが冷たぃ~」って、子供が駄々を捏ねるようにイヤイヤと体を左右に振る。
ぐえっ! ちょ、首締まるっ、苦しっ!
「あ、そーいえばぁー、イーノックは今回初めての実戦を経験したんだよねぇ、おめでとぉー」
俺にまとわりついた手を持ち上げて「うふふ~」と笑いながら指先で俺の頬を撫でる。
「実戦? 今回の護岸活動が? 違うよ、あんなのは実戦じゃない。モンスターとか魔族とかの敵なんて全然いなかったし、そもそも戦ってないんだから」
「えー、じゃあイーノックはまだ実戦童貞ってことぉー? いいじゃん、べつに戦ってなくても『勇者』として現場に出たわけだしぃー、実戦童貞卒業しましたーってことでぇー」
「そんなインチキは嫌なんだ。俺は本当の意味で実戦を経験したいんだよ」
「まったくイーノックは頑固だねー。しょうがないにゃー、じゃあお姉ちゃんで童貞卒業する?」
「それ意味違うよね? というか本来の意味での童貞卒業ってことだよね?」
「うん、危険な方の実戦じゃなくて、気持ちいい方の実践だよー」
「いやいやいやいや! そっちはそっちで危険だから! 別の意味で危険だから! 俺たち姉弟だから! 教会の禁忌に触れるから!」
「冗談だってば~。えへへへへ~。ちょっとだけ冗談だよ~」
おかしい。
五分前まで確かに存在していたメルセデス姉ちゃんはどこにいったのだろう?
キリリと引き締まった顔つきをしていた気高く凛々しいメルセデス姉ちゃんはどこにも見当たらず、かわりに=ω=な感じの覇気の全く感じられない緩い表情をしながら俺に寄り掛かっているスライムみたいなお姉さんがいるんだけど……。
俺はスライム姉ちゃんを背中に引っ付けたまま四階まで階段を登って、姉ちゃんの部屋の前で足を止めた。
「姉ちゃん、部屋に着いたよ」
「ありがとー。ねぇねぇイーノック、お姉ちゃんベッドまで運んでー。お姫様抱っこで」
「わかったよ。ずっと働いてたんだもんな。それくらいするよ」
「やったぁ~」
子供のように無邪気にはしゃぐメルセデス姉ちゃん。
とても俺より四つ年上の一九歳だとは思えない。
リクエスト通りにお姫様抱っこで侯爵家次期当主をベッドまで運ぶと、ベッドに下ろされた姉ちゃんはニコニコととても嬉しそうにしていた。
「ありがとーイーノック。大好きぃー。愛してるぅー」
「はいはい。俺も愛してるよ」
「イーノック様、妬ましくなるようなお喋りはこの辺で止めて頂けますか。お嬢様はお疲れですのでもう休ませますね」
「あ、うん。わかったよロメオさん。じゃあ姉ちゃん、ゆっくり休んでね」
「あーい」
本当に眠さが限界にきているらしいメルセデス姉ちゃんは子供のような舌足らずな返事をした。
俺は部屋を出て隣にある自分の……エッ!?
あまりにも堂々としていたので気付くのが遅れた俺は急いで姉ちゃんの部屋に戻ると、姉ちゃんの部屋にしれっと侵入していたロメオさんの首根っこを掴んで廊下まで引き摺り出した。
「何やってんですかロメオさん。いつの間にかいなくなっていたと思ったらこんなところに無断侵入して」
「お嬢様に対する溢れる忠誠心と無限の愛が私を突き動かすのです。しかたないのです」
「カッコイイこと言ってもダメだからね。ちゃんと節度を持って接してね。家族以外が四階に上がるのは母さんの許可が必要だって前から何度も注意してるよね?」
俺はロメオさんが頭に被っているパンツを剥ぎ取って、パンツの持ち主が寝ている部屋の中に投げ込んでおいた。
「ああっ! 私の今日のおかずが!」
「いい加減にしないと、母さんに言ってクビにするよ?」
「うう……。それだけはご勘弁を……」
翌日。
朝のランニングを終えて家に戻って来ると、一階で既に仕事を始めている官吏とメルセデス姉ちゃんが大きな机に領内マップを広げて何かを議論していた。
俺は仕事の邪魔をしないようにできるだけ気配を消して通り過ぎようとしたのだけれど、
「おはよう愛しの弟よ。今日も欠かさずにトレーニングかい? 偉いな」
戦姫の二つ名を持つメルセデス姉ちゃんにはすぐに気づかれてキラッキラな笑顔で挨拶をされた。
「おはよう。姉ちゃんはもう疲れは取れた?」
「あぁ、おかげさまで一晩ですっかり回復したよ」
ニコッと白い歯を輝かせているメルセデス姉ちゃん。
姉ちゃんの横では何かの罰かのように大量の資料の束を持って控えているロメオさんがいて、凛々しいお姉ちゃんの横顔を見ながら「あぁ。今日も素敵です、素敵です、素敵です、パンツ食べたいです、素敵です、素敵です……」と呪文のように言い続けているけれど、朝っぱらから不浄なものを見たくない俺は見なかったことにした。
ともかく、今のメルセデス姉ちゃんは完璧で、バーグマン侯爵家の次期当主として現在不在の母の代役を過不足なくこなしていた。
官吏から渡される書類に目を通しながら流れるように決済して指示を出している。
午後からは本来の職務である騎士団団長としての仕事に向かうらしく、ピッチリとしたパンツスタイルの白い騎士団の制服を着ている姉ちゃんは男装の麗人と言うべき綺羅綺羅しさを周囲に放っていて弟の俺から見てもなんだか眩しく感じてしまう。
とてもじゃないが昨日のグダグダな姉ちゃんと同一人物だとは思えない。
本人は仕事の時とプライベートの時のオンオフを使い分けているだけだと前に言っていたけれど、オンオフの落差が激しすぎて、もう二重人格と表現してもいいくらいだと思う。
ま、どちらにしても――。
「姉ちゃん、あまり頑張り過ぎないようにね」
すでに議論に戻っていた姉ちゃんの背中に向かって、俺は独り言のような小さな声で言って自分の部屋に戻る。すると――、
「イーノック!」
別に聞こえていなくても良かったのだけれど姉ちゃんには俺の声が届いていたようで、すぐに姉ちゃんに呼び止められた。
「なに?」
振り返るとメルセデス姉ちゃんが人前なのに珍しく表情を緩めると、純白の百合の花が咲き綻ぶような笑顔を見せてくれた。
「ありがとう。愛しているよ」
公の場ではいつもスパッと切れるように鋭い目つきをしているメルセデス姉ちゃんのレアな笑顔に周囲にいた役人たちが呆然となりながら顔を赤らめて見惚れている。
その隣で「お嬢様ぁ! 素敵すぎますー!」と鼻血を噴出しているロメオさんがいなければ一枚の絵になるくらいの華麗さだった。