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注がれる水に、容認できずとも

作者: 滝島清一

自分にはないものがしきりに頭を埋め尽くそうとするから、ここに来るにはいつまでたっても慣れないが、かび臭い205号室は実は空っぽな僕を新しい場所へ導いてくれる船のようなものかもしれない。その船を漕ぎ続けて何日経っただろう。

初めて由佳とここに来た時は、緊張と興奮の2つの風船がほとんど同時に針を刺されて破裂したようなセックスをした。しかし破裂した時に放たれた感情は、1年という時の中でちょろちょろとだったりなにかが爆発したように轟々と流れていったりして、もう底を尽きて空っぽになってしまったのかもしれない。つまり、僕はもう由佳を好きではなかった。それでも由佳は僕を求めた。由佳の風船は破裂しても破裂してもまた何度も新しい風船を膨らませてしまう。どうしてこうもうまくいかないのだろう。人と人はすれ違ってしまうのだろう。

何回目かのこの部屋で、今日も僕は由佳と抱き合った後、ひどく虚しくなる瞬間があった。別れを告げようと思っていた。

僕は服を着た後たばこが吸いたくなったが、由佳にたばこは辞めるよう説得されたのを思い出したから、その代わりに話しかけた。

「なあ由佳、そろそろ付き合いはじめて丁度1年が経つよな」

「意外だね。覚えてるんだ」

「ああ。でも来年には忘れているかもしれない」

由佳は目を合わさずにいた。驚きもせず表情を変えないのは僕の気持ちを既に察していたからかもしれない。

「大丈夫よ。わたしが覚えてるから」

「そうじゃない。由佳が覚えていたとしても、その時もう僕はそばにいないかもしれないということだ。今だって、たばこを吸いたいんだ。そういうことなんだ」

2人が205号室を出た後、駅まで向かう道は共に無言だった。2人でいれば気にならなかった都会の喧噪が、今日になって突然2人を疎外していくような感覚にした。このまま喧噪の中に飲み込まれてバラバラに引き裂かれてしまうのだろう。なんとなくそんなことを予感した夜だった。


あれから由佳とは離れた生活をつづけた。仕事では売り上げのノルマを達成したり達成しなかったりした。仕事の状況がどうであれ、自分にとってはなんの意味があるのだろう。運よく入社できた職場で、上司の顔色を伺いながら、それでも汗水たらして働くような自分の人生になにを求めればいいのだろう。そんなことを考えるようになったのはいつからだろう。そうだ、間違いなく由佳と離れてからだ。

仕事帰りの電車の中、ipodのシャッフルで再生された曲のタイトルを思い出そうとしていた。

『跪き手をついて私に謝りなさい』その歌詞を聴いて、これは由佳が薦めてくれた歌手の曲だと思い出す。この歌手は暗い曲ばかり歌っていて、正直あまり聴く気になれなかったが、今日はその曲を聴いて帰ることにした。休みの日はとにかくどこかへ出かけた。しかしなんとなく由佳を思い出してしまう自分がいた。映画を観に行けば感想を由佳に伝えたくなるし、遠出をして観光する時なんかはほとんど由佳が隣にいることを想像していた。けれどそんなことはもう叶わないただの妄想になってしまった。今でも由佳は本を読むだろうか。映画を観るだろうか。水族館に行くだろうか。美術館に行くだろうか。涙が止まらなくなる夜があるだろうか。僕を思い出すことがあるだろうか。自分から別れを告げたのに、由佳のことが頭から離れなくなっていた。何回も何回も膨らませてしまう由佳の風船に針をあて続けたのに。仕事だけでなく、日々のあらゆる場面で、自分が生きていく意味を埋めていたのは由佳だったのかもしれない。増えていく風船はもう割らずに、せめて空へ投げてやるようなことが何故できなかったのだろう。僕の風船が破裂しそうになったある日の仕事帰り、僕は由佳に電話をした。

「もしもし、どうしたの?」

久しぶりに聞く由佳の声は虚しいくらいに澄んでいて、懐かしい感触が僕の耳あたりに響いた。

「突然ですまない。最近どうしてるかなと思って。そういえばこの間由佳が好きだと言っていた映画を観たよ。由佳は今でも映画は観るのかい?」

「観ないわ」

「そうか、由佳が薦めてくれた歌手、あのアルバムはやっぱり途中で眠くなって、まだ最後まで聴けてないんだ」

「そう、やっぱりあなたには合わなかったのね」

「付き合い始めた頃、2人で行った美術館さ、新しい展示を始めたね。もう行ったかい?」

「まだ行ってない。でも、あなたにはきっと合わないわ」

「なあ由佳、突然あんな別れ方をした僕を怒ってるかい?」

「怒ってない。ただ、絶望はしてるかな。最近眠れないの。その理由がわかる?好きな人が隣にいないからよ。それ以外の理由で眠れない人なんているのかしら」

「そんな人はきっといないよ」

「ねえ、あなたは何者なの?ひとりでいるのがこわいから私のそばにいたの?一瞬のすかすかの安心のために誰かを求めるの?それがたまたま私だっただけでしょう?幸せになるために生きてるのに本当の幸せなんてないって気付いてるんでしょう?眠れない夜がある?頭を空っぽにできなくなるような夜があなたにはある?私にはあるわ。私はあなたをこんなにも想っていてもあなたは私のことなんてこれっぽっちも想ってない。こんな報われない話がある?みんな何者かになりたくて本を読んだり映画を観たり美術館に行ったりするんだわ。あなたはなんのためにそれをしてるの?私の機嫌を損ねないため?あなたは一体、私の何者なの?」

迫り来る由佳の言葉たちが僕の胸を突き刺していく。しばらくなにも言えなかった。どうにかして言葉を紡いで、やっと僕は口にした。

「由佳、僕はね、由佳が心から愛している人だ。そして......」

純粋な気持ちだった。1番大切な気持ちをどうしてすぐに伝えられないのだろう。

「そして、由佳を心から愛していた人だ」

電話は切れてしまっていた。もういつから電話が切れていたのかわからないくらいに、僕は由佳と真剣に向き合っていた。


「今度個展やるから来てくれよ」

騒がしい居酒屋で高校時代の友人である修二が5本目のたばこに火をつけながら言った。

修二は美術系の大学に通い、卒業した後もひたすらに絵を描き続けた。なにもない僕にはそれができる修二が少し羨ましく思っている。

「由佳ちゃんも誘ってさ」

もう由佳のことを思い出すことはほとんどなかった。

「由佳とは別れたんだ」

それに対しては修二は驚きもせず、ジリジリと燃えるたばこを見つめているだけだったから僕は話を続けた。

「趣味も価値観もあうと思ってたんだけどな。でもそこに恋愛ってものを少しでも挟んでしまった瞬間に、2人の関係は信じられないくらいうまくいかなくなる。そういやさ、修二から借りてた本読んだ。あんなに夢中で読んでたのに結末が思い出せないんだ。でもね、それでいいやって思ってる。結末が思い出せなくても、なんとなくいいなって感覚だけが残ってる」

「そっか、でもさ、そんな人生がいい」

修二がようやく口を開いた

「そう、そんな人生でいいと思ってる。個展、一人で行くよ。正直絵のことはあまりわからないけど」

「おう、ひとりでもなんでも、とりあえず来たらいい。実はさ、俺だって絵のことなんかわからないんだよ。でも、絵がとにかく好きで好きでたまらないんだ。その気持ちだけで絵を描き続けてる。それだけで幸せなんだ。孤独だったとしても、大好きな絵と向き合ってる時間は、自分にとって最高に幸せなんだ」

僕は、一体何者なんだろう。不意に由佳の言葉を思い出した。好きで好きでたまらないものが僕にはあるだろうか?探してみたところでなにも見つからなかった。


帰り道、僕と修二はひどく酔っ払っていた。都会の喧噪はもう気にならなくなり、堂々と歩けるようになった。修二は笑いながら話をしていて、僕も声を出して笑っていた。それ以外になにが必要なんだろう。辞めたはずのたばこを久しぶりに吸いたくなって、コンビニでたばこを買った。すると、あの日の205号室が頭に浮かんだ。きっと今でもあの場所は、誰かと誰かが求めあったり、あるいは離れ離れになっているのかもしれない。コンビニから出ると、僕は何にだってなれる気がしていた。もう幸せがなんなのか、気づきはじめているのだから。


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